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とがのお通信

「とがのお」は由緒ある地名。八幡市橋本にある狩尾神社は、国宝に指定された石清水八幡宮本殿より古い慶長6年(1601/安土桃山時代)の建物だが、老朽化が著しいため、昨年から再建のための工事が行われている。歴史あるものが無くなるのは残念だが、魂を引き継ぎ残る!                               宮総代会運営のインスタグラムhttps://www.instagram.com/toganooshrine_grace/ に多くの写真がある。

 狩尾(とがのお)神社は石清水八幡宮の境外摂社。何回も焼失したが、慶長6年(1601/安土桃山時代)徳川家康の側室である、お亀の方の本願により再建され、国の重要文化財に指定されている。 令和3年から5年まで総工費 3億円をかけて、本殿・拝殿とも全面解体した上で、古い部材を修復して再築する。御霊は側の仮殿に移されている。何より特筆すべきことは、石清水八幡宮が遷座される以前に石清水八幡宮本殿の場所に鎮座していたことで、石清水八幡宮より古い歴史を持つ。

 狩尾(とがのお)神社の創祀・創建年代は不詳。石清水八幡宮が創建される以前からの地主神とされる。御祭神は天照大御神(あまてらすおおみのかみ)・大己貴神(おおなむちのかみ)・天児屋根命(あまのこやねのみこと)。【ご利益】慈愛の神、開運招福、病気平癒、学業・受験合格。

 江戸時代の石清水八幡宮境内図を見ると、橋本狩尾山には、狩尾神社境内の東側に帝釈天堂があった。この帝釈天堂は明治11年(1879)の神仏分離令に伴う廃仏毀釈によって、本尊の帝釈天像は西遊寺に移された。この帝釈天像(天部形立像:高さ148p)は平安時代中期の作と考えられ、八幡市内では薬薗寺の薬師如来立像に次ぎ古い仏像であり、平成8年に八幡市指定文化財とされた。

 阪急電車からも見えるランドマークのプリン山。狩尾神社は古代から大地の目印であった。八幡市内の最高地は142.5mの鳩が峯。狩尾神社と石清水八幡宮本殿の直線距離は約1km。その中間に鳩が峯がある。狩尾神社の真東4kmに薬薗寺、南3qに交野天神社、西500mに西遊寺、少し西に正満寺、更に淀川を渡った西に島本町八幡神社が行き当たる。北500mには旧橋本寺があった。背割り堤に移設された大楠があった辺りである。艮(東北)方向700mに常昌院、巽(東南)1.7qに正法寺、坤(西南)1.1qに久親恩寺、そして、乾(北西)1.5qに離宮八幡宮があった。行基(668-749)が道昭(629-700)に次いで築造した山崎橋は、離宮八幡宮正面道と旧橋本寺を結ぶ辺りに架けられていたと思われる。

狩尾神社の狩尾社祭 石清水八幡宮神職による修祓・献饌・祝詞奏上、拝殿での神楽(巫女舞)奉納、湯立神事が行われる。湯立神事は、最初に巫女さんが鈴と御幣をかざして湯の沸いた釜の前で舞う。舞が終わると釜の湯を櫂で混ぜ、塩を掴んで撒き、四方にかざした後、塩を釜に入れ、続いて米を撒き、米を四方にかざして釜に入れ、同様にお酒を撒いて釜に入れる。次に、桶を持ち、四方の空気を桶に汲んで釜に入れる。そしてお湯を手桶に汲み取って舞台上の神職に渡し、神職は受け取ったお湯を神殿に奉納する。その後、足袋を脱いだ巫女さんは既に準備された笹の束を沸き立つ釜に浸し四方にかざす。熱湯で濡れた笹を、巫女さんは左右に振り回すようにお湯を数回にわたって撒きかけ、最後に鈴と御幣で祓い清める。この後、玉串奉納・拝礼、続いて宮総代会長など参列者一同玉串拝礼。参列者は神事終了後の釜のお湯を飲み、笹の葉を1枚づつ持ち帰る。例年10月25日に挙行されるが、今年も見送りかも知れない。 ◆参考『Y-rekitan会報第88号』 □https://yrekitan.exblog.jp/30187392

そして二度目の神風が吹いた!弘安4年(1281)二度目の元寇に際して叡尊(1201-1290)は石清水八幡宮に異国兵船を本国に送り返すよう南北二京の僧を率いて祈とう・読経したところ、東風が吹いて、異国兵船は皆破損、逃げ帰った。『八幡愚童訓』に「狩尾大明神は御子に託宣し給う。「上人の法味により神祇威光を増し大風を吹かしめ異賊滅亡す」と在りしほどに、報謝のため狩尾社に参詣し理趣経を転読なされけり」とある。叡尊が理趣経を転読した事実は分からないが、なぜ理趣経なのだろうか?狩尾は「斗我尾・栂尾」と書かれることもあったが、狩尾は「とがのお」とは読みにくい。『男山考古録』に「一説云天子遊猟の地にて鳥狩尾(とかのお)なるへし云々、また開化天皇御時に□□連清域と云人の異鳥を狩たりし所を呼ぶ。」とある。岩波文庫『古事記』に「鳥遊(とがり):遊はカリ(猟)の意」とある。「とがのお」は元々「とがり(の)お」であったのではないか。不殺生・放生は神仏の教え、叡尊の心である。

 狩尾神社の南側から石の大鳥居をくぐり抜けて、66段と言われる急な階段を上がると、右側に手水鉢、左に「七面観音菩薩」の石柱がある。比較的新しく出来たようだが、謂れは知らない。『男山考古録』によると、本寺の鎮守に「三十番神社」「七面社」があったようだ。橋本交番の南に金毘羅社がある。昔は南面の社で、その東が本寺であり、道を挟んだ南に西遊寺が位置していたようだ。嘉永元年(1848)東の山に妙見堂を建立した。現在、西遊寺保育園の北東に感應寺がある。寺の前に「妙見宮 常徳寺」と「南無妙法蓮華経 本寺」の石柱が並んで立つ。常徳寺は西遊寺の西にあった湯澤山茶くれん(久蓮)寺。

「七面観音菩薩」観音菩薩は仏教の菩薩の一尊で、一般的に「観音さま」とも呼ばれ、観世音菩薩、観自在菩薩、救世菩薩など多数の別名がある。衆生教化のために聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准胝観音、如意輪観音など様々なお姿で現れ給える。観音菩薩の霊場西国三十三箇所巡りの本尊や三十三観音の中には「七面観音」は見当 たらない。「七面観音・七面様」のお姿は、右に施無畏の鍵を、左には如意珠の玉をお持ちされている。法華経の護法神、法華経を信仰する人々の守護神として全国各地で信仰され、梵天王と並んで仏教の二大護法善神として、勝負運や厄除け、病気平癒などにご利益がある。京都市東山区の宝塔寺がある七面山山上に、鎮守社である七面大明神 (七面天女)を祀る七面宮(七面社)がある。また、京都府向日市鶏冠井(かいで)町には日像上人(1269-1342)が開山した石塔寺があり、明治9年(1876) に興隆寺を合併吸収し、翌年に本堂・七面堂・妙見堂などが整備された。

  狩尾神社の七面観音菩薩石柱に向かうと西側が見える。西方面には、西遊寺観音堂(伝帝釈天像安置)から、河向こう島本町に椎尾神社、勝幡寺、若山神社、小鳥神社、釈恩寺(廃寺)がある。それらの寺社と関係のある人物が分かるだろうか? わかんないだろうなあ!
○椎尾神社https://www.buccyake-kojiki.com/archives/1067347404.html 祭神 素盞嗚尊、聖武天皇、後鳥羽天皇を祀る。『摂津名所図会』によれば、当神社は現社地より西南の山間にあった慈悲尾山西観音寺(本尊千手観音)に由来し、「谷の観音」とも称した。また、閻魔堂の閻魔像と十王像は小野篁が彫刻した。明治元年(1868年)6月、神仏分離で仏像仏器を撤却して閻魔像を大山崎の宝積寺に移し、椎尾神社と改称。
○勝幡寺(勝帆寺)の本尊は「洞薬師」と呼ばれる薬師如来立像。
○若山神社は、西天王山の山麓に島本町の広瀬、東大寺、桜井、神内の氏神として素盞鳴命を祀る。かつては西八王子社、牛頭天王社とも呼ばれ「天王さん」の通称で親しまれていたが、明治時代に神仏分離令により、若山神社に改められた。
○小烏神社は、もともと島本町広瀬の水無瀬神宮の北方約70メートルのところにあり、西八王子下ノ宮、小烏大明神とも呼ばれた。昭和45年(1970)若山神社に移され摂社となった。
○釈恩寺は、若山神社の奥の尺代村にあった東光山釈恩禅寺で本尊十一面観世音菩薩。「釈恩寺跡」には頼山陽の詩碑や乃木希典夫妻の線刻画像碑が残る。…宝積寺(宝寺)を加えると人物が分かるかな。

 島本町の若山神社に登ると、眼下に三川が合流しているのが見える。石清水八幡宮の展望台も同様である。背割り堤公園の展望台もタダで眺め良好である。淀川を下ると、仁徳天皇の時代に、菟餓野の鹿が鳴くのを楽しんだようだ。或時から鹿が鳴かなくなった。仁徳天皇は、鹿をあやめた佐伯部を安芸国に遠ざけた。奈良の鹿は、人間を恐れないがコロナ禍で煎餅をもらう機会が減ると、お辞儀をする回数が減ったそうである。鳩は人を恐れないが、雀は人に近づかない。燕は人の出入りの多いところに巣を作る。蛇や烏などが近づかないからだ。八幡では、中型の鳥が群れをなしてビワやヤマモモなどの木の実をあさる。住宅開発は進んだが適当に自然がある。坂は苦しいが良いところだ。

 昔、刀我野に牡鹿があった。その本妻の牝鹿はこの野に居て、その妾の牝鹿は淡路の国の野島に居た。その牡鹿はしばしば野島に行って、妾と仲睦まじいことは比べるものがなかった。さて、牡鹿は本妻のところに来て宿り、その明くる朝、彼はその本妻に語って、「昨夜夢の中で自分の背に雪が降り積もったと見た。また、すすきという草が生えたと見た。いったいこれはどんな前兆だろう」と言った。その本妻は夫がまたまた妾の所に行こうとするのを嫌って、嘘の夢合わせ(夢判断)をして言った。「背の上に草が生えたのは矢が背の上に刺さるという前兆です。また雪が降るのは、塩を宍に塗られる(食される)前兆です。あなたが淡路の野島に行ったならば必ず船人に出あって、海の中で射殺されてしまうでしょう。決して二度と再び行ってはいけません」と言った。しかしその牡鹿は恋しさに堪えかねてまた野島に渡ったところ、海上で船に行き合ってとうとう射殺されてしまった。(摂津風土記:夢野)

  京都市右京区栂尾に世界遺産に認定された「栂尾山高山寺」がある。創建は奈良時代に遡る「度賀尾寺」「都賀尾坊」と称される寺院があり、宝亀5(774)年光仁天皇の勅願で建立されたとの伝えもあるが、当時の実態は明らかでない。その後、神護寺の別院であったが、建永元(1206)年明恵上人(1173-1232)が後鳥羽上皇より寺域を賜り、高山寺として再興した。「鳥獣人物戯画」や栄西(1141-1215)請来の日本最古の茶園として知られる。明恵は、自分の見た夢を『夢記』として19歳から58歳まで40年間にわたり書き残した。栂尾上人とも呼ばれる。

 高尾山神護寺に和気清麻呂の霊廟がある。和気清麻呂(733-799)は道鏡の皇位継承について「宇佐八幡は、臣下の者が皇位に就くことを望んでいない」と奏上したため、道鏡の怒りにふれ大隅国へ流罪となった。道鏡失脚後、都に戻った清麻呂は八幡山に弥勒菩薩を本尊とする足立寺を建立した。清麻呂死後、長子弘世が本尊を薬師如来とする神願寺を高尾山に遷した。天長元年(824)に和気氏の私寺「神願寺」と「高雄山寺」が合併して神護寺ができた。足立寺は、八幡市西山の西山廃寺に比定され、遺構が一部移転復元され史跡公園となり、和気神社が隣接する。西山廃寺跡地は史跡公園から西南50mの場所で、現在、住宅地や道路になっている。

 北樟葉にある久修園院は、『石清水八幡宮史』史料第一輯中「縁起」に「石清水八幡護国寺久修園院」と記され、石清水八幡宮・護国寺と久修園院が一体となっており、『宮寺見聞私記』には「彼寺鎮守者、奉勧請狩尾明神」「此寺鎮守当山狩尾明神、行基菩薩勧請之云々」とあるように、行基と石清水八幡護国寺及び狩尾明神との結びつきが深い様子が窺える。『枚方市史』によると、久修園院は、「寺所蔵の『久修園院縁起』に、寺は天王山木津寺と称し、行基の開基で、聖武天皇から賜った地の四至は、東は男山のうち高尾の峯、南は王余魚河、北は米尾寺、西は大河を限る」とある。南限の王余魚河は、天満川であろう。久親恩寺は篠崎の郷・天部の郷に所在した。天部郷は「天マ郷」と略され、王余魚河はいつしかテンマ川となったか?天満川は鏡伝池乃至元登池から西側に流れる。現在一部は緑道となるが、北楠葉から南下する水路も天満川とされている。

 久親恩寺の地は昔、篠崎の里と言い、楠葉道心発祥の地で、本尊薬師如来は、御身の丈六尺、行基菩薩(668-749)の直作にして、昔「西ノ寺」というのがあり、その寺の本尊です。楠葉道心の因話を尋ねますに、延元元年(1336)南朝の忠臣楠正儀の家臣篠崎掃部助六郎左衛門は、当村居住の人で妻子を残し出陣したが、残る妻はしばしば病魔に罹り、息女は一途に当薬師如来に病気平癒を祈願したが、霊験空しく他界した。故に親乞の薬師とも伝えられる。後、篠崎掃部助は、楠正儀の戦いに利のないことを自念仏なる兜の弁財天女に告げられ、出家して名を「元梅」と改め、高野山に登った。この時姉が11歳、弟が7歳で、弟は、正儀方に引き取られ、姉は、剃髪染衣して篠崎禅尼と称し、本堂のかたわらに柴の庵を結び、楠葉七郷を修行頭陀して、一つには母の冥福を資け、二つには父の法寿長久を祈った。
故に山号を大孝山と号し、久しき親の報恩のため久親恩寺と寺号されたと伝えられている。(久親恩寺の栞より)

 遠くへ行きたい。九州響灘に突き出た狩尾岬、海の中に鳥居が建つ。福岡県遠賀郡芦屋町山鹿の北部、狩尾岬の森の中に狩尾神社跡がある。狩尾社・狩尾宮・狩尾大明神ともいった旧郷社。大己貴命・天児屋根命・国常立命・手力雄命を祀る。山城国石清水八幡宮の摂社狩尾神社の分霊を勧請したともいわれ、大己貴命(大国主命)は石清水の地主神という。狩尾神社跡とするのは、昭和40年代に本殿等が火事で消失したため、御祭神は、芦屋町山鹿17-1の須賀神社に合祀している。

 福岡県芦屋町山鹿の須賀神社は、島根県雲南市の須賀神社などからの勧請だといわれ、ご祭神も須佐男命と稲田比売の夫婦神。50年前に焼失した狩尾神社からご祭神を合祀し、一時的に狩尾神社・須賀神社となっている。遠賀川東の高台下の石鳥居の扁額は「祇園宮」、階段横には7月中旬に行われる山鹿祇園祭の山笠を収納庫がある。階段途中右手には猿田彦大神が祀られている。本殿の主祭神は須佐之男神で国津神様をお祀りしている神社にしては珍しく千木が水平に切られている。本殿横には狩尾神社のものと思われる大黒様や「大神宮」の石碑、灯籠が安置されている。京都八幡から分祀された狩尾神社(こちらではカリオ神社と呼ぶ)が元あった狩尾岬の森に早く再建されますように!

百合若伝説 嵯峨朝左大臣の子の百合若は右大臣となり、ムクリ追討を命じられ苦戦の末に勝利するが、玄界島で  3日眠っている間に家臣に置き去りにされた。家臣は帰国後、天子に百合若は戦死したという虚偽の報告をして筑紫の国司となり北の方に横恋慕する。北の方は形見の品を処分し大鷹を放つと、百合若の秘蔵の鷹緑丸が玄海島にたどりつき、百合若が血で書いた文を持ち帰る。北の方は緑丸に硯や筆・墨を括って送り出すが、荷重のために海に落ち、遺骸となって百合若の元に漂着する。百合若は、嵐が吹き寄せた釣り船に便乗し、筑紫に帰還すると苔丸と名乗り、家臣に仕え、弓の行事に鉄弓にて復讐を果たす。鷹の緑丸の菩提を弔うために高雄山神護寺を建立した。(舞の本)

百合若伝説A 『舞の本』にある嵯峨朝右大臣の百合若は実在しない。ムクリ(蒙古)追討は鎌倉時代のこと。まして、百合若が鷹緑丸の菩提を弔うために高雄山神護寺を建立したとあるのは史実と異なる。しかし、百合若大臣伝説は九州をはじめ、全国に拡がる。百合若伝説が本当に伝えたいことはなんだろうか? 百合若は、初瀬寺に詣り得た申し子である。初瀬寺は長谷寺で、同様に連想すると、百合若→百合草、百合は八幡秘蔵の花である。『古事記』に「山由利草のもとの名は佐韋と云」とある。一眼の亀が浮木に会う如く、最後は妻と再会した。サイに誘導されるか?

百合若伝説B 『舞の本』には、京、筑紫のほか、昆陽野の地名がある。昆陽野には行基建立の昆陽寺(伊丹市)がある。境内に「ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」という句碑がある。石清水八幡宮が勧請以前の男山には、石清水寺という山寺があった。『類聚国史』に、嵯峨天皇が交野狩猟に当たり、佐為寺や百済寺などに綿を寄進している。この佐為寺は、平安京の西寺とも言われているが、都から交野に至る道中の寺院と考えられ、男山石清水寺の前身が佐為寺ではなかろうか。『舞の本』「信田」にも昆陽野・伊丹の地名がある。天慶八年(945)、筑紫から発した志多羅神の神輿が昆陽を経由して六基となり山崎に至り、石清水八幡宮の高良神社に落ち着いた。

志多羅神騒動@ 天慶8(945)年摂津国司の報告―7月25日河辺郡方面から数百人に担がれた志多良神(小藺笠神・八面神とも)などの神輿三基が、鼓を撃ち歌舞する熱狂した群衆に囲まれ、行列をなし村々を移り巡り豊島郡に入る。道俗男女貴賤老少の人々はさらに集まり、朝から翌明け方まで歌舞を続け、捧げられた御供えは数え切れないほどあった。島下郡へ出発した神輿は六基に増え、8月1日には山崎郷を経て、神に憑かれた女子が「吾は早く石清水宮に参らん」と託宣を述べたため石清水八幡宮に向かった。周辺の郷から上下貴賤を問わず大勢の群衆が集まり幣帛を捧げ、歌舞を行い神輿の前後を囲み、高良神社に移座した。お祭りや神と一体となった憂さ晴らしは楽しいものだろう。 
 
志多羅神騒動A 『本朝世紀』天慶8年8月3日条には群衆が歌舞した六種の童謡(わざうた)が記録されている。 @月は笠着る、八幡種蒔く、伊佐(いざ)我等は荒田開かむA志多良打てと神は宣まふ、打つ我等が命千歳したらめ B早河は酒盛は、其酒富る始めぞC志多良打は、牛はわききぬ、鞍打敷け佐米負せむD朝より蔭は蔭れど雨やは降る、佐米こそ降れE富はゆすみきぬ、富は?(くさり)懸けゆすみきぬ、宅儲けよ煙儲けよ、さて我等は千年栄て(む)/太鼓叩いて笛吹いて唄い踊りまくるは世直しの始まり。風船はしぼんだまま!これ以上膨れない風船の破裂はまだ! 

志多羅神騒動B 『百錬抄』によると、長和2年(1013年)にも設楽神の上洛があった。この時は「鎮西」から上洛した。この志多羅神を祀る時には楽所を設け、人々は手を打ち、鼓などを打ち鳴らして志多羅神を祀った。神事に手をたたいて唄う歌を「志多ら歌」といい、子供が手拍子をとって歌う遊戯としても日本各地に残る。現在の「ふしだら」という語源も、太鼓がうまく打てる者を「しだら」、打てない者を「ふしだら」といった事が始まりとされ、志を持った者達が集まり、ひとつの事を為し遂げるという意味もある。愛知県北設楽郡東栄町大字中設楽の花祭は700年以上続き、「岩戸開」の舞や主役の鬼を猿田彦命(榊鬼)須佐之男命(山見鬼)大国主命(茂吉鬼)と神名で呼ぶ祭り。
 
信田の物語 常陸国の相馬信田の父が卒して母は娘婿小山に領地を与え地券を預ける。小山は横領して母子を追放する。母子は訴訟に上洛するが、母は急死。信田は家臣とともに挙兵するが敗退、信田は捕られ水没されるところを預かり人が逃した。騙されて人買いに売られ諸国を転々とした信田は陸奥外の浜の庄司の養子となり、身の上を知った国司は所領安堵に尽力する。小山に放逐され尼となった姉は信田を探し回り再会した。信田は小山を攻め復讐した。人買い・拐わかしは昔だけの話ではない。現代でも国家がするし、臓器を摘出するために世界で横行している。
 
信田の物語A 相馬信田小太郎は、常陸国から甲斐〜尾張〜近江へ、番場宿で母が死ぬ。京で安堵を訴えたが沙汰なく常陸に戻る途中で重臣に会い、共に小山に挑んだが敗退した。生き延びて上京の途中近江大津で拐わかされ、京五条で博労に売られ、鳥羽舟人が津国堺の浜で売る。そこから四国〜西国〜北陸道灘〜若狭小浜〜越前敦賀〜三国湊〜加賀宮の腰で「徒(いたづ)ら者=役立たず」と放逐。能登小屋湊(輪島)でよそ者と殺されそうになり刀禰の女房に助けられるも今度は塩商人に買われ奥陸奥外の浜で塩焼きをさせられる。塩路の庄司の目に留まり、養子となる。多賀の国府で素性を明かすと国司が所領安堵に尽力する。昨日まで塩焼き浮身を焦がしたが、いつしか54郡の主となり、国を平らげ給ひけり。経路は行ったり来たり双六のようで、日が出る常陸から始まり、上がりは陸奥外の浜である。
 
信田の物語B 相馬信田小太郎の姉千手姫は、夫小山に追い出され、小太郎が生きていると聞くと、尼になって探す旅にでる。常陸国から…京清水に参り、南海道を天王寺、住吉、根来、粉河、熊野へ、四国〜淡路〜筑紫下りで長門国府〜赤間が関〜芦屋山鹿〜博多〜志賀島〜名護屋〜瀬戸〜平戸〜松浦〜五島〜伊王が島〜壱岐〜日向、豊後、豊前、肥後阿蘇岳〜筑前、周防、播磨国赤穂〜須磨〜兵庫〜昆陽野〜伊丹(いたみ)〜太田〜芥川〜山崎〜狐川〜久我畷〜九重の花の京〜逢坂の関〜大津〜勢多〜鏡山〜愛知河〜磨鉢山〜不破の関〜垂井〜参河、遠江、駿河、伊豆…奥州多賀国府まで3年3月探したが見つからず。そして、盂蘭盆の日、奇跡的に持仏堂で再会する。一方、国司の尽力で帝は信田に坂東8か国を賜う。信田の河内に御所を建て、栄華に栄え給う。姉御の比丘尼は大方殿と申していつきかしづき給ひし、末繁盛と聞こえけり。日本の国は世界地図でみると小さいが、人の脚を物差しにすると途轍もなく広い。
 
信田の物語C 滅多にないことの例えとして、「一眼の亀のたまさかに浮木に会へるが如し」という言葉が使われる。これは「百合若大臣」にも出てくるが、日蓮の『聖愚問答抄』にも使われる。滅多に会わないのが仏教らしい。一眼は別の例えでは盲目ともされ、「めくら」は差別用語として使われないが、我々は「明きめくら」に等しいのでは…。心に無いものは目に見えていても実は見ていない。そこに真実があるのに見えない。一眼や盲目の亀が浮木に会うのは、滅多にないことではなく、よくあることである。現に地球に70億の人が住むが、この世に生を受けたことがまさしくそうである。しかし、地球46億年、その一瞬この日本で授かった生命は、まさしく「奇跡」の出来事である。
 
刈萱道心@ 筑前国刈萱庄の加藤左衛門重氏は、酒宴で散る花に出家を思い立つ。御台は遁世を引き留めるが出奔。新黒谷の法然のもと恩愛の緊縛を絶つとの大誓文をたて剃髪を許され、刈萱道心と名乗る。刈萱は国元の御台と子供が訪ねてくる夢を見て、女人禁制の高野山に身を隠す。13歳の石童丸は燕の親子を見て父を恋い、姉を残して母と父を探す旅に出る。京で父の消息を教えられ、高野山麓の学問路の宿に着く。女人禁制を知り、母は麓に留まり、石童丸が山に登り、父刈萱と巡り会ったが、道心は親子とは名乗らず、逆修の卒塔婆を指し、尋ねる父は死んだと偽る。
 
刈萱道心A 学問路の宿で母はわが子の帰りを待ちわびて亡くなる。身寄りを失くした石童丸は再び山上に道心を訪ねて助けを乞う。道心は二人して野辺の送りを終えるが、それでも親とは名乗らず、御台の御骨を高野に納めて、石童に遺髪を持たせて故郷に戻す。故郷で待ち受けていたのは姉の死だった。石童は再び高野へと返し、道心に姉の死を語るが、父はここでも親とは告げず、石童を出家させ、道念坊と名付ける。二人は仲良く修行するが、やがて父は親子の風聞が経つのを避けるように北国修行に出る。(かるかや『古浄瑠璃 説教集』岩波新日本古典文学大系90)
 
刈萱道心B 刈萱道心は、善光寺奥の御堂で83歳の3月21日に大往生を遂げた。高野山に留まった道念も同日同時刻に63歳で往生を遂げ二人は善光寺地蔵として祀られた。幸若舞の謡曲に「人間五十年下天のうちにくらぶれば夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべしや」とある。信長の時代の人生50年から今は100歳以上の方が9万人を超える時代。普段は死を考えないが、病気・老化で悩まなくてもよい。「生が有れば、死がある」ことは必然だ。死ねば祀られる。いつの間にか死ぬのであるから、今は生きることだけを考えよう。笑おう。楽しく健康であれば良い。
 
刈萱道心C 高野山刈萱堂は、蓮華谷にある刈萱父子の修行の場。石童丸と父苅萱道心・母千里[ちさと]姫の親子の悲劇の物語を絵で紹介する堂で、中にある厄除親子地蔵尊は、道心と石童丸の合作の地蔵と伝えられる。物語は、高野山に出家した父親を追って麓の学文路(かむろ)まで来るが、女人禁制のために母を残し、石童丸だけが入山。修行中の父に、いつわりの父の死を告げられ、学文路に戻るがすでに母は他界。高野山に戻って出家し、実の父とは知らずに苅萱道心について厳しい修行を積んだという。高野聖によって全国に語り伝えられた。(るるぶ&more.)    □https://blog.goshuin.net/koyasan_karukaya/
 
刈萱道心D 高野山の麓にある学文路にも苅萱堂がある。学文路苅萱堂は、石童丸ゆかりの堂として建立されたが,詳細は不明。石童丸、苅萱道心、千里ノ前、玉屋主人(石童丸・母が宿泊した宿の主人)の座像が安置されている。昭和の終わり頃には廃寺となりかけたが、石童丸の物語を後世に伝えるべく保存会によって平成4年に再建された。隣接する西光寺が管理をしている(拝観も西光寺が受け付けている)。苅萱堂には、石童丸ゆかりの宝物が所蔵されており、和歌山県の有形文化財に指定されている。「夜光の玉」などの秘宝があるが、とりわけ有名なものが人魚のミイラである。これは、推古天皇27年(619年)に近江国の蒲生川で人魚が捕獲されたと『日本書紀』にあるが、その時に捕らえられた人魚の兄妹とされている。そして、この人魚のミイラ(非公開)を見ると若返ると言われるが…

刈萱道心E 学文路苅萱堂の人魚は、千里ノ前の父である朽木尚光が所持、千里ノ前が大切にしていたとされるが、人魚の出自はさらに古いものである。川のそばにある尼僧の許に訪れていた3人の小姓の正体が人魚であり、一体は蒲生川で捕えられ地元の願成寺にミイラとして安置され(非公開)、一体は蒲生川を遡った日野で殺され(現在人魚塚がある)、そして最後の一体は通りがかった弘法大師のお供をして高野山に行ったという。この最後の一体が、苅萱堂に安置されている。岡山県浅口市の円珠院に伝わる人魚のミイラは、魚や綿などで成形した工作品だった。

刈萱道心F かるかやの別話、福岡市博多の石堂(苅萱)地蔵:御笠川の下流、石堂川にかかる石堂橋と石堂大橋の中間地点、大学通り入口に堂が建てられ「石堂地蔵遺跡」と書かれた石碑がある。堂内には両手で宝珠を持つ地蔵が祀られ、「石堂/子授け地蔵」ともいわれている。崇徳天皇代(1123-1141)博多の守護職加藤左衛門尉繁昌は、大宰府を守る苅萱の関守も兼ねていた。40歳を過ぎても世継ぎができなかった繁昌は、香椎宮に参籠し、子授け祈願をしたところ、満願の暁に白髪の老人が枕もとに現れ、「箱崎の松原の西の橋ぎわ、石堂口の川のほとりに、玉のように丸い石がある。これを妻に与えよ。」と告げた。加藤繁昌が石堂口に行ってみると、輝く温石があり、妻に与えたところ、間もなく妻は身ごもった。翌長承元年(1132)正月24日に男児が誕生し、霊石を授かった地に因んで、石堂丸と名付けられた。成長した石堂丸は加藤左衛門尉繁氏と名乗り、父の跡を継いで苅萱の関守を勤め、後に出家して高野山にこもり「苅萱道心」と呼ばれた。高野聖が全国に広めた。□https://gururinkansai.com/karukayayukarinochi.html

小栗判官@ 鞍馬の申し子常陸小栗は72人の妻を迎えたがいずれも気にいらず、鞍馬に妻乞いに出る。市原野で笛を吹くと深泥池の大蛇が聞き惚れ、鞍馬の一の階段に美女と現じて、二人は結ばれた。大蛇との契りの風聞が立ち、父は彼を流罪に処し、母の助言で常陸の知行地に送った。ある日小栗のもとに商人が来て、相模の郡代横山家照天姫との仲を取り持ち、婿入りする。横山一門は憤り、人喰い馬の鬼鹿毛の餌食にさせようとしたが、小栗はこれを自在に御す。奸策で酒宴に招かれた小栗は配下とともに毒殺された。照天も生かし置くのは片手落ちと鬼王兄弟に相模川に沈めさせる。兄弟は照天の命を助け逃す。浦に漂着した照天を村君太夫が助け養うが、妻が夫の留守に人買いに売る。

小栗判官A 照天姫は転々と売り飛ばされ、美濃青墓の万屋に買われた。流れを立てることを拒んだ照天は、常陸小萩と名付けられ、16人の水仕の仕事を負わせられる。他方、冥途に赴いた小栗達は閻魔王の前に引き据えられ、小栗のみ悪修羅道に落とせられるところ、配下の主人を思う至誠に娑婆に返される。藤沢上人が上野が原を通ると、「熊野湯の峰湯に入れてやれ」との閻魔王自筆の胸札を付けた餓鬼阿弥を見つけ、供養に引けと自らも書き添え、土車を引いてやる。人々の情けの宿送りに旅を重ね、青墓に至る。(をぐり『古浄瑠璃 説教集』岩波新日本古典文学大系)

小栗判官B 照天姫は土車の餓鬼阿弥を夫と気付かず、主に乞い夫の供養として関寺まで車を引き、己が名を胸札に書き添え戻る。諸人や山伏の助力によって湯の峰に辿り着いた小栗は薬湯で元の姿に戻ることができた。山伏姿になって京へ戻ると父は喜び、小栗を連れて参内する。小栗は美濃国司に任じられ、小萩を尋ね再会した。常陸に入り横山を攻め、奸策した横山息子を誅し、鬼鹿毛を神と祀った。それより常陸国に戻り、棟に棟、門に門を建て富貴万福二台の長者と栄え給ふ。83歳で小栗は大往生し、美濃墨俣の正八幡と斎われ、照天は契り結ぶの神と斎われた。

小栗判官C 小栗判官は熊野権現(熊野三山の神)と、湯の峯のお湯のおかげで蘇生する。湯の峰温泉は日本最古のお湯として93度の温泉が湧き出し、温泉卵や温泉野菜を作る湯筒があり、熊野詣の湯垢離場、薬効高い熊野の湯治場として有名。熊野には小栗判官蘇生の湯と伝えられる「つぼ湯」、小栗が湯治の間、体力の回復を試すため持ち上げた大小の「力石」、小栗が髪を結んでいた「ワラ」を捨てたところに稲が生え、毎年実り続ける「まかずの稲」、小栗が乗ってきた「土車」を埋めたとされる「車塚」が保存されている。

小栗判官蘇生の地 熊野九十九王子の1つ「湯峯王子」が祀られている。熊野権現(熊野神、熊野大神とも)は熊野三山に祀られる神であり、本地垂迹思想のもとで権現と呼ばれる。熊野の神は全国各地の神社に勧請されており、熊野神を祀る熊野神社・十二所神社は日本全国に約3千社ある。特に主祭神である家津美御子(けつみみこ・スサノオ)、速玉(イザナギ)、牟須美(ふすび、むすび、または「結」とも表記/イザナミ)のみを指して熊野三所権現といい、三所権現以外の神々も含めて熊野十二所権現、熊野の本地は御衰殿 ともいう。具体的に熊野三山は熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社からなる。毎年4月1
3日、熊野本宮大社の例大祭で湯登神事がある。行基菩薩は熊野に参詣し、山形県寒河江市に熊野神社を勧請し、行基建立の佐賀県三養基郡基山町大興善寺に熊野神社があるなど関係が深い。

石清水八幡宮 御祭神:応神天皇/神功皇后/比淘蜷_                平安時代初め、清和天皇の貞観元(859)年、南都大安寺の僧行教和尚は豊前国(大分県)宇佐八幡宮に籠り日夜熱祷を捧げ、八幡大神の「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との御託宣を蒙り、同年男山の峯に御神霊を御奉安申し上げたのが当宮の起源です。天慶2(939)年の平将門・藤原純友の乱には、八幡大神様の御神威をもって速やかに平定されて以来、国家鎮護の社として皇室の御崇敬は益々厚いものとなり、天皇の行幸や上皇の御幸は、円融天皇(第64代)の行幸以来、実に240余度にも及び、伊勢の神宮と共に二所宗廟とも称されました。清和天皇の嫡流である源氏一門は八幡大神様を氏神として尊崇し、その信奉の念は格別で全国各地に八幡大神様を勧請しました。源義家は石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」と名乗ったことは有名です。以来、国家鎮護、厄除開運、必勝・弓矢の神として時代を超えて人々の篤い信仰を受けてきました。とりわけ当宮の厄除信仰の歴史は古く、今なお全国屈指の厄除の神社として新春の厄除大祭を始め年間を通し参拝に訪れる方々は跡を絶ちません。□https://iwashimizu.or.jp/

男山香呂峰 明確ではないが、男山には燈火・狼煙(のろし)台があり、山城国と河内国との共同管理だったといわれる。男山は淀方面から見て香呂の形をした香呂山・香呂峰ともいわれ、男山香呂という地名が男山図書館の南にある。線香の煙のように狼煙が上がっていた名残かもしれない。狼煙は古代の伝達手段である。戦時中の空襲警報や火の見櫓の半鐘と同じようなものだ。今は北から飛んでくるものに警報アラートが鳴らされる。ロシアから来ないよう願う。

鎮座地男山 古記に雄徳山、牡山、丈夫山とあり、八幡山とも称えた。標高はご本殿付近で124メートル弱に過ぎないが、南は洞ヶ峠を経て生駒山に連なり、北は木津・宇治・桂の三川合流し淀川を形成する地に臨んで天王山と対峙し、古来、京都・大坂・奈良を結ぶ水陸交通・政治・経済・軍事上の要衝として重視された。男山の中腹には霊泉「石清水」が湧出し、その近傍には本宮御鎮座以前、行基開創の石清水寺という山寺が在したと伝えられる。(Y-rekitan会報第94号)

男山にある三つの頂 男山丘陵の最北端が男山だが「男山」と呼ばれる頂はない。代わりに三つの頂があり、東側の頂が「香爐峰」と呼ばれ、標高は123.8mで、『男山考古録』に「…唯大宮の御座所より南馬場前の形容を見渡して僧徒のいひ初めしならむ」等とあり、形が香呂(焼香の器)に似ていることによるものと書かれてある。東西方向の中央の峰が「鳩ヶ峰」(科手山とも)で、三座の中で最も標高が高くて142.5mある。山頂からは天徳4(960)年と書かれたお経が書いてある瓦が出てきており「経塚」とも呼ばれる。残る一座は、西側の頂が「閼伽井山」と呼ばれていた山が標高134.2mであったようだ。「阿迦井山」は八幡山上山下惣絵図にはなく、狩尾社と鳩ヶ峰の間に描かれた頂ではないかと思われる。(Y-rekitan会報第93号)

八幡市の国宝 石清水八幡宮:現社殿は寛永11年(1634)三代将軍徳川家光の造営によるもので、日本三大八幡宮の一社であり、伊勢神宮と共に二所宗廟である。現存する八幡造の本殿の中で最古かつ最大規模。本殿、幣殿、舞殿、楼門、東・西門、回廊(3棟)等からなり、平成28年2月9日、「石清水八幡宮本社」10棟および附(つけたり)として棟札(むなふだ)3枚[寛永11(1634)年造替時の棟札、延享2(1745)年修理時の棟札、文化九(1812)年修理時の棟札] が国宝に指定された。本市において初めての国宝となる。本殿の瑞籬(みずがき/本殿など聖域を画するために廻される垣や塀)や廻廊・幣殿は彩色を施した動植物の彫刻で飾られている。

石清水八幡宮の紋@ 家紋と同じように、神社にも紋所があり、社紋という。神社の社殿に彫金されていたり、御神輿に金色の彫刻で飾られたりして光り輝く紋は神社の象徴として親しまれている。また、社紋とは別に御祭神の御紋を神紋といい、社紋と併せて意匠する神社もある。神紋の起源は、主に御祭神に関する伝承、由緒に基づく。神社に紋が二つ有る場合、一つは神様の御紋、もう一つは神社の御紋と解すれば良い。石清水八幡宮の神紋は左流れ三つ巴、社紋が橘などである。流れ左三つ巴紋の御神紋は、御本殿の彫刻を始め軒瓦など各所に見られる。いつの時代に何故御神紋になったのか定かではないが、尾が長い文様ほど古いとされている。幣殿の蟇股(かえるまた)には4つの巴紋があるが、実は1つだけ右巴になっている。

石清水八幡宮の紋A 隠し紋 社殿には実にさまざまな御紋が意匠として散りばめられているなか、徳川家の家紋・三つ葉葵が参拝者の目線からは見当たらないところにある。参拝者から見れば、楼門の彫刻の下に二羽の金色の鳩が八の字に並ぶが、その裏側にある三つの紋の真ん中が徳川家の家紋。八幡宮の創建は、清和天皇の時代、貞観元年(859)だが、現在の社殿は 寛永11年(1634)に徳川3代将軍・家光が修造したものだから「神様の真正面に位置し、神様から一番見えるところ」に徳川家の家紋である三つ葉葵が隠してある。因みに、狩尾神社を再建したのは、家康の側室で尾張徳川家の藩祖・徳川義直の生母お亀の方と云われる。

石清水八幡宮の紋B 橘紋 石清水八幡宮寺開山の行教は、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角宿禰を始祖とする古代豪族、紀氏の出身の大安寺僧であり、山城守紀魚弼の子である。行教の家紋が橘紋と云われるが? もう一つは貞観2年(860年)清和天皇の命を受けて、実際に石清水八幡宮の建築に携わった木工少允 橘良基(825-887)の栄誉を称えて橘紋の使用を許可したといわれる。
橘良基は、橘諸兄(684-757)の後裔である。諸兄は、敏達天皇五世孫の元葛城王が臣籍降下して、母県犬養三千代が元明天皇から賜った橘姓を名乗ったものである。石清水八幡宮から各地に分祠された八幡社にも橘紋が使われているところが多い。別峰平野山の猿田彦神社も紋の一つに橘紋を使用する。

石清水八幡宮の紋C 左巴紋、葵紋、橘紋のほかにも16葉の菊花紋がある。
天皇家の御紋は二重16葉菊花紋である。京都御所の紫宸殿前には「左近の桜/右近の橘」がある。 
石清水八幡宮の本殿の庭には、左右とも橘である「対の橘」がある。
御所との違いは左の位置にも橘があること。何を意味するのだろうか?
石清水八幡宮では、巫女さんが刈り取った橘の実を3年熟成させた御神酒を造り、販売する。

橘考@ 石清水八幡宮の「対の橘」とは、橘が2つあること。2つの橘で思い出すのは、橘諸兄、佐為の兄弟である。橘諸兄(684-757)は奈良時代、聖武天皇(701-760)の時の左大臣であるから、御存じの方も多いだろうが、橘佐為(?- 737)は歴史に埋づもれた人物で、名前を知っている方は珍しい。『続日本紀』『(藤氏)家伝下』には「風流侍従」として見える。「対」というのは、養老5(721)首皇太子(聖武天皇)の息女井上内親王が斎宮として北池辺新造宮に移されたとき、両者が共に前輿長となって先導した。「左近の桜」が「左位置は橘」であるのは「橘佐為」を暗示するのではないかと思う。何故か?直接的には、石清水八幡宮と橘佐為の関係は見えない。種明かしは追い追いに触れていきたい。

橘考A 橘のデザインは、身近なところでは、五百円硬貨の裏面(年号がある面)の「500」の左右に実のなる橘樹が描かれる。ちなみに「500」の上下は竹で、おもて面には桐がデザインされている。また、昭和12年に制定された「文化勲章」にも橘のデザインが採用された。昭和天皇の「文化は永遠である」とのお言葉から、常緑の橘を勲章にしたと言われ、勲章は橘の五弁の花、紐(ちゅう)は実と葉の意匠。

橘考B 非時香菓の伝説 11代垂仁天皇は、忠臣の田道間守(たじまのもり)に"不老不死の薬"を探す命を申し付けた。田道間守は、唐、天竺をさまよい、常世国に至って、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ:「時を定めずいつも黄金に輝く木の実」という意味)を探し出した。そしてその実を持って急ぎ帰国した。出発より十年の歳月がたっていたが、垂仁天皇は田道間守が帰国する前年、彼のことを九年の間案じつつ崩じられていた。田道間守は嘆き悲しみ、御陵に非時香菓を献じ、殉じた。その田道間守の墓は、奈良市垂仁天皇陵(宝来山古墳)の周濠内の小島と言われている。 また、田道間守が採ってきた「田道間花(たじまばな)」が「タチバナ」につまって「橘」と呼ばれるようになったと言われている。そして、垂仁天皇陵の北には行基が建立した菅原寺がある。

橘考C 橘氏の由来 第43代天皇である元明天皇は、即位を祝う宴で、女官の県犬養三千代に対し、天武朝以後の宮廷に歴仕した忠誠を嘉して、杯(さかずき)に浮かぶ橘をみて、言われた。  
「橘は果実の長上にして人の好む所なり。その枝は霜雪を凌ぎて繁茂し、葉は寒暑を経て彫(しぼ)まず。しかも光は珠玉と争い色は金銀と交わりて益々美し。ゆえに橘を氏とせよ。」      
このようにして、元明天皇は三千代に橘宿禰の氏姓を与えた。宿禰(すくね)とは当時の氏姓制度「八色の姓」で朝臣(あそん)に次ぐ上から3番目の位にあたる。その三千代の子が橘諸兄(写真略:井手町の諸兄塚)と佐為の兄弟であり、母の愛称を記念して橘姓を名乗ることとした。その後、橘氏が次第に衰えて公家から姿を消すに及んで、武家の間でも橘紋が用いられるようになった。井伊、黒田などの家紋がその代表例と言える。華道の池坊家も橘紋を使う。また、日蓮宗が井筒に橘の紋を用いるのは、開祖である日蓮が井伊氏一族の出身であったからと言われる。

橘考D 橘・藤原氏の話 橘諸兄・佐為兄弟と藤原房前(不比等次男)室の牟漏女王の三人は、三千代と敏達天皇四世美努王の子であるが、聖武天皇皇后の安宿媛は、藤原不比等と三千代との所生である。諸兄室多比能は不比等女とされている。この多比能は三千代の子とする説もあるが、同母腹の兄妹婚はさすがにないだろう。また、長屋王の室の一人に安宿王・山城王などを生んだ不比等女長娥子がいる。長娥子の母は定かでないが、三千代の系図を見ると、不比等との間には、安宿媛とその姉の長屋王に嫁した笠子媛がいる。この笠子媛が改名して長娥子となったのだろう。橘氏と藤原氏は対立ばかりが強調されるが、三千代の生前には橘・藤原氏が両輪のごとく、聖武天皇・光明皇后を守っていたのである。橘・藤原氏の結合に尽力した三千代の存在は偉大で、両氏を日本歴史の一角に位置づけた功績があろう。

橘考E 三千代の深謀 聖武天皇は、光明皇后のほかに四人の夫人を迎えている。井上内親王・不破内親王・安積親王の三人を生んだ県犬養宿祢広刀自は、県犬養橘三千代の親族である。藤原北夫人(房前・牟漏女王の子)と藤原南夫人(武智麻呂女)及び橘古那可智(橘佐為女)の三人の夫人は三千代の直系または義理の孫に当たる。このように、聖武天皇の周りを自分の身内で固めた。もちろん不比等男の四兄弟は義理の子、初の正一位左大臣になった橘諸兄は長男、次男佐為は首皇太子(後の聖武天皇)の教育係の侍従、娘の牟漏女王は房前に嫁したことを見ると、藤原・橘氏の結合及び聖武天皇を取り巻く夫人達が不比等とともに三千代の意向であることが分かる。また、諸兄室多比能は不比等女である。更に橘佐為女古那可智と藤原吉日の叙位は同時が多いから、古那可智の母は藤原吉日と推定される。つまり、不比等女の吉日は佐為に嫁したと思われる。三千代が如何に橘・藤原氏の結合に腐心していたかが想像されるところである。

橘考F 三千代の歌 万葉集19-4235に県犬養橘三千代の歌がある。
「天雲(あまくも)をほろに踏みあだし 鳴る神も今日(けふ)にまさりて畏(かしこ)けめやも」この歌を見ると、行基の歌(玉葉集・釈教)を連想する。
「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば 父かとそ思ふ母かとそ思ふ 」この「ほろほろ」はどこから連想したかといえば、 三千代の歌ではないか。
武具の「ほろ」は「母衣」とも書く。「ほろ」が母ならば「ほろほろ」は父母を指す。連想するというより、連想することを考えたいのだ。つまり、行基と三千代を関連づける遊びである。

橘考G 三千代と行基  県犬養橘三千代(665-733)と行基(668-749)の接点に法隆寺の西円堂がある。『大和名所記』に「西円堂、光明皇后の御母公橘夫人の造立なり。本尊薬師如来、十二神将は行基菩薩の作なり」とあり、寺伝に「橘夫人の発願によって、行基菩薩が本尊を八角円堂を建立した」とある。三千代の病気平癒を願って造営されたともいう。円堂とは、故人の供養堂の意味を持つ建物とも言われる。養老2年(718)建立とも。西円堂・行基の謎は深い。                     

  橘考H 中将姫の伝説 当麻寺曼荼羅で有名な中将姫の父は横佩右大臣(藤原豊成704-765)、母は紫の前といい、長谷観音の申し子。7歳の時、母が亡くなり、継母照夜の前(橘諸房女・諸兄女とも)に疎んじられ、雲雀山に捨てられる。狩りに来た父と再会、都に戻るが、その後出家して当麻寺で一夜にして曼荼羅を織る。この話は1192年『建久御巡礼記』に初めて記されるが、その後の諸本も設定がまちまちである。しかし、ここにも橘諸兄女が中将姫の継母として現れる。
 中将姫の伝承は尾ひれが付いて広がるが、一貫して、天平宝字7年(763)6月23日の曼荼羅織成の日は変わらない。 中将姫は天平19年生、29歳没(747-775)とされるが、この年齢設定は豊成の後妻藤原百能(720-782)から想定すれば妥当だが、百能が実母であれば、そもそもこの伝説は成立しないことになる。ひばり山は奈良県兎田野町と和歌山県橋本市及び有田市に中将姫の伝承がある。当麻寺曼荼羅と中将姫の謎を解くカギは天平宝字7年6月23日という日付であろう。

橘考I 中将姫の実像 中将姫が天平19年(747)生なら藤原豊成44歳の子である。豊成(中衛大将)には武良自、継縄、乙縄、縄麻呂(729-779母房前女)の4男がある。中将姫は『尊卑分脈』に、武良自の次、継縄(727-796)の前に位置するから、727年以前生と思われる。
『続日本紀』天平19年1月20日条に藤原殿刀自「正四位上」叙位記事がある。歴史学の泰斗角田文衛氏は「殿刀自は不比等女で大伴古慈斐室」と比定されるが、「従四位下」古慈斐の位階では難がある。殿御に相応しいのは「従三位」豊成だろう。
 殿刀自は以後現れないが、天平感宝元年(749)に橘通可能が「正四位上」を叙位される。中将姫の伝説に沿って考えると、通可能は諸兄女であり、殿刀自没後豊成に嫁したことが想定される。中将姫伝説には弟少将の存在もある。縄麻呂母の房前女は殿刀自であり、中将姫の母「紫の前」も殿刀自と考えられる。

橘考J 当麻曼荼羅の謎 中将姫が当麻寺に入ったのは母の供養が一般的だが、ある書には父豊成が橘奈良麻呂の変に連座し、また、叔父恵美押勝(仲麻呂)の乱を憚ったためとされる(大和名所図会)。当麻曼荼羅を織ったのは、中将姫以外に、寺縁起には麻呂子親王夫人とある。麻呂子親王夫人は仮名であろう。されど、天平宝字7年(763)6月23日は、恵美押勝室藤原宇比良古(袁比良女)の一周忌と特定でき、その供養のために作られた曼荼羅と考えられる。鎌倉時代まで曼荼羅が公開されなかったのは、逆賊となった押勝の縁に繋がる者の品物を公開することが憚れたのであり、そして、ほとぼりが冷めた頃、復権した豊成の娘中将姫の名であれば、お咎めなしと考え、中将姫の伝説が作られたと思われる。

橘考K 橘 良基 清和天皇の命により石清水八幡宮の御殿六宇を建築した。久御山町史に、貞観初め紀州熊野の神職橘良基が椏本八幡宮の地に来て村落を開いたとある。椏本八幡宮は橘紋の社で、石清水と同じ意匠「リスとブドウ」の欄間がある。また、伏見札宮は、良基が阿波国から天太玉命を勧請した。伏見九郷之図の久米村には金札社、白菊石と良基墓がある。名水で有名な御香宮は元御諸神社で神紋は橘である。秀吉により、一旦伏見城の守り神として東方に移されたが、家康が元の場所に戻した。石井村は行基が泉福院・布施院・尼院を作っている。なぜか、白菊石は御香宮にある。

橘考L 橘良基(825-887)  仁寿3年(853)左京少進、のち民部少丞。天安初、大宰大弐正躬王が良基を大宰少監に任じたが、赴任を拒否、文徳天皇に解官された。清和朝貞観元年(859)木工少允任、石清水八幡宮建築。信濃守在任中には、辛犬甘秋子宅が放火され家人を焼殺された事件があり、良基は罪人坂名井子縄麻呂を赦免し、京都刑部省で取り調べを受けるが、罪状が決しないまま卒去。家には全く財産がなく、中納言在原行平から贈られた絹布により、葬儀を行った。
 良基が子縄麻呂辛を赦免した理由は、「坂名井子縄(つな)麻呂」と「辛犬甘秋子」の名前のアナグラムを解くと、「魚の骨野郎ワレ、終始からかいぬ」と読める。『三代実録』に隠された別の話である。

橘考M 橘良基の出自 清貧のもとに亡くなった良基は諸兄ー奈良麻呂ー島田麻呂ー常主ー安吉雄と続く家系である。父は安吉雄だが、母は不詳である。源平藤橘の一角を占めた橘氏は、奈良麻呂の変で一旦失脚するが、島田麻呂の弟清友の娘嘉智子が嵯峨天皇皇后(檀林皇后)となり復活した。嘉智子が仁明天皇・正子内親王(淳和天皇皇后)を生むからだ。

橘考N 橘澄清(859-925) 澄清は良基の五男、従三位中納言、氏長者、橘氏是定。澄清姉は藤原保蔭に嫁し、藤原道明(856-920)を生む。道明と叔父澄清は合力して延喜3年(903)山城国深草(現伏見区深草直違橋)に南家の菩提寺道澄寺を創建する。その道澄寺梵鐘が奈良県五條市栄山寺に現存し、国宝に指定されている。

橘考O 橘氏是定 氏爵(従五位下)を推挙する公卿を欠く場合には,血縁関係のある他氏の公卿がその権限を代行した。橘氏是定は,梅宮神社や学館院も管理した。橘氏最後の公卿橘恒平(922-983)が卒去したのち、橘氏是定は、藤原摂関家が担った。それは、橘 澄清女厳子が藤原中正室となり、時姫を生む。そして、藤原兼家と時姫の子が道隆・道兼・道長であり、橘氏是定が道隆以下の摂関家に引き継がれていく。橘恒平以前は外戚王氏や傍系の澄清が務めたこともあった。

橘考P 橘奈良麻呂 天平宝字元年(757)7月奈良麻呂の変後の生死が『続日本記』には記載されない。同年処刑の記事が消されたという説があるが、奈良麻呂の子 清友は758年生である。肥前国武雄の伝承では、奈良麻呂は捕えられたが生き延び、処刑された元皇太子である道祖王の分骨を持って肥前国武雄に住み着いたと伝承されている。応永21年(1414)銘の道祖王の石碑があり、奈良麻呂の板碑はそれよりも古い。同所の梅宮神社には奈良麻呂が祀られている。

橘考Q 喜撰法師 奈良麻呂次男。真言宗の僧。六歌仙の1人。伝承では山城国乙訓郡の生まれとされ、出家後に醍醐山へと入り、後に宇治山に隠棲し、やがて仙人に変じたといわれる。伝わる歌は2首。 「わが庵(いお)は都の辰巳(たつみ)しかぞすむ 世を宇治山と人はいふなり/小倉百人一首8番また古今和歌集983」 「木の間より見ゆるは谷の蛍かも いさりに海人(あま)の海へ行くかも/玉葉和歌集400」 『無名抄』によれば、宇治三室戸奥に歌人必見の喜撰の住みかの跡があり、喜撰洞という小さな洞窟が山腹に残る。
 
橘考R 性空(橘善行910-1007)天台宗の僧。父は従四位下橘善根。書写上人ともいう。36歳の時、慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家。霧島山や肥前国脊振山で修行し、966年(康保3年)播磨国書写山に入山し、国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三所霊場の一つ)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けた。 圓教寺には肖像彫刻・性空像(重要文化財)があり、東京大学史料編纂所は性空像の模本(画像)を所蔵している。

橘考S 能因法師(橘永ト988-1050/1058)古曽部入道。法名は初め融因。近江守橘忠望の子で、兄の肥後守橘元トの猶子となった。子に橘元任がいた。26歳出家。和歌に堪能で、伊勢姫に私淑し、その旧居を慕い摂津国古曽部に隠棲した。
 藤原長能に師事した。中古三十六歌仙の一人。甲斐国や陸奥国などを旅し、多くの和歌作品を残した。『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に67首が入集している。歌集に『能因集』『玄々集』があり、歌学書『能因歌枕』がある。
  
橘考21 能因法師歌「都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」(後拾遺集・類字名所和歌集)
 能因はこの歌を作った時、歌の出来映えに満足したが、能因は奥羽には行かず、都でこれを作った。しかし、現地に行かずに作ったと言われるのは不本意なので暫く人前から身を隠し、自分は旅に出たという噂を流し、家に隠れこもって日焼けをし、満を持してから人前に出てこの歌を披露した。これをもって能因第一度目の奥羽行脚といったという話が『古今著聞集』(1254)に書いてある。 
 白河の関は奥州三関の一つで、行基地図にある数少ない地名の一つである。

橘考21 能因法師歌2 伊丹市稲野小学校正門前に歌碑「芦のやの こやのわたりに 日は暮れぬ いづち行くらむ 駒にまかせて(後拾遺和歌集)」がある。
  能因は、万寿元年(1024)秋に、「児屋池亭五首」を作る。37歳の時である。
 37歳は橘奈良麻呂の変時における奈良麻呂の年齢であり、行基が家原寺を作って『行基年譜』が始まる年齢でもある。

橘考22 能因法師歌3
「児屋池亭五首小序 
昔元和二年( 807)秋、楽天年三十七、
 曲江之池亭、有感秋五言詩
今万寿元年(1024)秋、我等年三十七、
 児屋之池亭、有感秋五編歌 」
 七夕「七夕にこと物よりもむまたまの夜をいまひと夜年にまさばや」
 秋風「あさなあさなに吹く秋風に小山田の水守にぬれし袖ぞひにける」
 池月「山の井の水にうつれる月影は濡れて曇らぬかがみなりける」
 木の葉「夏の日の影に涼みし片岡の柞(ははそ)は秋ぞ色づきにける」                 
 暮の秋「山里はまだ長月の空ながらあられしぐれのふるにぞありける」                  
ほぼ200年後、昆陽池の畔を有馬の湯に向かう藤原定家も七言詩を作る。

橘考24 和泉式部 和泉守橘道貞の妻となり、夫と共に和泉国に下る。後の女房名「和泉式部」は夫の任国と父の官名を合わせたものである。道貞との婚姻は後に破綻したが、彼との間に儲けた娘・小式部内侍は母譲りの歌才を示した。寛弘年間の末、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕。長和2年(1013年)頃、主人彰子の父藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し、夫の任国の丹後に下った。万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍が死去した折りにはまだ生存していたが、晩年の動静は不明。伊丹市・木津川市など全国各地に五輪塔など和泉式部の遺跡が残る。

橘考25 小式部内侍(999頃-1025)母の和泉式部と共に一条天皇中宮彰子に出仕したため、母式部と区別するために「小式部」の女房名で呼ばれ、20代で死去。「大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」(小倉百人一首)  
 小式部内侍の歌は母が代作しているという噂があった。小式部内侍は歌合に歌を詠進することになったが、母は丹後守藤原保昌と任国丹後に下っていた。
 四条中納言(藤原定頼)は小式部内侍に「代作を頼む使者は出しましたか。使者は帰って来ましたか」などとからかったが、小式部内侍は即興でこの歌を詠んだ。
意味としては「大江山を越えて、近くの生野へと向かう道のりですら行ったことがないので、まだ母のいる遠い天の橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません」と詠み、四条中納言は、狼狽のあまり返歌も出来ずに立ち去った。(古今著聞集)

橘考26 清 少納言(966頃-1025頃)は周防守清原元輔女。一条天皇の時代、私的に中宮定子に仕えた。『枕草子』作者。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。981年頃、北家公卿藤原斉信の家司橘則光(965-1028〜/遠江介、土佐守、陸奥守を歴任、橘氏長者)と結婚し、則長(982-1034/越中守任)を生むも、則光が遠江介となった頃に別離。後に、摂津守藤原棟世と再婚し、娘小馬命婦を生む。
 子則長は、能因妹を妻として則季(1025-1063/陸奥守任)をもうけている。


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 ウイルスは、病原体の一つで細菌よりも微小であり、当然目で見ることはできませんが、生体の中だけで増殖し、 物に付着したウイルスや飛沫で空中に漂うだけでは増殖しません。  新型コロナウイルスとワクチンに関する話を集めました。 気になるコロナ・知りたいコロナ2021/5/30-2022/1
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