ひっそりと通る区界


 京都は、みなさんご存じのように、もと「平安京」があった町です。当たり前のことですが、今はもうその面影はほとんどありません。ところが旅行会社のパンフレットやガイドブックなど、京都を紹介するものは、「雅」とか「幽玄」とか、とかく京都を、平安京→平安貴族→優雅な生活といった図式で紹介しています。
 由来など平安時代に関わりのあるところはあるでしょうが、「京都駅へ降り立った瞬間から、平安時代へタイムスリップ!」 そんなことあるわけないのです。

 実際のところ、現在の京都は江戸時代の京都の面影を色濃く残した町です。もっといえば、豊臣秀吉が作った京都、それが今の京都の原型です。ところがこの事余り知られていないように思います。秀吉といえば「太閤さん」、「太閤さん」といえば大阪ということで、大阪と秀吉はよく言われるのですが・・・

 そこで今回は、そうした江戸時代と京都の関わりを見ることができる例として、区界を取り上げてみましょう。
 区界は行政区の界ですので日常生活では余り意識されませんが、「上京区」と「中京区」の界、あるいは「中京区」と「下京区」の界などを指します。実は京都の場合、この区界を見るだけで、江戸時代の京都、そして明治から現在までの京都市街の変化の様子が分かるのです。

 一般的に見て、こうした区の堺は、大きな道、河など、比較的目に付くもの、ランドマークとなるものが設定されますが、京都の場合少し違います。特に江戸時代から都市化していた部分は、その違いが顕著です。その例としては、上京区と中京区の界、中京区と下京区の界があげられます。

 これらをだいたいで言うと、上京区と中京区は丸太町通りを堺に、北が上京区、南が中京区に分けられ、中京区と下京区は四条通りを堺に、四条通り以北を中京区、以南を下京区としています。

 しかし厳密には、「通りに南面をした家並みの敷地北辺を通って」います。言葉での説明では分かりにくいでしょうから、地図を見てみましょう。

 ここに示した地図は中京区と下京区の界を示したものですが、堺を青い線で引いてみました。

 一目見て分かるように、両区の堺は四条通りを通っていません。通りの少し北を、凸凹と通っているのが分かると思います。先ほどだいたいと言ったわけはここにあるのです。これは上京区と中京区の堺も同様で、二条通りの北で凸凹と分けられています。

 どうしてこうなったのか、ということなのですが、上京・下京区が成立するのが明治12年(1879)。現在のように上京・中京・下京の3区になるのは昭和4年(1929)のことです。
 こうした行政区が成立する時には、区の線引きが行われますが、実は京都の場合、安易に線引きできない(道路で区切ってしまうということ)事情があったのです。

 京都の中心部では、道路を挟んで向かい側の家並みが一つの町(ちょう)を作っています。南北向・東西向の違いはあるにせよ、中心部はきれいな菱形が並んだようにみえます。これらの町は、古いものは1500年頃に成立したことが確認できます。ちょうど豊臣秀吉が京都に入ってくる少し前くらいです。ですから明治になって行政区を定めるときには、当然町が存在をしていたことになります。もし仮に道路で区切ってしまったとしたら。いままで一つの町だったものが、二つになってしまうことになるわけです。
 「ご一新」の号令のもと、多くの改革を行った明治政府ですから、その権力で町くらい簡単に切ってしまいそうですが、実際のところそう簡単に切ってしまえるものではありません。

 例えば京都の夏の風物詩祇園祭では、山鉾巡行の際多くの山や鉾が出ますが、それらはみなこの町によって管理・運営されています。もし仮に、分かり易いからという理由で、道路を区界に設定してしまったとしましょう。するとどうでしょう、町は分断され、山や鉾の母胎そのものがなくなってしまいます。「町衆の祭り」と言われ、葵祭・時代祭と共に、京都を代表する祭礼の一つである祇園祭(厳密には祇園祭の山鉾巡行)が行えないことになってしまうわけです。
 これだけではありません。京都の人(特に年輩の方)は「学区」を大事にされますが、この学区も元は町がいくつか集まったもの。(学区については別に書きたいと思います)
 京都に住む人たちにとって非常に身近な、地域のコミニュティとしての町、安易に変更してしまうと、どうなるか想像に難くありません。日常生活の変化は人々が培ってくるものも変化させることでしょう。それは、これまでの京都で培われてきたもの自体を大きく変化させてしまう、京都そのものを変質させてしまうものなのです。


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