斜めの道を探せ!

 京都は碁盤の目の街。京都を語るとき、まず第一に言われることである。
 794年、桓武天皇が平安京を作ったが、この平安京が条坊制という都市計画をもとにしていたため、碁盤の目になったのである。もちろん、今の京都がその時の条坊制をそのまま伝えているかというと、全然そんなことはなくて、平安京造営以降、京都が都市として歩んでいく中で、人々の生活と共に変化をしながら、また豊臣秀吉などによる大規模な都市改造を受け、今に至っている。むしろ今の京都ではそうした平安京の面影を探す方が難しいくらいである。
 とはいえ、やはり京都の町並みは碁盤の目である。それだけ後の都市改造がそれ以前の平安京の上で行われたことの現れでもあるのだが、車で走ってみるとこれがよく分かる。運転席から前方を見渡すと、自分が走っている相当先の信号まで見渡せる。遙か先の信号が黄色から赤へ、そして前方に並ぶ信号が順番に変わり始める。他の都市に比べ、東西路や南北路がまっすぐに通っているため、こうしたことがすごくよく確認できる。私は、この光景に出くわす度、やっぱり京都は碁盤の目なんだなと思うのであるが・・・。
 そうだからかもしれないが、京都で斜めの道は目立つ。歩いていても、車で走っていても斜めの道があると、逆になんでこの道は斜めなのかなと考えてしまうから不思議だ。
  後院通(千本三条〜四条大宮)
  中立売通(千本中立売〜北野天満宮前)
  西今出川通(今出川七本松〜北野白梅町)
  烏丸通(烏丸七条〜烏丸花屋町)
  丸太町通(丸太町智恵光院〜丸太町松屋町)

後院通

烏丸通り

丸太町通り

中立売通り
西今出川通り

 ここにあげたのが、斜めの通りの代表的なものである。もちろん、斜めの道は他にもたくさんある。「辻子」(ずしと読みます)などはその典型的なものですが、辻子はまたいずれ話をするとして、ここでは列記した斜めの道について見てみましょう。
 ここにあげた斜めの通りは、後院通のように、まさに斜めに走っているものもあれば、中立売通や丸太町通のように、部分的に斜めに走っているようなものまで色々ある。具体的な場所は地図を見ていただければわかるとおもいますが、いずれの道も通ってみれば、京都にあっては少し変わった通りだな、つまりは「なんでここ曲がってるんやろ?」ということが実感できる場所だと思う。
 ここにあげた五つの斜めの通を調べていく内に、これらにはある共通点があることに気がついた。それは何かというと、いずれの通りも電車道だったということなのである。
 いまやその面影はないが、京都は全国で一番早く市電が走った町である。正確には明治28年(1895)4月、民営の京都電気鉄道会社(京電)が、塩小路高倉から伏見下油掛の間で営業を開始したのに始まり、明治45年(1912)には市営電車が開業。昭和53年9月に廃止されるまで、80年以上に渡って市民の足として利用されていた。
 市電の路線は新設・拡張・廃止を繰り返したため、非常にややこしいのだが、今回の斜めの通りは、その市電の開業に関係するのである。
  後院通  −明治45年
  中立売通 −明治45年
  西今出川通−昭和32年
  烏丸通  −明治45年
  丸太町通 −明治45年
 先ほどの斜めの道を通る市電の路線が開通した年をあげてみると。なんと西今出川通をのぞき、斜めの道は全て市電開業時に作られたものであることが分かる。一つだけ西今出川通りが例外のように思えるが、これも通りが開かれたのと同じ年に中立売通を走っていた路線の一部が廃止になっているので、あながち無関係ともいえない。
 碁盤の目で知られる京都にある斜めの通り、実は市電の足跡だったのである。
 市電の路線が廃止され、線路が撤去されると、そこは普通の道路となんら変わりは無くなってしまう。残るのは不自然な通り方をした道路だけなのである。


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