時の思い出
2000 2/20


俺が大学を受験したのは、
何かすることを見つけるまでの時間稼ぎのつもりだった。
中学、高校と、俺はなんの目的もないままに過ごしてきた。
一日を、ただ、ぼーっとして過ごすような毎日。
きっと、大学でも同じ様な生活をおくるだろうと俺は考えていた。
そんな日々の中、俺は彼女に呼び止められた。

「あの・・・。」
振り向くと、そこには見覚えのない女の子がいた。
「俺になにか用?」
「私とつきあってくれませんか?」
少女は俺の瞳を見つめ、そう言った。
彼女の眼は真剣そのものだった。
「それって恋人になってくれってこと?」
「はい。」
「別にかまわないけど・・・俺、君と会ったことある?」
「一度だけ、一度だけ、会ったことがあるんです。」
「私がこけて、鞄の中の物をばらまいた時に、ばらけた物を一緒に集めてくれました。」
朧げながら、確かにそういう記憶がないこともなかった。
「でも、後はあなたを何度か見かける事があっただけですけど・・・。」
「私とつきあってもらえませんか?」
「別にかまわないけど、俺、君のこと好きにならないかも知れないよ」
「それでもかまいません。一緒にいてもらえれば・・・。」
「・・・それじゃ、電話番号とか教えてくれる?」
「えっ?」
「つきあうんなら、連絡取れないと・・・。」
「ほんとに、つきあってもらえるんですか?」
彼女は俺とつきあえるとは思っていないらしかった。
どうも、最初からダメと考えてアタックしたようだった。
彼女から聞いた話では、俺は雰囲気的に話しかけにくいタイプの人間らしかった。
そんなわけで、その日から俺と彼女のつきあいが始まった。

彼女はすごくかわいいと言うほどの子でもなかった。
・・・が、俺の好みではあった。
彼女はショートカットが似合う子だった。
彼女はよく笑った。
なんてことはない事にでも、お腹を抱えて笑っていた。
彼女がよく笑うので、俺もつられて笑ってしまう事が度々あった。
周りを幸せにできる人間。
彼女はそういうタイプの人だった。
俺は彼女が笑うのを見る度に、
きっと彼女には悩みなんてものはないんだろう、
そう思っていた。

彼女とは、駅前の時計の下でいつも待ち合わせをしていた。
何度か、待ち合わせの時間より速く時計の下に行ったことがあった。
それにも関わらず、彼女はいつも時計の下にいた。
俺よりも、よほど速い時間に時計の下にいたんだろう。
彼女がどれくらい俺を待ってくれるかを試したこともあった。
何時間経っても、俺を待っていそうだったので、それは一度っきりだったが・・・。
その時は、彼女に謝り続けた。
彼女はあっさりと許してくれたのだが、俺の気持ちがすまなかった。
彼女は陽気で、何事も前向きに考える子だった。
人前に弱気を見せることはないんじゃないかと思えるほどに。
俺は、そんな彼女に惹かれていたのかも知れない。
俺にはそんな生き方はできなかったからだ。

俺と彼女の出会う時間は次第に増していった。
ある日、彼女と一時に会う約束をした。
彼女は制服の姿で待ち合わせの場所にいた。
「学校は?」
「早退した。」
「いいのか?」
「いいんだ。私にとって学校はあまり意味がないもの。」
「学校っていうのは、社会にでる人たちが勉強する場所でしょ?」
「俺は、それだけじゃないと思うけど。」
「それに、私には学校よりも大事なことがあるし。」
彼女は俺に微笑んだ。
「そういうそっちは、大学どうしてるのよ?」
「さぼってる。」
「大学生はさぼったっていいんだよ。」
「そういう、屁理屈こねるかなあ。」
彼女は俺とつきあうまでは、真面目だったらしい。
無遅刻、無欠席、授業態度良し、成績中の普通の学生。
そういう意味では、俺も優等生だったのかもしれない。
親に言われるままに、一流中学、一流高校、一流大学と入ったのだから・・・。
目標の見つからない俺にとっては、いいレールだったのかもしれない。

「ごほっ、ごほっ、ごほっ。」
横を見ると、彼女がハンカチを口に当てて、せき込んでいた。
「風邪引いてるのか?」
「ううん。私って軽い喘息持ちなんだ。」
「だから大丈夫。」
彼女はそう言って、ガッツポーズをしてみせた。
彼女は俺と一緒にいる時は、本当に楽しそうだった。
俺も彼女と一緒にいると、楽しかった。
俺はそんな彼女がかわいいと思っていた。
少なくとも彼女といると、退屈することはなかった。

「月がきれいだね。」
「まるで誰かを迎えに来ているみたいに・・・」
彼女が月を見上げて呟いた。
その時、彼女と見た満月は美しかった。
まるで吸い込まれるかのような美しさだった。
「夜は嫌いだな、一緒にいられないから。」
「夜が来なければいいのに。」
「いっそのこと、時間が止まればいいのに。」
彼女の横顔は何か悲しげだった。
俺は今まで彼女の作ったことのないその顔にみとれていた。
彼女が俺にもたれてきたのに気付かないぐらいに。
ふいに胸に彼女の重みを感じた。
彼女の突然の行動に俺は少し困惑した。
「しばらく、このままでいて。」
俺は彼女の重みを胸に感じながら、真っ白い月を見上げた。
「俺は夜は嫌いじゃない。」
「誰もいない世界も、冷たい空気も静けさも・・・」
闇が長い静寂を作った・・・。
静寂を破ったのは彼女だった。
「心臓の音が聞こえる・・・。」
「心臓の音って、なんだか落ち着くね。」
夜の静けさの中、彼女の声と呼吸の音だけがはっきり聞こえていた。
ぽたっ、足に水滴のようなものを感じた。
雨は降っていなかった。
「泣いてるのか?」
「うん・・・。」
「どうして?」
「わかんない・・・。」
ぽたっ、また足に水滴が落ちるのを感じた。
寒くもないのに彼女の肩は震えていた。
俺は彼女を優しく抱きしめた。
「もっと強く抱いてほしい。」
俺は彼女の望み通り彼女を強く、強く抱きしめていた。

ある日、せき込んだ彼女のハンカチに、赤いなにかが付いているのが見えた。
俺は彼女の母親に会い、彼女の身体の事を聞いた。
彼女は病気だった・・・。
現代の医学では治る見込みのない病気。
しかも、あまり長くなかった。
俺には信じられなかった。
あんなに元気な彼女がもうじき死んでしまうなんて・・・。
途方もない現実だけを押しつけられた気がした。
俺は無力だった。
出来ることは、ただ彼女に思い出を作ることだけだった。

その日は間もなく訪れた。
彼女が目の前で吐血した。
血がゆっくりと地面に染み込んでいくように見えた。
彼女がせき込む度に、血は地面へと滴り落ちた。
そして、彼女は病院へと運ばれ、集中治療室に入れられた。
俺は震える手で、彼女の家に電話を掛けた。
やがて、彼女の母親が駆けつけてきた。
それからしばらくして、手術中のランプが消え、医師が姿を表した。
「先生、娘は、娘はどうなんですか!?」
彼女は医師にすがるようにして尋ねた。
「残念ですが、娘さんは持って、15分というところでしょう・・・」
医師はそう言いながら、首を振った。

俺は彼女の元へ駆け寄っていた。
「て・・・にぎ・て。」
彼女が何かを言った。
俺は彼女の口元に耳を寄せた。
「手・・・握って・・・。」
確かにそう聞こえた。
俺は彼女の手を両手で包み込んだ。
彼女の手は冷たかった。
「暖かい・・・。」
彼女は俺に微笑んだ。
俺の目に涙が滲んだ。
「病気のこと・・・隠してて・・・ごめんなさい・・・。」
「知ってたよ、君の病気のことなら・・・。」
「怖かった。病気のこと・・・言ったら嫌われそうで・・・。」
「私・・・あなたと一緒にいれて・・・幸せだった。」
いつのまにか、彼女の頬を涙が伝っていた。
「俺も君と一緒にいれて、幸せだった。」
俺は涙をこらえながらそう言った。
「最期に・・・して・・・」
彼女の声はかすれていたが、俺には彼女が何を言ったか分かった。
「わかった。」
「ありがとう・・・。」
ゆっくりと、彼女の瞳が閉じられた。
俺は彼女とキスを交わした。
それが、彼女との最初で最後のキスだった。
その瞬間、ピーーーーーッという音が部屋の中に鳴り響いた・・・。
「・・・ご臨終です。」
こらえていた涙が頬を伝わり落ちた。
涙が止まらなかった。
自分の無力さがつらかった。
俺は、強くなろうと思った。
そして、涙は二度と流すまいと心に誓った。

彼女はいつの間にか俺にとって大事な人になっていた。
彼女を失って初めてその事に気付いた。
彼女との思い出は、もう二度と作ることはできない。
ただ、平凡な日常の思い出が、俺にとって、一番大切な物になっていた。
いつも駅に行けば彼女に会えると思っていた。
彼女の俺を待つ笑顔が見れると思っていた。
駅に行く度に、視線は駅前の時計の下を向いた。
駅前の時計の下には彼女はいなかった・・・。
心の中に穴が開いたようだった。
何もやる気が起きなかった・・・。
いっその事、死んでしまおうかとも思った。
だけど、死んでしまうわけにはいかなかった。
彼女は死にたくて死んだわけではなかったからだ・・・。
生きられる時間を彼女は精一杯に生きた。
俺もそう生きるべきだと考えていた。
ずっと考えて、やっと自分の進むべき道が見えた。
俺は医者になろうと思った。
彼女のように死ぬ人を、一人でもなくそうと思ったからだ。
・・・実際には、彼女を失うことで傷ついた心を、
他の人を助けることで、癒そうとしていただけかもしれない・・・。
それでもよかった。
俺がどういう理由で人を助けようが、人が助けられる事に変わりはない。
今でも救急車の音が聞こえると、彼女の事が頭に浮かぶ。
年が経つにつれ、薄れていく記憶・・・。
だけども、忘れたくない記憶というものがある。
初めて好きになった人。
俺は彼女が好きだった。


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