もし、不幸にして日本が戦争に巻き込まれ召集され、刀を持ってこい、と命令されたならわたくしは先の大戦中に粗製濫造された軍刀を持っていきます。大切な文化財である古い刀や現代刀匠が心を込めて作った刀は殺戮の場である近代戦の戦場などに持っていくものではありません。
わたくしは「国を守る」ということは国民の生命・財産や国土及び一国の主権を守ることだけではなく其の国の文化をも守ることだと思います。
しかし、今更「刀を持ってこい」などという命令はないと思いますが、もしあれば古い刀や現代刀匠が伝統的技法で鍛錬して作ったもの=文化財ではなく軍刀(=昭和刀)かあるいは現在、主として競技・昇段を目的とする競技者の為に作られている現代刀を摺り上げて短くして持っていきます。
あれはぺらぺらに軽く、軽〜く作ってあるのでさげて歩くのには楽でしょうし、どうせ近代戦に刀なんて要らないにきまってますから。でもしそういう場面に万が一遭遇したら鞘ごと抜いてぶん殴ってやりますからあの頼りない刀でも大丈夫です。
先にも述べましたが、わたくしは経験がありません。ですから、全くわかりません。
しかし、そのことを明言しているにもかかわらず、最近「実戦では」とか「実戦的には」という形の質問やメールをいただくことがままあるようになりました。
そこで、個々の業が実戦ではどうかという以前に、少なくとも英信流山内派の業すべてに関していえば、今日、全く実戦の役には立ちません。と、言うより、今日において山内派は山内派の業を決して実戦の役に立たせようとしないと思いますから、結果的に役に立たないということになります。以下例を挙げてご説明申し上げます。
今日われわれが「実戦」を行うとしたら、どういう場合があるでしょうか。もっとも可能性が高いものとすれば、自衛隊による、PKO活動中、もしくはさらに進めてPKFということになったとして、その活動中何らかの戦闘に巻き込まれるということだと思います。
元来、教育的な理由から山内派は竹や藁を斬る実戦的な稽古を好みません。しかし、山内派を名乗りながらもそういう稽古を熱心になさっている方があることも亦、事実です。
そういう人がその自衛隊の部隊にいたとして、ある拠点を確保中不意にゲリラに襲われたとしましょう。
その方は「実戦的な稽古」を積んでこられたわけですから、ひょっとしたら瞬く間に右に左にばったばったと何十人ものゲリラを斬って捨てるかもしれません。
その結果どうなるでしょうか。当然アジア諸国や旧交戦国、特に日本軍の支配を受けたアジア諸国の人々の感情を大きく逆なでし、大変な国際的な反感を買うことになるでしょう。そして、今日もはや、刀が決して世界で通常的な兵器ではなくなっている以上、斬られたゲリラの死体の写真が報道されれば「残虐」として活動をおこなっている当事国、そして勿論それ以外の世界の多くの国々の世論はその斬った本人のみならず、日本を激しく非難するでしょう、何しろ日本が派遣した人間がやったことですから。特にある地域では、少年少女を誘拐し、洗脳して少年兵としてゲリラが戦闘に投入してくる場合もありますから、そのばったばったと斬り捨てたゲリラの死体の中に一体でも少年少女兵の死体があればさらに火に油を注ぐことになるでしょう。
それだけではありません。自衛隊においても白兵戦闘を想定し、訓練をし、武器を支給しているはずです。それらを一切無視して私物の日本刀を持ち込んで白兵戦を行ったとなれば、全軍の指揮・統制、および志気はどうなりますか。
外交上、日本を苦しい立場に立たせ、現地でそれこそ命を賭して任務を遂行している他の自衛隊員のそれまで受けてきた教育・訓練への信頼と志気を失わせてまで、日本刀を振り回す「必要がある」、「断固ある」と断言できる理由はわたくしにはありません。
むしろ今日のいかなる戦闘においても日本刀を「実戦」において使用することはあってはならないと思います。従って少なくとも山内派の居合は今日の白兵戦闘において全く実戦の役には立ちません。
「山内派の居合は殿様芸」と言われる方があると聞きました。その通りだと思います。
「敵がこう斬ってきたら、こう受けて、こう斬り返して・・・」、とそういう段取りの事を「実戦では」という趣旨で質問して下さっているのだとはおもいます。「敵がこう斬ってきたら」それは情勢分析ですね。「こう受けて」、それは対応策。「こう斬り返して」それは解決策といえるでしょう。
結局「実戦の役に立たぬ殿様芸」の稽古というのは戦場において一人二人(あるいは千人)斬るための稽古でではなく、その稽古を通して、それぞれの立場、たとえば土佐藩主という立場において、情勢(藩内事情・国内情勢・国際情勢ありとあらゆるものを含めて)を冷静に分析し、当面の急務に対する対応策を立て、その問題を解決する根本的な策を講じ、その中から将来を予見し、手を打てることはすべて打っておく、という事ができるように自らの精神構造を作り上げていくための稽古です。
ですから、戦場のある状況の中で日本刀を使えば上手く解決できるような場面に遭遇したとしても、それが日本の立場から考えて日本刀を使うべきか否かを考えられる思考回路を持つことが稽古の眼目の一つとなっているのが山内派の「実戦論」だとわたくしは思います。
なかには「そういうPKOとか戦争とかいうことではなく、万一襲われた場合」と言う事をおっしゃる方もあります。
先日大阪で不幸な事件がありました。その場に居合わせたとして、確かに相手が脇差・短刀であれば云々ということは技術としては伝えられているので、包丁を持った相手にも応用は利くとおもいます。
しかし、山内派は「君主の徳・仁愛の心」という事を非常に大切にします。
仮に私がその学校の教員で、たまたま稽古にいくため刀を持っていたとします。それで、「子供を守るため」という大義名分の名の下に犯人を斬り捨てたら・・・。
自らも死の恐怖を体験し、友達を目の前で殺された幼い心に「先生は私を守るために人を殺した」という生涯消えることのない記憶を刻む事になるでしょう。そして、わたくしに妻子がいた場合、自分の父や夫が「理由はともかく人を殺した」という事実と向き合う人生を与えることになると思います。
その一方で犯人を斬ったことを無責任に賞賛する人がでてくると思います。そしてそういう人たちは無責任に他の教職員を批判するのではないでしょうか。
さらに言えば、日本は法治国家であり、銃刀法の規定に於いて「護身用」という目的では日本刀を所持・携行することは認められていないなど、考えたらきりがありません。
にも関わらず、日本刀を振り回す必要はやはりないと思います。椅子でも、箒の柄でも学校の中には包丁をもった犯人を制止するのに役立つ道具はなんでもあるのではないでしょうか。
「犯人がこう斬ってきたら、こう受けて」と考えるよりに先に、まず児童・生徒の安全と心を守るのに刀を振り回す必要があるか否か、それを瞬時に考えて行動できるようにするのがこの場合の「万一襲われた場合」山内派の実戦論であるとわたくしは考えます。
山内派云々とは関係がないのですが、わたくしの学生時代、大学の図書館には戦没学生の慰霊のための「わだつみの像」というのが展示されていました。
そのわだつみの像に見守られてわたくしたちはサークル活動やら研究会やら、あるいは合コンで他大学の学生にも友人ができ、そういう人たちの中には結婚する人たちもあったりしました。
しかしわだつみの像となられた先輩たちは、研究会ででもなければ、合コンでもなく、勤労動員や学徒出陣の出征先で大学の垣根や専攻の違いを越えてわたくしたちとは全く異質な友情を育まれたこと、そして、その先輩たちの多くが二度と大学へは戻ってこられなかったことを思うと「実戦」という言葉を安易に使用したくないのです。先輩方のみならず、また太平洋戦争だけではなく、様々な「実戦」の中でなくなられた先人の御霊の事を思うときどうしても技術論に終始した実戦論に上手くお答えすることができないのです。
居合の師は「居合に使うのに一番良い刀は家伝の刀、次は師、友人などから贈られた何らかの意義がある刀、その次は自分が気に入っている刀」と申しますので「和泉大掾藤原国輝作」とある長さ・三尺一寸三分(94.7p)、反り・一寸四分弱(4,2p)の刀を使っております。
これはとあるところに奉納されていた刀が縁有ってわたくしのところにやってきたものであり、わたくしには大変意義深い刀です。定寸といわれるのが二尺三寸(69p位)ですからかなり長い刀と言うことになります。これもよく競技・昇段を意識して練習されている方からは「どうしてそんなに長くて重たい刀を使うのですか」と聞かれます。確かに競技で使われる刀は一s前後の刀が多いようですから二s程有るわたくしの刀は奇異に見えるのかも知れません。で、そうお尋ねが有ったときは「居合が下手だから」とお答えしています。わたくしは身長が183pで普通の刀だと右手だけですっぽり抜けてしまいます。しかし居合では左右の手を同時に活かして抜き付ける事が大切です。上手な方なら例え一尺五寸の脇差でもきちんとそうできるのでしょうが、わたくしはまだまだ下手くそですから。
それに流儀上この刀は特に長いということは無いはずです。先年わたくしが師より授けられた「根元之巻」という伝書のなかには「以腰刀三尺三寸勝」−こしがたなさんじゃくさんずんをもってかち−とありますから。わたくしの師は身長170pですがこの刀を抜けないと言うことはありません。
『甲陽軍鑑』にも言うように刀の反りや寸法についてはその人の好みに応じて決めれば良いことで是が一番ということはないと思います。ただわたくしは先に述べたような理由で居合の稽古に使う刀は長いものを好みます。ただし、刀の反りに関しては深いものが好きです。それにはあまり深い理由はなくて単に綺麗だから、と言うことと、『武功雑記』に
刀のそりよきころなるは、あたりつよし。高麗陣に加藤肥後守、軍兵どもの敵をきりあぐみたる時、肥後守いさましめて、馬上に幾人きりたおし候哉、かぞえ見よ、と申さるゝに、かの直なるにてはあたりよわくて敵たおれず。そりたるにてはきれず、といえどもたおれぬはなし。
刀の反りの具合が頃合いなものは衝撃力が強い。秀吉の朝鮮侵略の時、加藤清正は兵たちが敵を切りあぐんでいるのを見て、清正は兵たちを勇ましめ、馬上から「何人きりたおしたか、数えて見よ」と言った。刀の反りがなくてまっすぐな物は衝撃力が弱くて敵は倒れない。一方、反りのある物はたとえきれなくても衝撃が強いので相手が倒れないということはない。
とあり、反りのある刀はきっと心がけの良い武士の差し料だったのだろうなどと思うからです。ですから確かに拝見すると虎徹は大変な名刀だと思いますけれど、殆ど真っ直ぐな寛文新刀であり、好きになれません。そう言えば『雑兵物語』でも真っ直ぐな刀は組討ちの時片手で抜きにくいのでは良くないし、鞘に返角がついていないのも良くないといっています。因みに英信流には返角が無い刀を片手で抜く場合の口伝があります。
長い刀は抜きにくいものですし、物理的に、短い刀より何分の一秒か抜けるのに時間もかかっていると思います。でも、戦場では常に突然目の前に敵が現れることばかりでもないので昔の人はあんまりそんなことはきにしていなかったのかもしれません。
『近史余談』に
美濃源五郎勝吉は三州の地侍也世に云頸取源五是也―略―勝吉老後の物語に「若き時分戦場にて太刀打の勝負に、痒き処へ手の届ざる様なる事度々ありしをおもへば、刀の尺は一分も長きが利方なるべし」と申候と也。
美濃源五郎勝吉は三河の地侍である。世間で言う「頸取源五」とは彼のことである。勝吉が年をとってからこんな事を話していた。「若いとき、戦場で太刀打ちの勝負をしたときに、(刀の寸法がたらず)かゆいところに手が届かないような思いをしたことがたびたびあったことを思えば、刀の寸法はたとえ一分(約3.03ミリ)でも長い方が有利である。
という咄が見えています。
猶、刀は随分と長いものが好きなくせに脇差や短刀は小振りなものが好きです。小振りな短刀が好きなのはやはり、綺麗だから、という理由だけですが、脇差に関しては、やはり、『武功雑記』に
石見守、掃部どのへ「お手前は城を乗らるべき覚悟とは見えず候」という。掃部殿、故を問う。石見守、其の事にて候。城乗りを御心がけ候はば、其のようなる大脇差はさゝれまじき事なり」掃部殿「あやまり候」とて、小さき脇差にさしかえられられる。
とあって、元々小振りな脇差が綺麗で好きだった上にこの逸話の、井伊掃部頭様の素直なお振り舞いが読んでいて非常にすがすがしく、そのお心にあやかりたい気持ちからか、小振な脇差が益々好きになりました。それに、石州流茶道ではその昔、裃に小脇差を帯びて点前をしていたことも小振りな脇差が好きな理由の一つです。因みにわたくしの脇差は一尺三寸七分弱の大磨上無銘の大和末手掻で大変気に入って大事にしております。
先程わたくしは小脇差の方を好むことを書きましたが、では大脇差は、というと勿論鑑賞に値するような出来の勝れたものなら大好きです。ただ、好みとしては余り好きな方ではありません。それは先に上げた井伊様の逸話のせいもありますが、『雑兵物語』にこんな話があるからです。
大脇指は首を引かくにがいに引かきづらいものだ。具足の上に小脇差をはざけるは尤もなこんだ。此首を寝首かく如に引かひたれど、若目やさめべいと思で、馬乗にのつて左の手で素首を押へ、右の片手で大脇指を抜くべい抜くべいとすれど、帯がゆるくて、鞘が半分すぎ抜たところで、脇指は貳尺、鞘が壱尺あまりも有べい所で、三尺の刀を片手で抜くやうなものだ所で、こじ破てひつこ抜た
大脇差は首をかくときに、ひっかきにくい物である。(だから)鎧の上に小脇差をつけるのはもっともなことである。(気を失っている相手の)この首を寝首を掻くようにひっかいたが、もしや目を覚ますのではあるまいかと思って馬乗りになり、左手で首を押さえ、右手で大脇差を抜こうとしたが帶が緩かったので鞘の半分をすぎたところまで抜いた状態で、脇指の寸法が二尺、鞘の残りが一尺あまりもあるので、ちょうど三尺の刀を片手で抜くような状態になり(うまく抜けなかったので鞘を)こじ破って引っこ抜いた。
これによると組討ちの時に片手で引き抜くのに大脇差は思わぬ不覚を取るおそれが有るようです。猶、全段で返角云々のところで『雑兵物語』に言及しましたがその例はこの引用部分の続きに
當世の鞘にはさか角がかしましいとて引かき落す。さか角が有べいならば、帯に引かゝつてはやくぬけべいものをと思へば
このごろ鞘の返角が邪魔だといってとってしまう。返角があるから鞘が帶に引っかかって刀が早く抜けることを思えば
と、見えております。
上杉家の「山鳥毛一文字」や「姫鶴一文字」に付けられた黒漆合口打刀拵や「高木長光」に付けられた金梨地合口打刀拵には鍔が付いていませんけれど、とてもすっきりしていてわたくしは大好きです。又、幕末に出現した突兵拵は小さな喰出鍔をつけ、小振りで非常に感じの良いものです。
しかし、わたくしは居合の稽古に使う刀に鍔を付けなかったり、喰出鍔や脇差用と思われる小さな鍔をつけることは好みません。と、申しますのは英信流(少なくとも山内派)には鍔を手の防御板としてのみではなく、鍔を使って体全体を防御する技術やその他、口伝として鍔を使う技術が伝えられており、従って鍔は大きなものをよしとするからです。多分、こういった技術は英信流の他の派にも、又他の御流儀にもあるのかもしれませんが、他派、他流のことは分かりません。
過日ある方と下緒のことが話題になりました。そこで、『武家名目抄』から下緒について書かれているところを抜き出して御紹介したいと思います。
蜷川記云―略―寸法の事刀に合候而能程に仕候而さのみ長き下ケ緒不可然也―略―武雑記云御主の御定に参勤申候時遠路なとへは刀の下緒とめ申へしとめやうはまえへ引きまわして腰のま中にて留へし―略―酌并記云下緒むすふ事人のきる物をしることく重而一むすひむすひ刀は上の方へむすひめのある様にに結刀のさやにかゝりてしたへさかるか能なり脇指はむすひめの下へかかりたるかよしちかへ様は刀と同前也
『蜷川記』の言うところでは、下緒の寸法は刀にあうように、程良くする。しかし、余り長い下緒は良くない。『武雑記』の言うところでは、御主の仰せに参勤で遠路はるばる行くときは、刀の下緒は留めておくべきである。留め方は(普段の状態から)前へ下緒を回してきて、腰の真ん中へ回してきて留めるべきである。―略―『酌并記』に言うには、下緒の結び方は人が着る物を締めるときのように重ねて一結びする。刀は結び目が上にあるようにして結び、結び目は鞘にかかって下へ下がるようにするのがよい。脇指は結び目のしたにかかるのがよい。違え方は刀と同じである。
『武家名目抄』は幕府の命により塙保己一が編纂にあたり、彼の没後幕府は和学講談所を管掌していた林大学頭に督促して完成させたものですから、いわば武家社会の教科書だとわたくしは思っております。これによりますと、蜷川記を引いて余り長い下緒は良くないと申しておりますし、武雑記を引いて遠路を行くときは下緒を前に引き回してきて腰の真ん中で留めるようにと言っております。今日神伝流の方がされているのはこの留め方ではないでしょうか。そうするとやはり、神伝流は古い伝承を持つ流派であると言えます。
山内派は御稽古の時、下緒は鞘と体の間に落として膝の所へ垂らすようにしますので、蜷川記の言うように余り長いものは不向きです。尤もこの垂らし方は山内派に限ったやり方ではなく、絵巻その他の資料をみると一般的なやり方のようです。
序でに申しますと、他流派で感心する下緒の結び方は制定居合の結び方です。『図録 近世武士生活史入門事典』(柏書房−武士生活研究会編)のカバーに東京国立博物館所蔵の「洛中洛外屏風」の一部が載せられています。この作者について東京国立博物館に問い合わせたところ「岩佐又兵衛と思われる」という回答があり、とするとこれは江戸初期のものと思われます。そこには馬の轡を押さえている若党が描かれており、その下緒の留め方−袴紐に結束−が制定居合の結び方にそっくりです。
どなたの御提案でこうなったのは知りませんが、武家社会にあって「下郎ふぜい」と卑しめられることはあっても決して武士扱いされることのなかったにも関わらず、武家社会を底辺からもくもくと支え続けた人々の作法に光を当てられたと言うことは、その研究心においても又、もし無名の人々を顕彰しようとされるお心からであれば(多分そうだとわたくしは思いましたが)、そのお心においても大変立派だと思います。
下緒の結び方一つとっても、制定居合は戦後の民主的な時代に成立した流派だけあって現代的なヒューマニズムを感じます。
昔、「試し切り」と申せば刀の切れ味を試すことであり、屋代本『平家物語』にも名剣を作らせ罪人の首を斬り、その刃味を試した話がでております。
今日でも「二ツ胴裁断」などという所謂裁断銘の入った刀を見かけることがあり、江戸時代には死体を斬ってその刃味を試すと言うことが行われており、山田浅右衛門家は有名です。で、生きた罪人ではなく、死体を斬って刃味を試すと言うことが何時頃から始まったかというと、『明了洪範』に
○刀劍の利鈍を試るとて居物ためすと云事は元後世の事也昔は罪人の首を切て其切あぢを勘へ定めて足れるとせしと也織田信長の時に谷大膳亮鷹野に出て死人の田間に在しを見てふと心付田のあぜへ居置て帶せし刀を試みけるより土段居物と云事は起りしと也
刀の切れ味を試すと言って(居物−据え物のこと、手へんが省かれて表記されている)据え物を試すというのは昔からあることではなく、後世のことである。昔は罪人の首を切ってその切れ味を見ればことたるとしたものである。織田信長の時代に谷大膳亮が鷹野に出て死体が田圃に転がっているのを見て、ふと思いつき、死体を田の畦に載せて指していた刀の切れ味を試したことから土壇据え物斬ということは始まったという。
とあってこれによれば信長時代からだということができ、又同書には
○池田紀伊守入道―略―勝入の長久手にて討死の時帶せし刀は和泉守兼定の作二尺二寸三分ありて亂れ焼なり以前池田家にて大小の類をためしけるにふじ身の者ありて切れざしりを片桐與三郎と云近習の差たりしにてためしければ快よく切し故又々死人の切口より青竹をし通し片桐を呼で切らせられしに土壇迄切落しける故勝入其刀を所望せられ篠の雪と名付中ごに片桐與三郎二つ胴を落すと象嵌入りあり
池田紀伊守入道―略―勝入の長久手にて討死の時に指していたのは和泉守兼定作の二尺三寸ある、乱刃の刀である。以前池だけで大小の刀剣を試したときに、不死身の者がいてどんな刀で切っても切れなかった。それを片桐與三郎という近習の者の刀で切るとうまく切れた。それで死人の切り口から青竹を通し、片桐を呼んで斬らせたところ、土壇まで切り落としたので、勝入その刀を所望し、「篠の雪」(篠に積もった雪はちょこんとふれただけでも落ちる)という号を付け、刀の茎に「片桐與三郎二つ胴を落す」と象眼をした。
という話も見えております。
今日、死体を斬って刃味を試すと言うことは不可能であり、その替わりに巻き藁や竹を斬って刀の刃味を試したり、また斬り手の腕を試したり、ものを斬る技術の向上に役立てようといことで或いは「実戦を想定して」とかで随分御稽古されている方もあるようです。
それについてわたくしはとやかく言う積もりはなく、それはそれぞれの方々のお考え次第ですが、故宇野又二先生の生前常々言っておられた「竹を斬るのなら鋸がある。藁を斬るなら鎌がある」というお言葉は、以下に引用する『名将言行禄』巻之四十五 ○徳川頼宣の条に見る逸話と響きあうものと思います。
頼宣、腰帶と名くる備前長光の刀にて死囚を試みしに快く斬れて、其儘立られけり。突ければ、二つになりて倒れけり、左右一同驚入る計りなり、大に喜びて那波道圓に異國にも斯る利劔もありや、又斯く手の利たる人やあると尋ねしに、道圓承はり異國には龍泉太阿抔申利劔之あり。又人を害して樂む人は夏の桀王殷の紂王と申惡王も之あり候、凡そ人を害して面白しと思ふは、禽獣の仕業にて、人間にては之なく、日本において罪人を斬ることは−−こそ致し候へ、と憚る色なく申ければ、つと入りぬ、頓て道圓を召て、先に申つる所こそ至極の道理なれ、是より再び自ら試ることをせじ、諫言こそ返々も淺からねと稱美ありけり。
頼宣公、「腰帶」名付けられた長光の刀で死刑囚を切ったところすっぱりと切れてそのままたっていたのを突いてみると真っ二つになって倒れたので周りの人は驚嘆した。頼宣公は大変喜んで「那波道圓、外国にもこれほどの名刀、名手がいるか」とお尋ねになると彼は「龍泉太阿などという名剣が外国にはありますし、人間を殺して喜ぶ人には夏の桀王、殷の紂王という悪王が外国にもいます。およそ人間を殺して面白がるのは禽獣・けだものすることであって人間のすることではありません。大体日本では罪人をころすことは −−のすることであり、武士のする事ではありません」とはばからず申し上げたので公はぷいっと奥に入られた。しかしすぐに彼を呼ばれて「先ほどの言葉はまことに道理である。今後自ら人を斬って刀の切れ味を試すことなどはしない。諫めてくれた其方の志はまことに深いものである。と賞賛された。
これによれば紀州頼宣公が死刑囚を試し切りして、長光の刀の切れ味と自らの腕を誇って見せたところ那波道圓は「人を斬って面白がるのは中国で惡王として知られている桀や紂の行為であり、又禽獣の行為であって人間のすべきことではない」とたしなめたというのです。紀州様にせよ山内家にせよ國を治めるお大名であることには変わりありません。
『東照宮御遺訓』には「天下太平治世長久は、上たる人の慈悲に有ぞ、慈悲とは仁の道ぞ、おごりをたつて、仁を萬の根元と定、天下を治めたまふやうと申べし」(日本教育文庫−家訓篇−)と見えており、士農工商の上に立つお大名が桀・紂のようなことでは四民悉くが迷惑致します。
従って例え斬る対象が藁・竹であろうと、死体であろうと「生きている人間を斬るつもりで」稽古するとすればそれは死刑囚を斬って人斬りの稽古をするのと何らか変わることはなく、それを面白がったり、ばっさり切れた竹や藁を見て快感を感じたり、ましてやその物斬りの技術を誇ったりするのであれば桀・紂となんら変わらない禽獣にも等しい行為であり精神状況だと思います。
故・大江正路先生が山内公に居合を御伝授申し上げるときに「居合を通じて公に桀・紂、禽獣にも等しい心根の方になっていただきたい」と願っておられた筈がなく、やはり「天下を治めたまふ」陛下のお側にあって恥ずかしくない方になられるようにと思われ、居合が公の「仁者」としての人格形成に役立つことを信じて御伝授申し上げたと思います。
ですから、故宇野先生が物斬りを嫌われたのは、単に文化財である日本刀を損じる可能性があるからばかりではなく、むしろ「山内派だから」ということだと思います。
制定居合しか知らなかった頃、わたくしも竹や藁をよく斬りました。今はそれを大変恥ずかしい事だと思っています。
もっとも、だからといって他流、他派の方が物斬りをされることに対してとやかく申すつもりはありません。他流・他派には又それぞれのお考えがあって然るべきであり、他流・他派の御稽古方法に外部の者が口を差し挟む余地は無いと思います。
猶、ここで引用した『名将言行禄』は岩波文庫のもので「−−」とした部分は棒線となっておりました。どういうことなのか、又もし言葉が削られているとしたら、どんな言葉が削られているのか無学なわたくしには見当も付きませんが、もしここに万が一差別的な言語があってそれを伏せてあるのであれば、ここで、是非明らかにしておかなくてはならないことがあります。
この項全体を読んで頂ければお分かり頂けることであり、この逸話を引用したことは「−−」とされる方々に何ら差別的意図を持つものでもなければ差別を助長しようという意図によるものでもありません。この段、念のためくれぐれも申し上げておきます。
「雑談」のコーナーといってもどうも刀が好きなせいか、刀の話になります。でも、刀が好きな人には二手あるようで、刀を眺めるのが好きな人と、刀でものを切るのが好きな人・・・・。わたくしは眺める方がすきですから、物を斬るなら現代刀にしておいてほしいなぁと常々思っております。『近史余談』にこんな話が出ていますが、それでも、戦国の人々が正宗や長光を試した話で誉められた話というのあまりは聞いておりません。やはり、実際に使う刀とそうではない、精神的な意味のある刀はきちんと分けて使うべきなのでしょう。
大神君上意に「刀脇指の刃味は、骨切るればわざに気づかいなし。夫共に克く切れたり共、骨の砕て切たるは好ざる事也。亦は少しかゝる事有共、一概に捨べからず。重てためして見べき也。惣じて刀脇指共に物うちの刃細きは不可用」と仰られし。亦長岡幽斎の物語に「直刃乱刃の得失を考見るに、乱刃の矢の根は甲冑に徹り兼る者也。若は克々徹りても根必損する者也。是を以て剣戟の刃も考知べき事ぞ」と申されしとぞ。
大神君は「刀脇指の切れ味というのは骨を切るくらい訳のないことだ。それだからと言って骨を砕いて切るようなものはよくない。かといって少々かかるからといって一概にだめだと思わずに、重ねて試してみるべきである。猶、刀でも脇指でも物打ちの焼刃の細い物は用いるべきではない。」と言われた。又細川幽斎は「直刃、乱刃の得失を考える見るに乱刃の鏃は甲冑を貫きにくい。もしよく通っても鏃は必ず損じるものである。このことから刀の刃文についても考えて知るべしである。」と語った。
わたくしは細直刃の刀が好きですが、そういうものは「直刃」という点ではよいものの物打ちの焼刃は細いから実用的ではないということになりますね。でも古い平安・鎌倉の名刀にはそういうものがたくさんあります。
結局そういう太刀は実用品と言うよりは呪術的な力をもつ霊器という風にみられていたから、実用云々は関係なかったのかもしれません。
と、いうより、シャーマンであり、戦士である武士にとって刀剣は「斬れる」ということも実用的条件であり、「霊力が高い」ということも実用的条件であったのでしょう。
そして、そのどちらに主眼をおくかというのは結局、用いるもの考え方や立場で自然に決まって来るのだと思います。
源平時代、上級武士が使った太刀は残っているのに、下級武士が使った鍔刀が残っていないのは結局切れ味本位の実戦的な鍔刀は霊器として尊敬され、大切にされることもなく、実用品として生産・消費・消耗されて後世に伝わらず、さまざまな戦乱を乗り越えて今日に受け継がれている三日月宗近とか猿投の行安とかは霊器として大切に守り伝えられたからなのでしょう。
そんな風におもっておりますので、武士が戦士でもあると同時にシャーマンであった幕末以前の刀で物を斬ったり、その実用性を試したりすることは今までその刀を伝えてきた武士を雑兵扱いすることになるような気がしてわたくしは幕末以前の刀でものを斬ることをこのみません。
四国で「養心館」という道場を開いておられる井下經廣氏はもう九十幾つかの方ですが、大変よくしていただき「君とは年は違うが、親友だと思っている」と言っていただいており、大変ありがたく思っています。
武徳殿で開かれる五月大会には大抵お見えで、数日の滞在期間中一度はお会いして食事をしたりよもや話をしています。
先日も平成十一年に開かれた五月大会にお会いしたときに撮っていただいた写真を送って頂きました。年末の忙しい時に却って申し訳なかったような気がしますが・・・・。
さて、以前にその井下氏と「武徳とはいったい何だろう」などということが話題に上ったことがありましたが、『常山紀談』の巻一○輝虎平家を語らせて聞れし事の段にこんな話がでています。
輝虎ある夜石坂検校に平家をかたらせて聞かれけるに、鵺の段を聞てしきりと落涙せられけり。かたへの者どもあやしみ思ひければ、輝虎のいはく、吾國の武徳も衰へたりとおぼゆるなり。昔鳥羽院の御時、禁中に妖怪ありしに八幡太郎鳴弦して鎮守府將軍源義家と名のりければ妖忽消ぬ、といへり。其後頼政鵺を射たれども猶死ずして、井野隼人さし殺してとゞめたりと聞ゆ。義家鳴弦せしは天仁元年の事なり。鵺の出しは近衛院仁平三年なれば、僅に四十六年なるに武徳既におとれる事はるかなり。又今頼政におくるゝ事四百五十年、われ又頼政におとる事遠かるべければ、おぼえず涙の流るゝよ、とぞ語れける。
口語訳
輝虎はある夜、石坂検校に平家物語を語らせて聞いておられたが、鵺の段を聞てしきりに涙を落とされた。周りの者がどうしたことかと不審に思っていると、輝虎の言われるのには「我が国の武徳も衰えたものだと思う。昔、鳥羽院のおんとき、宮中に妖怪が出たので八幡太郎義家が弓の弦をならして「鎮守府將軍・源義家」と名乗ると妖怪は忽ち消えてしまった。その後又、宮中に鵺という妖怪が出、今度は源頼政が矢で射たがしとめることは出来ず、(落ちてきたところを)井野隼人が刺し殺して始末を付けたという。義家が鳴弦をしたのが、天仁元年の事であり、鵺が出たのは仁平三年のことであるから、その間僅か四十六年なのに武徳は既に遙かに劣ってしまった。そして今、頼政の時から既に四百五十年がたち、私も又頼政に遙かに劣るであろうから、(それを思うと)思わず涙が流れるのだ」と。
武士がシャーマンであり、武徳が妖怪変化を退け、社会に平安をもたらす力であると中世の人が考えており、それが江戸時代にも受け継がれていたことを示す逸話だと思います。
勿論、シャーマンというのは武士の一側面であり、近世に入ってはそれも非常に古い側面であったろうとは思いますが「武徳とはいったいなんだろう」と考える上で面白い話なので載せてみました。
果たして、輝虎の言うように戦国期にはもう「武徳」というのは廃れてしまったのでしょうか。輝虎の生きた時代とそう違わない時代を生きた田子時隆のこんな逸話を『武者物語之抄三』(和泉書院)に見ることができます。
田子時隆の事、雲州尼子の一僕なり。いにしへは歌敷とて物怪あるには歌をよみて賦たると聞こえし。祈祷発句、夢想之連歌などいふ類成るべし。いづれの御代やらん。御殿の庭上の池の岩尾に夜の間に一木の松にはかに生ければ
○岩尾なる苔のむしろをかたしきて誰をまつとてねいらざるらん
かくよみければ松たちまち滅したりとなり
口語訳
田子時隆の事。(田子時隆は)雲州尼子の家来である。昔は「歌敷」と言って化け物がでたときには歌をよんで退治したときいている。祈祷発句、夢想之連歌などというのはこの類であろう。いづれの御代であったろうか御殿の庭の池の岩の上に一晩のうちに松が生えたので
岩の上の苔の筵をかたしき(独り寝をするのは)誰を待つと言って眠らないのであろうか。
と、こんな風に歌を読みかけたところ(ねいらざるらん−根を張ることはできないだろうと言われて)松は忽ち消えてしまったということである。
また、「蜷川新右衞門親当と云人あり。常に一休に参禅して頓悟の人なり」と云いますから輝虎よりはちょっと昔の人ですが、それでも義家や頼政に比べれば大分戦国よりの人のこんな逸話が『新武者物語巻第三』(和泉書院)にでています。
親当末期に臨で西の峯より仏菩薩殊勝の相を現じ、来迎あり。諸人貴みてこれを拝す。ふと起あがり弓に矢引くはへ丙とゐる。弥陀如来の唯中にあたりて、さも殊勝なる相好ことごとくきへうせ、よくよくみれば劫を経たる狸にて有りける。
親当の最期の時西の峯より仏や菩薩がすばらしい姿で迎えに見えた。人々はこれを尊んで礼拝した。(しかし彼は)ぱっと起きあがり弓に矢をつがえてひょうと射た。すると阿弥陀如来の真ん真ん中にあたり、有り難い姿は消え失せ、よくよく見れば年を経た狸であった。
こういった逸話を読んでいると「シャーマン」としての武士の徳「武徳」はけっして戦国になっても衰えていなかったとようにおもいます。
「実戦では・・・・」というお話が好きな方は随分多いですね。そう言った方々の中には「道場剣法は役に立たない。試し切り(据え物斬りのこと)をして実際に−斬る−という感覚や技術を身につける方が良い」などと仰る方も割合あります。
「実戦」ねぇ
わたくしはそういうお話が嫌いで馬耳東風に聞いているのでその実戦というのがどういうものか、詳しく聞いてみようとは思いません。ただ、道場剣法がものの役に立つか否かという事では『武功雑記』にこんな話がでています。
西郷壱岐、物語に「習いし剣術は終に敵合の用に立たざりし候、併し手習し故か、刃にてうけたる事はなし、いつもむねにてうけ候、手なれし事は覚えずして出で会い候歟」
口語訳
習った剣術というのはついに敵と会ったときの用には立たなかった。しかし、習っておいた為か、敵の刀を刃で受けたことはない。いつも棟で受けていた。身に付いたことはとっさに出るのであろうか」
これを読んだとき、「それやったら役に立っとるやないか!」と思わずつっこみをいれてしまいました。きっとこの人は稽古が十分に身についているので無意識のうちに身体が動いてしまうため稽古したことが役に立っているかどうかも分からないほど自然に身体が動いて相手を倒しているのだとおもいます。
これが中途半端な稽古でたまたま上手く相手を倒せたとき「やっぱり稽古しておいてよかったなぁ」というような実感が湧くのではないでしょうか。
それに元亀・天正の頃の武士が稽古をするのと江戸時代の武士が武術を学ぶのとではその目的が違っていると思います。今日我々が兵法を稽古する場合、「首取ってなんぼ」みたいな戦国風の稽古をするのがよいのか、「首取ってなんぼ」の技術から更に進んで「世の手本」としての武士を育てるための教育カリキュラムへと成長していった剣術を学ぶのがよいか・・・・。
まぁ、そこは人それぞれですか。
思いますに、実戦で役に立つ云々は前提条件−第一段階の技術レベルの問題。それを身につけた後はそれに執着しないことが大事で、その、執着の向こう側にあるものを学ぶのが本当の「道場剣法」なのだろうなぁと思っています。
『屋島』の謡のなかに「春の夜の波よりあけて敵と見えしは群いる鴎、鬨の声と聞こえしは浦風なりけり」とありますでしょう。旅の僧が屋島の浦で義経の霊と出会う。彼は自らの栄光、特にこの屋島合戰の誉れに執着しているためにこの屋島の浦で永遠の修羅道の戦いを続けなくてはならないのですね。夜が明けて敵の姿は鴎に鬨の声は浦風に変わると言うことは、夜が来れば鴎は敵となってまた義経の霊に襲いかかってくる。そしてそれは屋島の浦から鴎が消えない限り、浦風がやまない限り・・・と、言うことは永遠に続くと言うことでしょう。
『屋島』は世阿弥作と言われていますけれど、舞台の上からこの武士の宿業を突きつけられたとき、平然とその能を見ていた室町の武士達・・・・
彼らは、余程鈍感だったのでしょうか。そうではないと思います。彼らはこの宿業と戦って勝ち抜く方法を知っていたから「役者風情」が舞台の上から「聞いた風な口」をきいてもなーんともなかったのではないのでしょうか。
私がこのHPを一番見て欲しい人と云うと、本当は父なのかも知れません。父は段位を取ることは大好きで本人曰く、「この会場ではどう抜けば受けるか」などということを考えながら居合をするような人です。そんな話は『風姿家伝』に「申楽を初むるに、當日に臨んで、先座敷を見て云々」とあり、能役者ならそれで良いのでしょうが・・・・。
これというのも結局、古流も受験用に何本か型を覚えただけ、伝書など読んだこともなく、まして武家の作法・出処進退というものを学ぶこともなく、そう言った知識は時代劇や時代小説を真に受けて・・・・、という状態だからなのでしょう。
実は父は若い頃は共産主義者でそういった活動もしており、明治生まれの旧士族の誇りだけで生きていたような祖父とは全然反りが合わず仕方のないことかも知れませんが・・・・・・。(わたくしの家では代々名乗りに「豊」の字を使いましたが、祖父は榎本武揚が大好きで父に画数の関係で「武明」と付けた−佐幕派−でした)
以下に引用する河合頼母の話も父に読んで欲しい、理解して欲しい話です。わたくしは武辺物語の中でも特に『武者物語』が好きです。それは「古き侍の物語に曰く」という各段の出だしを読むと、なんだか幼い頃わたくしを随分かわいがってくれた今は亡き祖父の膝の暖かさが伝わってくるような気がするからです。ですから『新武者物語』にはこの出だしがないのが大いに不満なのですが・・・・。
一 河合頼母之事(『新武者物語』)
管領畠山入道徳本家臣の河合甚六を召て宣ひけるは「汝が子は今年くつになるぞ。芸は何か仕つるぞ」ととひ給へば、「幼少より弓を稽古仕る。年は十六に成候」と申。徳本聞給ひ、「手は習はぬか」と仰られきえれば、「書筆は無得手に候」と申。徳本、「それは然るべからず。よくよく物の道理を弁へ候へ。―略―先物かくと学文より一切の芸は発ると思ふべし。無筆にて諸芸を稽古するは、車ありて牛のなきがごとし。学問をして物の理をあきらめぬれば、弓法にても兵術にても家々に秘書あり。それを求めてみづからあきらむる時は、たとひ功ををつくし習はねども、はやくとりつく事なりやすし。無学にして芸をとゝのへんとすれば、愚なるによりてその道にうとし。―以下略―
口語訳
管領畠山入道徳本家臣の河合甚六を召して「そなたの子は今年幾つになる。又、何か芸はあるのか。」と仰ると甚六は「幼少より弓を稽古致しております。年は十六歳になります。」とお答え申した。それを聞かれて「手習いはせぬのか?」と仰せられたので「書道、学問は不得手でございます」と甚六は申し上げた。すると徳本は「それはいけない。よくよく物の道理を考えてみよ。先ず字を書き学問をするところからいっさいの芸は始まると思うべきだ。どんな芸でも時を知らないで稽古するのは車があってもそれを引く牛がいないようなものである。学問をして物の道理を明らかにしたならば、弓も兵法もそれぞれの家に秘伝書があるのだから、それを求めてその武芸の道理自ら明らかにしたのならば、たとえものすごく沢山の稽古量をこなさなくても、その武芸の奥義に早くたどり着くことになる。しかし、無学で物の道理を学ぶ力がない者はなかなかその道の奥義をしることができないものである。
畠田の守家の太刀などというと大変な名刀で、秋田書店から出ている『日本刀百選』にも掲載されています。いずれにせよわたくしなど生涯拝むこともない(博物館ででもなければ)名刀ですけれど、もう一つの「もりいえ」なら学生時代経験したことがあるなぁと『新撰狂歌集』をみていて思い出しました。というのは
我が家は 漏家(もりいえ−名刀・守家と雨の漏るぼろ家をかける)といふ銘の物 怪我ばしするな 貧乏の神
−私の家は名刀畠田の守家ならぬ、雨漏り(のする)家という銘がある、近寄って怪我をなさるな貧乏神どの−
実は学生時代あるお家の離れを友達と借りてすんでいたとき、すごい雨のあった翌日にパンツがぐっしょり濡れていてびっくりしたことがあり、実はそれは雨漏りだったというのがあります。今日はひどい雨でちょっとそこまで買い物にいってもズボンの裾も片袖もべっとり濡れてしまいました。さすがに今の家は雨漏りこそはしませんが、かえってそれがよくないのかなぁ、貧乏神が全然出ていってくれなくて・・・・。もっとも同じく『新撰狂歌集』に
貧乏の 神をいれじと 戸をさして よくよく見れば 我が身なりけり
−貧乏神を入れまいと戸締まりをしてさてよくよく見れば貧乏神は自分自身だった−
などというのもありますけれど・・・・。そういえば何かで「貧すれば 質に置く手の 太刀かたな 流石は武士の うけながしつつ」というのを見たことがあります。
『當代記』を読んでいたらこんな話が出てきました。(一部書き下しに改めました)
信長公より九八郎拝領の刀、目貫かうかいは、去々年後藤光乘に仰せ付けられ、京都において彫らせられる、昔弘法大師の玉造と云双紙を絵に書き置かれ―略―信長これを見給ひ、此の図の如く写すべしとの御諚により、ほりたる目貫こうかい也、さて謡に今の世に周く用間、三方論議の僧、数珠を持ちたる所を學たり、
口語訳
九八郎が信長公から拝領した刀の目貫・笄は一昨年後藤光乘に仰せつけられて京都で彫らせた物である。昔、弘法大師が玉造という双紙(『玉造小町子壮衰書』−興味のある方は岩波文庫からも出てますので・・・・)を絵に描きおかれた。―略―これを見た信長は此の図の通り写せと命じられ、その図の通りに(当時は小野小町の世に捨てられた小野小町と考えられていた−老いさらばえた女を)彫った目貫・笄である。さて、今謡に(『卒塔婆小町』として)世の中でもてはやされているので、三宝論議の僧が数珠を持っている姿を彫った
今、此の刀や金具はどこにあるのでしょうね。
居合をする人で「鍔ががちゃがちゃ言うから」と言っては切羽を沢山はめている人がいますがあれは見ていて嫌なものです。鍔の厚みなどそうかわるものではなく、鍔を取り替えたのならともかく、同じ鍔を使っていてそれがたつくのはむしろ鍔の中心穴と刀の中心の大きさに透間があるからです。それを切羽の数をふやしてみたところで暫くは良いとしても又すぐがちゃがちゃ言い出しますし、そんなことばかりしているとハバキが刀の刃区に強く当たり、刃区が丸くなってしまいます。
先日、わたくしの刀の鍔もがたついてきたので知り合いの研ぎ師さんのお宅で鍔の責金を入れ直してきました。もともと鍔の中心穴の上下に銅の責金が入っており、少しがたつく位ならこれをたたいて上下を膨らませればがたつきをとめることができますが、新たに鍔を付け替えたときなどであまりにも鍔の中心穴と刀の中心との間に透間があるときは鍔の中心穴の上下(両方または、いずれか)の横に切れ目をいれそこに銅の責金をいれて中心穴の大きさを調整してやります。また、刀の中心が鍔の中心穴に比べて薄いときは大きめの責金をいれ、中心の厚みに合うように銅に「コの字」型に切れ目を入れてやります。
こういうことを申し上げますと、「古い鍔に新たに切れ目を入れて責金を入れるのはもったいない」という方もあろうかと思います。もし、そういう惜しいような鍔でしたら、居合刀などに付けなければよいのです。
どんなに気を付けていてもやはり、使っていると鍔にしろ、縁や頭にしろ、目貫にしろだんだん痛んできます。ですから居合刀につけるのでしたら、新作の金具か古い物でも焼け身の鍔とか後家目貫とか、江戸期の物でも仕入れ物とかいった安物で充分だと思います。
江戸時代の金具で古い物なのに全く使われた形跡のない物があります。そういうのは大抵よいもので実用に使うものというよりむしろ贈答用に使われた物が大半です。 居合をする人の中には「武士たる者は云々」とか「実戦では云々」というお話が好きなお方もありますけれど、それこそ昔の「武士たる者は」刀や金具をとても大切にし、稽古や「実戦」に使う刀かそうでない刀かというのはきちんと分けていましたし、金具についてもそうです。鍔、特に鉄鍔を責金もなしで使っておりますと刀の中心の峯がだんだん丸くなってきます。そう言う意味でも鍔の責金はきちんと入れておくべきだと思います。
そのむかし秀吉が刀懸けの刀をみて拵えや寸法からそれぞれの持ち主を当てたという話がありますが、享保の頃八十歳の老人が昔のこと、即ち江戸初期のことを思い出してかいた『むかしむかし物語』に
たとえば座鋪相客十人あれば十色のものずき、中にも老人有年の若き有中年の人あり、依之刀の尺三尺餘の刀もあり、弐尺四五寸も有、二尺のも有、重きもあり軽きあり、かなもの色々替る、知らぬ人来たりて見ても、是は大形誰の刀なる覧と、若きと中年老人、夫々に刀差主知る程のことなり
口語訳
例えば座敷に十人の客がいたとすれば、好みもそれぞれで、客の中には老人も若い人も中年のひといるから、刀の寸法も三尺あまりのものもあれば二尺四五寸のもあり二尺のものもあり、重い刀もあれば軽い刀もあり、金具も色々である。だから、知らない人が見てもこれは多分あの方の差料であろうと刀それぞれに若い人、中年、老人とそれぞれに持ち主が分かったものだ。
今日、多くの方が模造刀を使われたり、真剣でも出来合いのものを求められることが多いせいか、居合の大会などを見に行ってもあまり個性的な拵えを見ることはなく(中には別な意味でびっくりする拵えもありますけれど)寂しい思いがします。講武所のように特徴的なものをお持ちの方があったり常府拵えでもなるほどと思われるような金具の取り合わせのものがあると嬉しくなるのですけれど・・・・・。
目釘は大切な物ですので昔の人は随分気をつかったらしく、幕末の名工清麿の後援者であり、武道家としても有名な旗本窪田清音は鉄目釘は打ち合いのとき抜け飛ぶ恐れがあり、二本目釘は中心が柄を破る恐れがあるのでよくないと言っております。
変った目釘としては日本武道体系所収の心形刀流の伝書に打ち破った大鼓の革を麦漆で固めて作る目釘の事が出ており、実際に作ってもらったところ、舞台に出る前には炭火で炙って使用する大鼓の革だけあって湿気に非常に敏感で、暫く稽古すると掌の湿気を吸って非常に堅くしまり抜けなくなりました。
しかし、基本的に革ですので中心や柄木を痛めることもなく、非常によいものでした。
又、柄木と言えば中を繰り抜くとき、中心と同じ形にするのではなく、先へ行くほど次第に浅くなる溝をほり、中心より長く中を掘るべきであることを本阿弥光遜が戦争中のべておられ、旧幕時代の柄を修理のために開いてみるとやはりそうなっています。
柄木に鮫革を着せるとき差裏の中央で合わせるのがよく見る方法ですが、「前垂着」というやり方では鮫革を長いままぐるりとまくので、合わせ目がでません。これですと丈夫であると言う事もありますが、その鮫を剥いで再利用しようとしたとき寸法が足りないというようなこともなく、よかったのだと思います。昔は鮫革はものによっては新作の刀よりたかく、献上品にしたものすらある位ですから。
さて、その鮫の上に巻く柄糸ですけれど、戦前の『日本刀講座』には名人・柄平の話が出ており、西国の武士は柄を摘巻にする人が多いが、関東は捻巻にし、この方が手の内がよい、と彼がある土佐藩の武士に話したところ、なるほどそうだったのでその武士は周りにも捻巻を勧めたという話が出ていたように思います。
巻き方では糸の片側を重ね合わせて片手巻にする「雁木巻」というのがあり、これにすると、力がかかっている部分は巻きが崩れてくるので、変な柄の握り方、刀の使い方をしているとすぐ分かります。これは宮本武蔵考案という伝承があり、「武蔵巻」とも呼ばれています。
柄糸は大抵組紐か革ですけれど、革は雨に濡れると乾きにくく、黒の柄糸は(染料の影響で)切れやすいと言う事が『雑兵物語』に出ていますが、今日の科学染料で染めた物はそういうこともないでしょう。
あれは、『備前老人物語』でしたでしょうか、近頃の武士は足袋が汚れているのは気にしても柄糸が汚れていても平気だと歎いていました。今年97(平成13年現在)歳になるおじいちゃんで、故・山内豊健先生の柄を巻いていた方と話していたら、昭和の初め頃であったか、一時武専の学生の間で革柄が流行った事がある、とか、旧幕時代は年末には柄を巻き替え綺麗な柄で新年を迎える心がけのよい武士が大勢居たと言う話しを聞いたとかいうような逸話を教えてくださいました。
『葉隠』の中で度々「芸者」という言葉が出てきます。これは夜の祇園町で働く女性の事ではなく、武芸者という意味です。
武芸に貪着して、弟子などを取て武士を立ると思ふ人多し。骨を折て漸芸者にならるゝは惜しきこと也(聞書一)
芸能に上手といわるゝ人は、馬鹿風の者也。是は唯一篇に貪着する愚痴ゆへ、余念なく上手に成る也。何の益にも立ぬもの也(同)
芸に好れ候も、低い位也。若名人に成、御用に立候時、先祖以来の侍の道を立迦、芸者に成る事に候(聞書二)
又、『甲陽軍鑑』にも「鈍過たる大將の事」の中に国を滅ぼし家を破る大將として
武芸―略―稽古あれども、其心戯なる故、弓矢の道へはおとさず、芸者の様に仕成
と見えております。
これらによれば、江戸期の武士に言わせると、諸侍としても、大將・国持大名としても、如何に武芸が武士の表芸とはいえ、ただその技術に執着するだけでは単なる「芸者」であって、何の役にも立たず、たまたま何かの時に「芸者」として役に立ったとしてもそれは先祖以来の「侍」の家に泥を塗ったも同然であり、大將がそのような風であれば国を滅ぼすもとだということですね。『葉隠』を読むと、これはただ、死ね、死ねという書ではなく、どのように社会と関わっていくか、ということをテーマとしたものであり、江戸時代の武家にとって武芸も単なる技術に終始してしまうのなら所謂「河原乞食」と同じ事であり、芸が売り物というのは武家ではないということですね。勿論、だからといって『葉隠』も『甲陽軍鑑』も武芸に不熱心であってよい、とか、あるべきだ、などとは一言も言っておりません。むしろ積極的に武芸を稽古することを勧めています。ただ、それは「侍」を作るための武芸であるべきであり、「芸者」を作るためのものであってはならないと言うことです。
この正月、とある剣連支部の稽古始めに呼んでいただき、そのとき聞かせていただいたスピーチのなかで「昇段を目指すべきで、目的のない稽古をしてはいけない」と教えていただきました。御一新以来、武道もときには軍刀術の元となったり、国粋主義発揚の道具となったりと様々にその使い道が考えられ、昔ながらの見世物としての武芸もまた今日お見受けします。どれが正しく、どれが間違いということはなく、それぞれ武芸の受容の形であり、どれ一つ簡単に否定してよいものとは思いません。ただ、時には旧幕時代の武家の言葉にも耳を傾けていただければ、先人の諸霊にも喜んで頂けるのではないかと思い、こんな資料を上げてみました。先人と言えば、わたくしは薩摩守忠度が大好きで、その歌のなかでは辞世となった旅宿花より
さざなみや 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山桜かな
の方が好きです。昔都であった志賀はうちすてられて荒れ果てているが、そこには都があったときと同じように山桜が咲いている・・・・、つまり志賀が都であろうと荒れ野となろうと、山桜=志賀の本質的な美しさはかわらない、ということですね。
五月大会にいくと随分凝った居合刀の拵えをお見受けすることがあります。ただ、抜いておられる刀のハバキを拝見すると銀無垢一重はばきが多いですね。刀剣ブームのとき、古い味わいのある銅はばきを捨てて猫も杓子もあれをつけた名残なのでしょうか。 旧幕時代、古刀は二重ハバキ、新刀は一重ハバキとする習慣があり、ハバキを見ただけで刀の新古がわかり、これを「ハバキ鑑定」と言っていたそうですが、こうなるとこういう言葉も死語ですね。 又、金無垢にせよ銀無垢にせよ、無垢のハバキというのは短刀なら兎も角、実際に使う刀には大名諸侯といえど使用せず、必ず金着や銀着にしたそうです。つまり銅の土台の上に金か銀を着せるわけで、是だと板バネの理屈でハバキがよく効きます。
又、着せというと古く切羽にも着せのものがあり、これも同じく板バネの理屈で鍔をやんわりと抱き留め、ハバキをふわりとハバキ袋の中へ押し、ハバキの効きをよくするので実用上優れたものですが、今日ではあまりお目にかかることもありません。
「実用」と言えば、目貫、あれを手溜まりの為の実用品と考えておられる方もありますけれど、どうでしょうか・・・・。古く笠目貫というものがあり、丁度(⊥T)こういう形の二個一組の丁字型の金具で是を太刀の柄の裏表から通すと、片方の足が棒状、もう片方が筒状になっているのでキッチリと刀身を柄に留められるようになっていました。これの足の部分が目釘となり、笠の部分が目貫となったわけで、従って呪術的・信仰的意味合いを除けば、目貫は「実用品」ではなく、装飾品です。ですから、刀を構えたとき、手に当たらないよう右が下がり、左が上がるように巻き込みます。柳生拵はこれが逆になりますけれど、柄木を目貫の形に窪ませて巻き込み、痛まないようになっており、手だまりとしては使用していません。
ちなみに柳生拵は単に目貫の天地を逆にしただけで「柳生拵」と呼べるかというと、そうではなく、縁頭も柳生独得のものを使いますし、鍔も柳生鍔という独自のものがありますし、さほど長い刀も柳生拵には使いません。ですから二尺四寸の刀に長州鍔をかけ、柄木をそのままに、目貫の天地だけ逆にして「柳生拵です」と言われても柳生流の方々なら返事にお困りになるのではないでしょうか。
補筆−ハバキのこと
ハバキには太刀ハバキと刀ハバキがあり、通常見るのは刀ハバキが殆どです。太刀ハバキは刀同様に鎬がありますので、外して後ろから見ると菱形になります。軍刀ハバキはこの太刀ハバキを意識して作っているようです。猶、刀の手入れをするとき、ときどき、ハバキを外して、ハバキの下も手入れしないと、打ち粉の粉が一直線に溜まっており、これが湿気を呼んで拭っても白い線が残ることがあります。ただ、これをふき取るときに限り、刀の上から下へふきおろします。そうしないと、刀にひけきずをいれることがありますので。勿論通常と逆で、大変危険は拭き方ですから充分注意して拭く必要があります。
戦場ではなく、日常の何らかの場で人を斬った場合、血まみれになった刀をどうするか、という話があります。前後の状況により、その場を一刻も早く立ち去らねばならぬ場合、血刀を鞘におさめるわけにもいかず、かといって手入れをしているひまもないというとき、羽織の下に刀を隠せ、というのがあります。こうすると目の錯覚で刀を差して歩いているように見え、鞘の中を血まみれにする事もありません。この方法は禁中の能のとき人を斬った吉岡某も用いておりますね。
血の付いた刀は馬糞で拭うと血の油までとれるといわれています。また、切った後ではなく、人を斬りに行く前にねたば合わせということをして、切れ味をよくするということをします。その方法の一つとして、はいている草履や草鞋に刃の部分を挟んで引っ張れ、というのがあります。これは昔の事ですから細かい砂や土が履き物のうらについており、丁度サンドペーパーでこすったようになるからでしょう。
しかし、介錯の後、刀を拭うともなんとも言われておらず、型通り行います。そうすると袴も鞘も血まみれになりますけれど、これは儀式ですから。ただ、介錯の時、裃の上に羽織をつけよ、というのが口伝としてあります。
今日ではもう殆ど見ることがなくなってしまいましたが、古い白鞘にはハバキが木製で柄と一体になっており、柄を割るとハバキも半分になる形式の物があります。こういった古い白鞘には往々にして目釘が打たれておりません。それは目釘穴から空気と共に湿気が通い、そこから刀が錆びるのを嫌うためです。
「それなら、振ったら危ないでしょう」と言う方もあろうかと思いますけれど、白鞘は休鞘ですから、刀を振り回すための物ではありませんし、他人の大切なお刀を手にとって拝見させて頂くということは旧幕時代は大変なことで、その大切なお刀を振ってみる等という不心得者は有りませんでした。又、今日のように白鞘のみで刀を見せると言うこともなく、仮に白鞘に入れてお目にかけるとしても、必ずその刀の拵もお目にかけたものだそうです。
お城に上がるときの正式な拵を裃指、番指などと申しますが、別名これを「献上拵」とも呼ぶのは、この拵に入れて献上したからです。又、古い白鞘には随分と薄い物がありますけれど、それは錆が出た場合、白鞘をわって錆の箇所を取り除くため、なんどかそういうことを繰り返せば自然鞘も薄くなるからであり、最初から薄いわけではありません。腰に指して移動するものですから、拵の鞘は薄い方がよいし、保存という面からも後世の修理の可能性の面からも白鞘は太い方がよいのです。今日の白鞘は随分細い様ですが・・・。蛇足ながら東北地方等寒い地域の拵鞘には太い物があります。これは冬、室内外の温度差が大きいので、眼鏡が曇るように刀が曇る、つまり、水滴がつくことを嫌ってのことです。今日の冷暖房が完備した時代にもこの心がけは参考になると思います。
更に言うと、朱鞘もこの結露ということと無関係ではありません。呪術的な意味は別として戦場で自分の存在をアピールするのに華やかな朱鞘の大小、あるいは太刀拵というのも一つの方法でしょう。では、日常生活においてはどうかというと、夏に朱鞘というのは意味があります。涼しい屋内から表に出ると黒い鞘は真夏の暑い日差しの中では一気に熱くなります。と同時に鞘の中の空気の温度も上昇しますが、鋼鉄の刀身は空気ほど急に温度は上昇しません。この空気と刀身の温度差が結露の原因となります。しかし、朱鞘は黒い鞘程急に温度が上昇しませんので有る程度この問題を防ぐことが出来ます。
だから、冬の凍てつく頃に朱鞘を指して歩くのは恥ずかしいですね。「あいつ、ちゃんとした鞘がないのかしらん」と思われますから。確かに彰義隊は朱鞘でしたけれどこれは戰支度ですから夏に朱鞘を指すのとは意味が違います。昔は一つの刀に正式な席に指していく為の拵と四季折々に付け替えた日常用の拵が付随している場合もありました。例えば研ぎだした鮫革の表面に枝垂れ柳の様な縞がでることで「柳鮫」と呼ばれて珍重された鮫革の拵なんて春にはなんとも風情があるものでしょうし、梅の花を散らしたような模様が出る「梅花鮫−かいらぎざめ」なども季節感が有ります。又夏なら呂鞘に青貝のらでんで氷のわれた様子を表した「氷割紋−ひわれもん」の鞘など涼しげで良いと思います。居合のお稽古に使うのにはもったいないですけれど、稽古用の拵は別に合わせ鞘でもなんでもよいので痛んでも惜しくないような金具でつくり、四季折々の金具を取り合わせて拵をつくり、季節毎に床の間に掛け替えるなんて、旧幕時代の武士の生活みたいで楽しいと思います。まぁ、そこまでやるとしたら余程気に入っている刀とか、家代々の大事な刀でないと似合わないでしょうけれど。