貴広
2000 1/26
ふと、一人の少女が目に止まった。
橋の真ん中で川を眺めている少女。
普通の人とは何かが違った。
それだけは、はっきりとわかった。
いつも彼女はそこにいた。
彼女の目は現実を見ていないような気がする。
なんとなくそう思えた。
「彼女が気になる?」
女の人の声。
俺は後ろを振り返った。
その人は何かを見て驚いたようだった。
「彼女はいつも何を見てるんですか?」
「たぶん何も見てないわ。もしかしたら過去を見ているのかもね。」
「?」
俺にはこの人の言っていることがわからなかった。
「彼女はね、人を待ってるの。君によく似た人を・・・。」
一瞬、その人の表情が哀しみに歪んだような気がした。
「そう、二度と会えない人を・・・。」
「・・・・。」
「でも、彼女はそんなことを知らずにその人を待ち続けているわ。」
「どうして?」
「約束したからよ。」
「たった、それだけのことで?」
「彼女にとって約束は絶対なのよ。」
「・・・・・。」
「あなたなら、貴広の果たせなかった約束、果たせるかもしれないわね。」
タカヒロ。心に大きくのしかかる名前だった。
「彼女はどうして貴広が死んだこと知らないんですか?」
「由理にとって貴広の存在は大きいわ。」
「彼女は繊細なの。」
「事実を知れば壊れてしまいかねないほどに・・・。」
「何も知らない方が幸せなのよ。」
「それは、違うと思う。」
「事実は知るべきじゃないんですか?」
「彼女がこれからを生きるためにも。」
「あなたは責任をとれるの?それで彼女が壊れた時に。」
「それができないんなら、あなたにそれを言う資格はないわ。」
責任・・・?
今まで軽薄に生きてきた俺には重い言葉だった。
でも、いつかは・・・、
いつかは、誰かが言わなければならないことなんじゃないのか?
俺は少し考えた後、その人に向かって言った。
「・・・そうかもしれない。」
俺はその場所で立ち止まり、川を見つめた。
止めどめなく流れる川、
いくら眺めても俺にはそれしか見えない。
いつのまにか、少女がこちらを振り向いていた。
「貴・・・広?」
少女の口から言葉がこぼれるかのように見えた。
「俺は・・・。」
出すべき言葉が口から出なかった。
彼女はふっと視線を川に落とした。
「・・・私、待ってるよ。 約束したから。」
独り言?
彼女の視線は川に向かったままだ。
「約束が守られなくても?」
「待ってる・・・、ずっと。 ずっと・・・。」
「君は明日もここに来るの?」
「・・・貴広はまた来てくれる?」
約束。絶対の誓い。
「明日、俺はここに来るよ。 約束する。」
俺が初めて背負う責任。
俺は、彼女と・・・約束をした。
いつも俺が通る場所。
そして、いつもと同じ場所に彼女はいた。
彼女は川を見つめていた。
俺も彼女と同じように川を眺めてみた。
川のせせらぎが光を反射して眩しかった。
「どうして、貴広はきてくれないの?」
「えっ?」
俺は彼女の言葉を頭の中で反復していた。
どうして、貴広はきてくれないの?
その言葉の意味を理解するのに少しかかった。
「いつから気付いてたんだ?」
「俺が貴広じゃないってこと・・・。」
「最初から。」
「最初から・・・。」
考えてみれば、貴広のことを何も知らない俺が彼女を騙せるわけはないんだ。
気が少し楽になった気がする。
「貴広は、もう君とは会えない。」
「どうして?」
「貴広は死んだんだ。」
迷いはあった、だけどそれを伝えるのが彼女のためだと思った。
「貴広・・・死んじゃったんだ。」
彼女はぽつりと呟いた。
「そうなんだ・・・。」
頭の中で言葉を確認するかのようにもう一度。
「ふふっ、おかしいね。」
「こんなにも待っているのに、もう会えないなんて。」
俯いた彼女の口元はたしかに笑っているように見えた。
俺はなにかぞっとしたものを彼女の台詞に感じていた。
「ねえ。」
はっ、と俺は彼女に視線を戻した。
いつのまにか彼女から視線を外していたらしい。
「天国ってあると思う?」
彼女の口元からは笑みが消えている。
もしかしたら初めから笑ってはいなかったのかもしれない。
「・・・・・・。」
俺は何も言えなかった。
いつもの場所に彼女はいなかった。
だけど、約束通り俺は彼女を待っていた。
待っている間に俺は昨日の事を思い返していた。
「天国ってあると思う?」
彼女が何を言おうとしているのか、なんとなく察しがついた。
「・・・・・・。」
だけど、俺は何も言えなかった。
下手なことを言いたくなかったらだ。
「死んだら貴広に会えるかな?」
彼女は何かにすがりつくような感じだった。
「君が死んでも貴広には会えない。」
「死んだ人間には二度と会えないよ。」
霊は存在するかもしれない。
だから、その存在を否定するのは間違ってるかもしれない。
だけど、そうしなければいけないと思った。
「そう・・・だよね。」
肯定してほしかったのか、否定してほしかったのか。
俺には彼女が何を考えていたのかわからない。
「あなたはどうして貴広じゃないの?」
彼女の何かが壊れてきている気がした。
「俺は貴広じゃないし、貴広にはなれない。」
「でも、貴広の代りにはなれるかもしれない。」
俺はなんでこうまで彼女に付き合っているのだろう。
本来なら関わらずにすむことなのに。
「貴広は君にはもう会えないんだ。」
「約束は守られることはない。 だから、君は自由だ。」
「君がここに来る必要はもうない。」
「だけど、俺は君に会いたい。俺は君が来るまでここで待つよ。」
「あの子を待ってるのね、今日はたぶん来ないわよ。」
聞き覚えのある声だった。
大人びた女の人の優しい声。
「別にいいんです、期待はしてなかったから。」
俺はその人の方を向いた。
「聞きたいことがあります。」
「貴広のこと、彼女のこと、そしてあなたのこと。」
「あらあら、たくさんね。」
「それじゃ、まず何から聞きたいの?」
彼女は優しく微笑んだ。
「それじゃあ、あなたの名前と彼女との関係を。」
「私の名前は瑠璃よ。由理の姉、兼、保護者ってとこかしらね。」
「彼女はどうして、あんな・・・、あんな感じなんですか?」
少し言葉に詰まった。
何と言えばいいかわからなかったからだ。
「あの子はね、あまり愛情を与えられずに育ったのよ。」
「家庭環境がね、いろいろと悪かったの。」
家庭環境が悪い・・・。
それは姉妹である瑠璃さんにも言えることなんじゃないのか?
「だから、あの子の心は閉じてしまっていたの。」
「あの子の心を開いたのが貴広だった。」
「貴広は少しずつ、少しずつ由理の心を解きほぐしていったわ。」
「由理が心を許せたのは貴広だけ。」
「だから由理にとっては貴広がすべてだった。」
「貴広は死ぬまで約束を破らなかったわ。」
「だから、あの子にとって約束は絶対だったの。」
「貴広はどんなやつだったんですか?」
「貴広は優しい子だったわ。」
「年の割には大人びていて・・・。」
「自分よりも他人の事を優先させる子。」
「あの子の人生そのものが他人の為にあったのかもしれない。」
瑠璃さんは少し間を置き、そして続けた。
「あの子の両親は一家心中で死んでしまったわ。」
「でも、彼だけが助かってしまった。」
「そうして身寄りのなくなった彼は、養子として引き取られたの。」
「貴広が私たちと出会ったのは、その頃だったそうよ。」
「私は貴広がそんなつらい経験をした後だとは知らなかった」
「彼はつらいこと苦しいことは一人で全部抱え込んでいたのね。」
「人にはそんな素振りをちっとも見せなかった。」
貴広は強いやつだ。
俺は心底そう思っていた。
「せめて私には、そんな所を見せてほしかった。」
瑠璃さんの瞳から涙がこぼれた。
「瑠璃さん・・・。」
瑠璃さんの気持ちが揺れている。
切なく、哀しく。
「ご、ごめんなさい。 今日はもう・・・。」
瑠璃さんが駆けていく。
俺は瑠璃さんの姿が消えるのをじっと見つめていた。
川の流れは絶えることなく、きらきらと光を反射している。
俺はぼんやりと、ただぼんやりと川を眺めていた。
「こんにちは。」
誰かが俺に声をかけた。
俺は声のした方を振り向いた。
「由理・・・ちゃん。」
そこには、間違いなく由理がいた。
でも、俺は肩透かしを食ったような気がした。
「私、昨日はずっと考えてたんだ。」
「いろんな事を。」
由理は微笑んだ。
戸惑いも何もなかった。
曇り空が晴れたような感じだった。
「俺はやっぱり貴広の代りにはなれない。」
由理はにこっと微笑んだ。
「あなたはあなた。貴広の代りなんかする必要ないよ。」
「あなたのお陰で私は少し自由になったの。」
由理は強い、きっと瑠璃さんよりも。
本当に繊細なのは瑠璃さんの方じゃないんだろうか?
「瑠璃さんはどうしてる?」
ずっと、瑠璃さんのことが気になっていた。
「お姉ちゃんの心は揺れてる。」
「あなたが貴広に似ているから。」
貴広・・・。
「お姉ちゃんを楽にしてあげて。」
「きっと、あなたならできるから。」
「でも、どうやって?」
「約束、明日ここ来て。」
「ああ。」
思いが人を縛っている。
思いが強いほど自由ではなくなる。
そんな気がした。
「お姉ちゃんに伝えて欲しいことがあるの。」
「貴広が私にだけ教えてくれたこと。」
由理は少し寂しげに笑った。
「貴広はね、お姉ちゃんのことが好きだったんだ。」
「私は守りたい人で、お姉ちゃんは大事な人なんだって言ってた。」
「きっと貴広は、私が貴広を好きなことに気付いてたんだ。」
「だから、貴広はそんなことを私に教えてくれたんだと思う。」
「貴広はお姉ちゃんのことが好きで・・・。」
「お姉ちゃんは貴広のことが好きだった。」
「だけど、貴広は私に優しくって・・・。」
「そのままいなくなっちゃって・・・。」
「お姉ちゃんは貴広の気持ちしらないんだ。」
「お姉ちゃんは貴広が好きだったのは私だって思ってるから。」
「私はお姉ちゃんに貴広の気持ちを伝えない。」
「だから伝えてあげてね、貴広の気持ち。」
風が吹いた。
心の中まで新鮮になるかのような涼しい風。
「わかった。」
心に言葉が溜まっていた。
暖かくて、切ない彼女の言葉が。
川が流れていく。
さらさらと留まることなく。
なぜかゆったりした気持ちでそれを眺めていた。
これから人を傷つけるかもしれないのにだ。
もう伝えることは決まっている。
覚悟もした。
だからこそ心に余裕があるのかもしれない。
「こんにちは。」
声のする方を振り向いた。
瑠璃さんだ。
微笑んでくれてはいない。
「こんにちは。」
俺は瑠璃さんに挨拶を返した。
自然と微笑んでいた。
「あ・・・。」
瑠璃さんの開きかけた口が閉じられた。
俺の顔が貴広と重なったのだろうか。
「話があります。」
「由理から聞いてると思いますが・・・。」
彼女の思考を遮るように話を切り出した。
「何かしら?」
瑠璃さんの微笑みは少し陰りがあった。
貴広のことを瑠璃さんに話せばどうなるだろう。
何かが変わるだろうか。
決心が少し揺らいだ。
だけど、話してみないと何もわからないままだ。
「貴広は由理じゃなくて瑠璃さんが好きだったんです。」
「えっ?」
唐突すぎただろうか。
でも、俺にはタイミングを図るとかそんな器用なことはできない。
ありのままの事実を話すことしか。
「自分の弱さを瑠璃さんだけには見せたくなかったからだと思う。」
「貴広が瑠璃さんに自分の弱いところを見せなかったのは。」
「あっ・・・。」
瑠璃さんの瞳から涙がこぼれる。
遅すぎる真実だと思う。
貴広が死んでからすべては止まっていた。
瑠璃さんの時も由理の時も。
これで瑠璃さんの時は流れ始めるだろうか。
あとは時間が解決してくれるだろう。
残る約束はひとつだけ。
「ここで、また会おうね。」
あの子との恒久の約束。
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