薄境
犬が死んだ。
彼女が飼っていた犬。
彼女が子どもの頃から育つのを見てきた犬。
死ぬ時はあっけないものだった。
犬が道路に飛び出し、車に跳ねられた。
僕の目の前で、彼女の目の前で。
車は行ってしまった。
犬を轢いたことを詫びることもせずに。
彼女の腕の中で犬は死んでしまった。
悲しそうな瞳を見せ犬はあえいでいた。
犬の呼吸がすっと消えたのか、たんだん消えていったのかは覚えていない。
ただ、彼女は涙をこぼしていた。
ぽろぽろと涙の玉をこぼしていた。
「庭に埋めてやろう。」
僕は言った。
「もう少しだけ・・・。」
その声は哀しみに奮えていた。
子どもが泣くみたいにぼろぼろ涙をこぼしながら。
僕は犬の頭をなでていた。
生きていた時と同じぬくもり。
ぬくもりはだんだんと消えていくようだった。
その日、彼は彼女の家の庭に埋められた。
彼女の家の小さな犬小屋、そこにはもう何もいない。
ぽっかりと隙間ができたかのように。
僕は彼女に何もしてあげられない。
こんなにも近くにいるのに
なぐさめてあげることすらできやしない。
僕が側にいることが彼女のなぐさめになるだろうか。
それが無力な僕にできる、唯一つのこと。
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