人を斬るとき、刃こぼれを防ぎ、切れ味を増すために「ねたば」ということをします。
慶長十五年九月九日(重陽の節句)、二代目・忠義公の命により、松本市左衛門というものが仕物(上意討ち・放ち討ちとも言う)になりました。その時の討手は渡邊半左衛門と丹石流の使い手・竹嶋勘右衛門です。
その前日、討ち取りの密命を受けた竹嶋は下城後、研ぎ師を訪ねると「よんどころない訳ができたので、この刀に"ねたば"引いてくれないか」と頼みます。坂野というその研ぎ師は技術を尽くしてねたばをひいて渡します。
そして九日、二人は見事松本を討ち取りました。それから二百年後の文化の頃まで、重陽の日には竹嶋家では蒸しものを作って内祝いをし、その蒸しものを研ぎ師・坂野家にも届けていました。そして坂野の方からはお祝いに魚を贈ったと言います。
武家には、討ち取った名将・勇士の菩提を祀るため、その日は精進とする風習がありました。竹嶋家の「蒸しもの」というのはおそらく、その精進料理なのでしょう。
精進料理であればその日、竹嶋家に魚類が並ぶことはありません。坂野の方が魚類を贈ったというのはおそらく、そのことを踏まえてのことではないでしょうか。
功名・手柄などというと、どうしてもそれを立てた人にばかり目が行きがちです。しかしながら、功名・手柄の蔭にはそれを支えた人達がいるわけです。その人達のことを忘れてはいけないと言う戒めがこの「蒸しもの」には込められているのでしょう。
また、例えば古くは足利尊氏が後醍醐天皇をお祀りするために天竜寺を建てた如く、「自らが滅ぼした者は自らの手で祀らなければならない」という古い武門の習いが武将クラスだけではなく、士分の間にも連綿と受け継がれていたことを知る一例だと思います。
四代豊昌公といいますと、林六太夫を召し抱えた殿様として英信流の方の中にはその名を記憶されている方も多いと思います。
その豊昌公の御代、延宝二年に、濱田六丞(ろくすけ?)など数名の者が公金を横領するという事件がありました。
それぞれの者は受牢の上、翌年六月まで吟味され、本人は勿論、その子弟までも処刑となりました。
濱田には吉平と言う、男振りよのよい弟がいて、弓が得意であったため、浪人して紀州で弓を学んでおりましたが、処刑のことを知ると師匠に断りを告げ、土佐に戻ってきました。
そして歩目付役の横山源兵衛方にでむくと
「私は濱田の弟で吉平と申す者でございます。この度のことがあったとき、私は御国におらず、紀州におりましたが、このことを聞いて急ぎ帰国いたしました。どうぞ、私のこともいかようにも御処分願いたいと存じます。」
と申し出たそうです。
このことを早速言上いたしますと、その志を感じ思し召しになり、処刑はお許しになり 、切腹を仰せつけられました。
この文章には主語がありませんから、誰が「お感じになり」「切腹を仰せつけられ」たのかはわかりませんが、普通に考えれば豊昌公でしょう。
直ちに源兵衛を検使に吉平切腹。
その際、「脇差の刃合を見申」ということで、自らの股を切ってから、見事に切腹し、申し分のない手際であった、と記録は伝えています。
すでに浪人していることですし、紀州にいてこの横領事件とは全く関係がなかった吉平がわざわざ帰国して刑に服する事があったのかというと難しい所だと思います。
でも、吉平の判断は「潔い」というだけではなく、もっと別の面から見ても正しかったと思います。
武家には何事かがあったとき、他家の門の内に駆け込み、保護を願うという習慣がありました。この故実に基づき、吉平が紀州家に駆け込んだらどうなるでしょう。それはもう、吉平一人の問題ではなく、引くに引かれぬ武門の意地、紀州徳川家と土佐山内家の真っ正面からのぶつかり合いになってしまいます。
そして、現実問題として吉平は紀州におり、そこで弓の師範について稽古をしているわけですから、山内家としては彼の身柄を拘束しようと思えば外交ルートを通じて引き渡し要求をするしかありません。
これが吉平が起こした事件ならともかく、全く関与していないところで起こった事件というのが問題だと思います。
後の代になりますが、七代豊常公の御代にこんな話がありました。赤穂事件が話題になったときのことです。豊常公の侍講三宅尚斉は儒者らしく、大義名分論を振りかざし、理路整然と「赤穂浪人は”義士”にあらず、犯罪者也」という論を展開しました。
すると豊常公は随分とお怒りになり、
「だから中国かぶれの儒者はだめだというのだ。道理だけでは侍は動かない。道理を知り、侍の情けというものを知っていて初めて侍を動かすことが出来るのだ。幸い書庫に我が国の歴史書がたくさんある。少しはそれを勉強するように。」
と言われたとか。
これは何も土佐山内家だけで通用する理屈ではありますまい。武士の世界には「武士の情け」ということがあります。
と、すれば、吉平引き渡し要求ということになれば紀州徳川家がどう反応するかはわかりません。
更に言うなら、紀州徳川家と土佐山内家の間には三代忠義公の時代に因縁があります。土佐の百姓を紀州の百姓が殺害するという事件がありました。犯人を捕らえると忠義公は侍二人をつけて犯人を紀州に護送し、紀州家に「領民は家来も同然」として処刑を要求したのです。
土佐一国の中で見れば忠義公は広く家来領民の信頼を勝ち得たと思います。が、その一方で、紀州家としてはおのが領内監督不行届を真っ正面から指摘されたことになります。
そうなりますと、「武士の情け」といい、「過去の因縁」といい、山内家が紀州家に吉平の身柄要求をした場合、事が大きくなる可能性は決して低いものではなかったと思います。
そのように考えますと、吉平には、ただ我が身を「潔く」ということではなく、「御国のため、お家のため」という判断があったのではないでしょうか。
記録が日頃の吉平のことを「男振りよき」と誉め、その最期の見事さを褒め称えているのはただ潔く罪に服して見事に腹を切ったという「目に見える部分」だけのことではなく、「目に見えない部分の見事さ」をたたえているのだと思います。
間髪をおかず直ちに切腹というのも、厳しいように見えて、実は彼の心遣いを素直に受け容れての情けある処置なのでしょう。
『葉隠』の中にも「御国(=佐賀・鍋島家)の歴史を学ばなければならない」という話が出てきますけれど、それはいずれの御家中であっても同じ事だったと思います。吉平も御国(=土佐・山内家)の歴史を学んでいればこそこういう判断が出来たのでしょう。
英信流は上級武士が学んだと聞いています。記録から見ても、弟吉平が歩目付役(下級武士を取り締まる役目)の所に出頭している点から見ても、濱田家は決して家格の高い家ではなかったと思います。
ですから、吉平の身分では学ぶことも出来なかったでしょうし、学べたとしても彼の得意は弓ですからね。それを思えば武道など何流を学ぼうが、
また、何を学ぼうが「侍」を育てるのに大した影響はなかったように思います。それよりもむしろ、自国の歴史や文化を知っていることの方が侍を育てる上でも、最期の時に侍らしく振る舞える覚悟と言う点でも、判断力という点でも重要であったように思います。
享保十年(1725)三月二十三日のことです。七代目・豊常公は初のお国入りのため馬上品川宿を通過中でした。
するとにわかに雨が降り出したので「柄袋を」との命令。家来が大小の柄袋を差し出すと豊常公は大刀ばかりに柄袋をかけ、
小刀の柄袋を投げ捨ててしまわれました。
この大刀はお国入りのご挨拶に伺ったとき乗馬と共に拝領した品。初の入国に際して乗馬を賜わるのは珍しいことではない
のですが、佩刀を賜わるのは異例であり、格別のことです。
察するに拝領刀ゆえこのようにされたのではないか、と記録は締めくくっています。
これを見ると柄袋というのは道中いつもつけておく塵よけではなく、雨天の時などにかけるものであったことがわかります。
ですから、家来は当然のこととして大小の柄袋を差し出したのでしょう。が、両方に柄袋をかけたのでは自分の刀も将軍家よ
りの拝領刀も同じ扱いをしたことになります。それを畏れ多しとしてこのように振る舞われたのであろうということですね。
これはとある都道府県の剣道連盟居合道部長の先生より山内家の居合についてと『須知要樞』についてのご質問を受け、話が長くなるので口頭ではなく、レポートにまとめてお答えしたものです。何かの時、このレポートを書いたことを友人達に話しましたら読みたいということなので何人かには差し上げました。
今年(平成19年)のゴールデンウイークにやってきた友人の話ですとこのレポートは結構面白かったとのこと。そこで、HPでも読めるようにしました。
まぁ、私のような無学なものが資料を斜め読みしてまとめたレポートですから、お気に召さぬことが書いてあったとしても「捏造」などと言わず、つまり、テレビで言うのなら科学検証番組や報道番組を評価するような視点で見るのではなく、あくまでも「バラエティー」を見る感じで読んで頂ければ幸いです。p>
要樞
『大漢和辞典』に【要樞】エウスウ 肝心な場所。樞要。〔韋應物、經二凾谷關一詩〕萬古爲二要樞一、
往來何時息。とある。
また、「要」も「樞」も訓は「かなめ」であり、従って『須知要樞』とは「山内家の者としてすべからく知っておくべき大切なこと」という意味と思われる。
一君ハ體也。臣ハ影なれハ、各常ニ行跡を嗜、邪なからん事を思ふは常の忠也。就中近侍の面〃ハ外臣の風儀の本也。其本乱て末治る事ハなき道理なれハ、外臣の模表と成様に可心得。起居は挙動造次の間も敬の一字を不可忘也。
其本乱て末治る事ハなき道理
・『大学』に「その本乱れて末治まる者は否ず」とある。
敬の一字を不可忘也
・『大学』に「人の君と為っては仁に止まる。人の臣と為っては敬に止まる」とある。
一、 主君はからだ、臣下は影であるから、おのおの常に行いに気をつけ、よこしまなことがないようにと思うことは通常の忠義である。とりわけ主君の側近く仕える面々は、他の家来たちにとって風儀のお手本である。本となるものが乱れていて末が治まることはないというのは道理であるから、近侍の面々は他の家来たちの模範となるように心がけなくてはならない。従って、たちい振る舞いにおいてはほんのわずかな行動や一瞬の間においても「敬」の一字を忘れてはならない。
一父母に孝を尽くし、兄を敬ひ弟を慈ミ、親類の交を睦し、家僕等ニ至迄可加哀憐也。
一、 父母に孝行し、兄を敬い、弟を可愛がり、親類は仲良くし、家に仕える下級の者に至るまで情けをかけて大切にしなければならない。
*『孟子』に「親に親(した)しみ、民を仁(いつく)しみ、物を愛す」とあるごとく、相手によって接し方は違うけれど、生きとし生けるものに接するときには全てに対し常に人間が生まれながらに持つ優しい心で接しなければならないというのは儒教の基本である。
一朋友の交信を専とし、聊も不立我意、相互に純懇に言合せ、奉公の事不可怠慢。和を以て交といへとも、階級をたかへ礼儀を不可乱也。
一、 友人とのつきあいを大切にいささかも我をたてることなく、互いに、懇ろに注意し合って奉公に怠慢とならぬようにしなければならない。「和」の精神を大切にして交わるといっても身分をわきまえず礼儀を(そして社会秩序を)乱してはならない。
一学問の道は常〃深可用心。凡人は以性為主、陰陽五行を體として形天地と斉く、万物の霊たり。然ニ、道を不知して□(人偏に欲)に私を行ひ天理に違ハ誠に可恐恥也、全勿安自暴自棄。書を読むといへ共文字のミ心を入、学問の長するに随て邪智に馳、人の非をかそえ、慢心日〃募て他の異見をも不用、却て其人を疎ンする類は、良薬を以て毒となす者也、甚是を可欽慎。一章一句を日用の誡になす様に近く心掛、我気質の偏なる所より物蔽れ、事に臨て本心を昧す所有を能知て、渇而水を願飢て色を求るか如くに、巌改の善道に進ん事を可思。等閑に思ひてハ一生の間も可不能改也。
凡人は=およそ人は
凡人は以性為主
・ 『大学』に「蓋し天の生民を降すよりは、則ち既にこれに与うるに仁義智の性をもってせざる莫し」とある。
一、 学問の道にはいつも深く心にとめておくべきである。およそ人は(人間誰しもが生まれながらに持つ善なる)性をもって主となし、陰陽五行を体としてその形は天地とひとしく、万物の霊長である。それなのに道を知らずしてほしいままに自分勝手を行い、天の理に背くのは本当に恐ろしく、恥ずかしいことである。人間は決して「自暴自棄」になってはいけない。書物を読むといっても文字の解釈ばかりにこだわり、学問が進むにつれて邪な知恵に走り、人の過ちをあげつらい、慢心は日毎に増し、他人の戒めも聞こうとはせず、却って注意してくれる人を疎んずるような輩は良薬を毒にしてしまうものである。このようなことは厳に慎まなくてはならない。(聖人の教えの)一章・一句を日々の戒めとするよう常に心がけ、人間はときに、自分の心のかたよりによって物の本質がどこかに隠れてしまったり、事に臨んで自分の本心をごまかしてしまったりすることがあることをよく知って、のどが渇いたときに水を飲みたいと思い、お腹が空いたときに食べ物を求めるように(強く)慢心を改め(人間が生まれながらに持つ)善の道に進もうと思うべきである。のんびりかまえていては一生かかっても過ちを改めることはできない。
*自暴自棄
@『近思録』の「二 論学」に「懈怠一たび生ずれば、便ち是れ自暴自棄」とある。
A『孟子』の「離婁上篇」に「言ひて礼儀を非(そし)る、之を自暴と謂ふ。吾が身、仁に居り義に由る能はずとする、之を自棄と謂ふ。」とある。
「自暴自棄」というのは今日の意味ではない。朱子学で「自暴自棄」といえば人間本来が持つ善なる心に基づいて生きようとしない状態をいう。
一兵は士の道也。一人一個の者なりとも、心掛なくんは有へからす。習を得されハ、我得たる所の武芸も用る所の善悪を不知か故に、功をなす事すくなし。其上、不心不覚を取り、或死すましき所にて命を捨、却て不忠と成もの也。其外色〃武芸を稽古するも先我得たる所より何れにても成就する様に可心得。我社心掛厚と人に言われん為、見聞一通に精を出す類ハ、数年を経るといへ共用に立事なし。一返にても真実に稽古すれハ数返にも向也。惣て何事によらす日用の業、信を以て可本也。
社=こそ
一、 兵法=軍略は士たるものの道である。たとえ部隊を指揮しない者であっても心得ていなくてはならない。軍略を知らなければ自らが修得した武芸も用いてよいかどうかの判断がつかないがため、功名をあげることも少なくなる。その上、心ならずも不覚をとったり、あるいは死ぬべきではない場で命を捨てたりして、却って不忠ともなるものである。「彼こそ武芸に心がけの厚いものだ」と他人に言われたいが為に、他人の評価・評判を気にして稽古に精を出す輩は何年稽古しても本当の役には立たない。たとえ、一回でも真実の稽古をすれば、「まこと」のない(ただの技術の反復練習にしかすぎぬ)稽古数回に勝るとも劣らない稽古となる。何事によらず日常の中の行いは全て「信」をもととしなければならない。
一立身を心に掛て勤を励すは、賞に奉公するとて大に嫌ふ也。如此の人は、事により主人へも恨を含ミ、小の義に初の大恩も忘るゝ者なれハ、争か真の忠義を成無也。只日夜君恩をおもひ、忠義を専に勉ぬれハ、自天理に叶ひ、主たる人も其実なるを察して恩を加ふる者也。又偶主人の心に叶ひたる人は棄之て其體を人にも見せん事を思ひ身の慎を忘るゝ故、朋友に憎れ遂に不得保身、而主恩も徒に成す也。然間、親く勤仕する輩は、猶〃顧己て失なからん事をおもひ、忠勤を励し、終を慎て始の如くにすへき事肝要也。
一、 立身出世を願って勤めに励むのは「ほうびに奉公する」と言って大いに嫌うところである。このような人は場合によっては主人にも恨みを持ち、小さな事を恨みに思い、はじめの大恩も忘れるような者であるから、どうしてまことの忠義をなすことができようか。ただただ日夜主君の恩を思い、忠義だけを心掛けてつとめるならば自ずと天理にかない、主人もその気持ちが真実のものであることを察して恩を与えるものである。又、偶然に主人のお気に入りとなった者はそれを周りに誇示しようとし、慎みを忘れるので友達からも憎まれ、ついには其の身を保つことができず、しかも主君の恩まで無駄にしてしまうものである。だから主君のおそば近く仕える者はいっそう我が身を省みて過ちがないよう心掛け、忠勤を励み、初心を忘れないことが肝要である。
一君所近く伺候の者は不及言、次の間においても高声或非礼の雑談すへからす。戯言なれとも思より出、戯動なれとも謀より作る、の語をおもふへき也。朋友の中にても其物言と行跡とを以て善悪賢愚を弁へ、直を親ミ曲れるを遠へき也。
作る=おこる
戯言なれとも思より出、戯動なれとも謀より作る
・『近思録』の「二 論学」に「戯言は思に出ずるなり。戯動は謀に作るなり。」とある。
一、 主君の側近く伺候する者は言うに及ばず、次の間でも声高に話したり、品のない雑談などしたりすべきではない。「戯言であっても思っているから出る、ふざけた行動であっても謀があるからそのような振る舞いをする」という言葉を思うべきである。友人の中でも物言いと行動によって人の善悪・賢愚を判断し、心のまっすぐな人と親しくし、心の曲がった者は遠ざけるようにすべきである。
一志の違いたる者は万事に異風を好ミ、人の悪を悦てかりそめの雑談にも善事をいはず。一芸有人を批判するにも、口に任せて失を揚げ、用にもたゝぬ様にこれを堕して、奉公の事をも他に譲て休息せん事をおもひ、人の情に入るを見ては却てそしる。儻何事にても過有て咎に逢ふ時ハ、今迄成したる事をも不知か如にして、非を人に譲る。常に多言して近習の事も外臣に洩らす。或左まてはなき事をも、病気に事寄せて勤に怠る。加之、若年の輩を悪方に引入て風俗を乱る。如此の類不可勝計。凡国にあらゆるもの、草木土石に至るまて用に不立といふ事なし。人として道に背き、剰国政の妨と成、徒に米穀を費やすは、人面にして獣心といふもの也。
情
・『大学』に「情なき者はその辞を尽くすことを得ず」とあり、この「情」は「まこと」と訓ずる。
加之=しかのみならず
一、性根の曲がっている者は何事においても異風を好み、人の過失をよろこび、ほんのちょっとした雑談でさえ善い話をしない。一芸のある人を批評するときもべらべらと過失や欠点をあげつらい、その人を全くの役立たずのように言い立てておとしめ、自分は仕事を人に押しつけて楽をしようと思い、人がまことを尽くすのを見ては却ってそしる。グループがなにかで過失があり、罪を受けるときは今までやってきたことも知らぬ顔をして、過ちを他人に押しつける。いつもおしゃべりで主君の身辺のことも他の家来に洩らす。或いはさほどのことでもないのに仮病を使い仕事を怠ける。そればかりか、若者を悪い遊びに引き込み、風俗を乱す。このような輩は枚挙にいとまがない。およそ国にあるものは草木土石に至るまで役に立たないものはないというのに(どうして人を悪い方に導いて損なおうというのか)。人の道に背き、あまつさえ国政の妨げとなり、いたずらに浪費するのは人の顔をしているが心は獣というものである。
一風儀ハ人の本なれハ髪の結様、大小の拵、衣服に至るまて、目に不立様に正敷可有也。
一、風儀は人の基本であるから、髪の結い方、大小の拵衣服に至るまで異風にならぬようにし、きちんとすべきである。
一生得の虚実をはかり、養生の心を忘るへからす。疾病有時は父母の心を苦しめ、勤に怠りて忠孝共に欠。生質健なるを頼て保養の心なき人は、当分にハ覚えねと、微を積て成損、小を積て大と成、身を亡すに至る。中を知りて、美麗を不好、飽食をなすへからす。其本を忘れ、味に奪れて疾を生するハ、誠に愚なる事也。
一、虚弱であるかないか、生まれつきの体質を知り、養生する気持ちを忘れてはいけない。
病気の時は両親に心配をかけ、勤務を怠り、忠孝ともに成しがたいものである。生まれつき頑丈なことを頼みにして日頃から健康に留意する気持ちのない者は、すぐにどうということはないけれど、次第に不摂生が積み重なり、それが大きくなって身を亡ぼすようなことになる。何事も、もっとも適切な度合いを知り、華美を好まず、飽食をしてはいけない。本質をわすれて美食にふけり、結果的に病気となるのは誠に愚かなことである。
中
・『中庸』に「両端を執りて、その中を民に用う」とある。「中」とは「真ん中」とか「中間」の意ではない。もっとも適切なところ、という意味である。
■ 元禄十四巳年十月六日
豊房
■=「時」の異字体
おわりに
確かに『須知要樞』は儒教を背景に成立していると考えるべきでしょう。従って武の条にある「信」というのも儒教で言う「信」ということを念頭に置いて考えるべきでしょう。
が、しかし、それだけ、つまり儒教的見地からだけで『須知要樞』は読み解けるものではないと思います。
と、言うのは、新影流の剣術者を師範として抱えるなど、豊房は武を好み、武士の気骨を重んじる人であったからです。宝永三(1706)年九月のこととして、『南路志』に以下のような記述を見ることが出来ます。
同十八日、衣斐善次郎養子次三兵衛、今夏之頃大御門ニ而刀を被盗、当分隠密を相番中へ頼、脇差ニ而令帰宅。此仕形、侍の本意を失候由ニ而、二淀川限西へ御追放被仰付也。右相番大崎半平養子源丞、渋谷左衛門総領彈七名代番相勤候處、右之子細ニ付総領役被召上。日野孫太夫ハ知行被召上、弟ニ五人扶持被下也。
警備中に刀を盗まれた者と、その相番で事件を隠した者がそれぞれに厳しい処分をうけたという記述ですが、これを読んで思い出されるのが『甲陽軍鑑』に見る「脇差心」の話です。
武士がけんかをしながら刀を抜かなかったということで、信玄はこれを「侍の本意を忘れた振る舞いであり、『脇差心』がないからである」として処刑し、居合わせた者も処罰しています。宝永三年の事件で豊房は、戦国武将・武田信玄同様に「侍の本意を失」っていることを理由として当事者や居合わせた者に厳しい処分を下しています。
この一事を見ても豊房は慈悲深い名君であった反面、儒教を深く学んだせいで文弱に流れ、武士の気骨を忘れてしまった人物では決してなかったことがわかります。
また、後の世になりますが、七代藩主・豊常と彼の侍講として招かれた高名な儒学者・三宅尚斉との間に以下のようなやりとりがなされました。
享保五子年‐略‐三宅丹治を京都より賓師の礼ニ而江戸へ招かる。‐略‐或時、大石内蔵介ハ忠臣成かと問せ給ヘハ、丹治對て、実の忠臣ニ非さる申上る。押返して、何とて忠臣ニ不友哉と仰ければ、其訳早〃に難申述、愚意の筆記有とて退て是を差上る今世二流布ス。御一覧遊ハして以の外御不快にて、是より諸家の赤穂記を集させられて丹治が説ニ似たる事もやと御詮議被遊、其上ニ而丹治か論の倒置をしろし召、世ニ儒者程頼母しからぬ者なしと歎き玉ふ。誠ニ御幼少より忠義に深き御心、実に思ひやらね侍りぬ。御年十にならせ玉ひし時也とそ。
※享保五年=1720
これは『南路志』に所収されている『明君遺事』に見る記述です。この記述よれば赤穂事件を起こした大石は忠臣か否かという豊常の問いに、忠臣ではないという三宅尚斉の解答に対し、豊常は「儒者ほど頼みにならぬ者はない」と嘆いたと言うことです。また、同書には以下のような話も見えています。
或時儒者中村宋次郎御前ニ有時に、中古名将達の器量を問給ふに即答仕かたきにより、其時仰けるは、汝等ことき儒者、唐土の事跡にのミ力を用ひて却て我國目前の事に疎し。文庫に有日本の書を讀習へきとの御意也。
この二つの逸話から、「儒教的価値観が全てではない」という「君主としての」豊常の考え方を知ることが出来ます。これは『須知要樞』を読む上で非常に示唆に富む考え方だと思います。
確かに徳川幕府の文治主義により儒教的価値観は武家社会に浸透し、武家の行動規範となりました。
しかし、例えば『甲陽軍鑑』に見る如く、日本には古く「男道」、「武道」、あるいは「武士道」とよばれる価値観があります。これもまた武士の行動の根元をなすものであり、「却て我國目前の事に疎し」と嘆く背景には、豊常の儒者に対して「歴史から武士の心情を学ぶことを知らぬ」と嘆く心があると言えましょう。豊常が天下の大学者・三宅尚斉を「世ニ儒者程頼母しからぬ者なし」と嘆いたのも、赤穂事件を単に儒教道徳に照らし合わせて教条主義的に見るばかりで「武士道」、すなわち「さむらいのこころ・おもい」という視点が入っていない議論だったからでしょう。
『須知要樞』に見る「人の情に入るを見ては却てそしる」という部分をみるとき、「情」を「まこと」と読むのは成程『大学』によるものなのでしょう。
が、「情・なさけ」を「まこと」と読ませる背景には儒教精神重んずる一方で「さむらいのこころ」もまた重んずる部分もあるからではないでしょうか。
「就中近侍の面〃ハ」とか「君所近く伺候の者は」とかいう言葉から察するに『須知要樞』を読むほどの者は山内家でもどちらかと言えば上級武士であり、武家として儒教道徳に基づく文治主義の行政官としての奉公を求められた者達でしょう。が、それは一面であって、藩祖以来、抜き打ちによる討ち取りの功名など、血刀提げての戦場往来によって家を築いてきた山内家の歴史を思えば、戦国以来の猛々しい心もまた山内家の侍には必要とされたことと思います。ただ、その猛々しさは勇気の表象であって、単なる蛮勇であってはならず、その根底には「なさけ」がなくてはならぬと考えられていたのではないでしょうか。例えば、『山内家史料 第一代一豊公紀』には天正十年のこととして、
秀吉公中國二御働ノ節‐略‐敵方彼一騎ヲ目カケ鐵砲ヲ討立ニ付不辨進退既可及討死時節秀吉公ハ遙ニ隔於御陣屋櫓御遠見以ノ外御立腹至時御籏本ノ侍前後二旗名ハ不覚右ノ侍可圍退ト御櫓下ヲ過ル所ニ秀吉公有御覧其者ノ名ヲ御尋御近習ヨリ何某ト申上猶又御機嫌悪ク世悴何タル覚有之哉ト乍兩度御悪口ニ付兩侍黙テ退于時一豊公此趣被聞召事急成故御陣屋ニテ着用ノ御帷子乍召其儘馬上被成‐略‐一豊公御懸付‐略‐彼一騎武者無難御圍退ク御陣屋ヱハ通ヲ替御入リ此御下心諸人感ズル由承及ブ
と、いう記述があります。一騎の武者が激しく敵弾に射すくめられ、もはや討死するしかないという状況の時、旗本の者が立場を忘れて救出に飛び出そうとしたところ、二人は秀吉の怒りを買いました。一豊はこれを聞いて鎧も付けずに馬上の人となり、これを救出し、別の道を通って引き上げてきたので人々はその心遣いに感じ入ったということです。
道をかえたのは、秀吉や敵弾に射すくめられた武士に対する、そしてまた、救出に向かおうとして果たせなかった二騎の旗本に対する気配り・思いやりであったと思います。「下心」とは今日の意味で言う下心ではなく、その気配りがこれ見よがしのものではなく、相手を気遣ってのさりげない気働きであったことを意味するものでしょう。
寸刻を争って鎧も付けずに敵弾の降り注ぐ中、味方を救出に行く勇気だけではなく、その後に示された道をかえるという細やかな情にあふれた気配り。このような熱い勇気と情けに溢れた戦国の武士道と、太平の世の行政官としての儒教精神に基づく士道とは、時に相容れないこともありますが、その「どちらか」ではなく、その両方を山内家の侍の心にもとめたものが『須知要樞』であったと思います。
とりわけ武の条はと言いますと、前半では戦国以来の武士道を、後半では太平の世の士道を養成する道として武芸を位置づけていると思います。このように考えるならば、『須知要樞』のなかで「情」を『大学』を踏まえて「まこと」と読ませるにせよ、そこには、戦国以来、藩祖一豊以来の「武士道」を強く意識するところがあったからではないでしょうか。
以上の如く『須知要樞』を読むのであれば、『須知要樞』は英信流のみならず、元禄十四年以降、土佐で継承されたあらゆる武道を学ぶ上で参考になると思います。
「文武両道」という言葉がありますが、元禄十四年以降の土佐の武道は、少なくとも『須知要樞』を読むほどの格式のある武家の武道は、他人の評価を得るためのものではなく、自分自身の人格形成の道として『須知要樞』の中に位置づけられていると思います。
故に居合に限らず、元禄十四年以降の土佐の武道全ては文=儒教精神を重んじ、稽古の過程の中でそれを学ぶものであると同時に、武=武士道を忘れて文弱に流れたり、所謂「武士の情け」を忘れたりすることなく、文武の調和がとれた人材を育てることを目的として継承されていったと言えるのではないでしょうか。
豊房が家中に求めたと思われる「文武の調和と情けのある心」に対して、もし情緒的な造語をお許しいただけるならば、「やまうちごころ」とでもいうべきものをもった山内家の侍を育てるためのもの、それが『須知要樞』であったと思います。
このような性格を持つと考えられる『須知要樞』は英信流を学ぶ上でも、人によっては何らかの意味を持つ資料といえるのではないでしょうか。
以 上
一 虫入不見不知則違天理、可知恐事。
一 須臾不離道、可正五倫交事。
一 従聖賢之教、各可明■(門構えに虫)入有性事。
一 以仁心臨下、先恵慈、不可施労事。
一 無父子親乃不有朋友信矣。全不可有忠信事。
一 不依親疎上下、揚人之善蔽人之悪、日省己敬而可改過事。
一 武藝素無懈怠可相勤事。
一 諸藝は不及言、日用之業不蔽私可遷誠事。
一 無益事不可移時事。
一 申付所之旨堅重、専礼譲、正作法、可宜風儀事。
一 不忘養生之心、各所稟之量根氣、勤仕不可怠事。
付酒は失本心之間可慎事。
右條〃、為臣者常に心懸可相守事。
元禄 六 三月廿八日