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    --枕話は近代という問題について--

 九鬼が文字通りヨーロッパ遊学を満喫したのは1921年から1929年、足かけ8年間のものでした。
その間、ドイツ・フランスの大学を渡り歩き、リッケルト、フッサール、ハイデカー、ベルクソン
など蒼々たる哲学者に師事したのは、つとに知られていることです。さらに九鬼自身が本来
持ち合わせた気品がヨーロッパの知識人たちに非常に受けたらしく、多くの人脈を形成しました。

 その中にカール・レーヴィットという哲学者がいました。ユダヤ人であったレーヴィットは
1933年ナチスが政権を取ると同時にドイツを追われ、イタリアを経由した後、東北帝国大学に招聘
されたのですが、その際、受け入れに尽力したのが九鬼だったのです。

 さてそのレーヴィットという人はどういう人かといいますと、フッサール門下のハイデカーの弟弟子、
のちハイデカーの辛辣な批判者となった人物です。彼の業績はニーチェについての研究を通じて得た
思想史的研究で知られており、『ヘーゲルからニーチェへ』や『ヨーロッパのニヒリズム』などが
主な著作です。ニーチェから引き継いだ彼の批判精神は極めてラディカルで、近代批判の矛先は
ヨーロッパのみならず近代化を受け入れた日本にも鋭くむけられました。

 『ヨーロッパのニヒリズム』は日本において成就されたのですが、その跋文「日本の読者によせる跋文」
において、次のようなことを述べます。19世紀の後半、日本がヨーロッパと出会ったとき、
日本が受け入れたのはすでにボードレールやニーチェが恐怖していた科学や民主主義、合理的方法論
であり、日本はそれらを無批判に、しかも何かの衣裳を気軽に着るかのように受け入れた、と。
 そして、その姿をこう述べています。

「彼らは二つの階で暮らしているようなものである。すなわち、日本的に感じたり考えたりする
下の基本的な階と、プラトンからハイデッカーに至るヨーロッパの学問が並べられている上の階
とにである。そしてヨーロッパの教師は、彼らが一方から他方へ渡っていく梯子はどこにあるのか、
と自問する。結局、彼らは、現在あるがままに、自分を愛しており、まだ認識の(キリスト教のだ!)
木の実を食べておらず、純潔を失っていない、すなわち、人間を自分自身の中から取り出し、自分自身
に対して批判的ならしめる喪失が経験されていない」

 すごく皮肉屋だったといわれるレーヴィットの姿がよくわかる文章です。そして、そっくりそのまま
現在までの日本の状況を照射する辛辣な評論です。

 近代というのはさしあたりヨーロッパそのものを指すわけですが、日本におけるその受け入れ方に
二重のニヒリズムを読みとるレーヴィットは、批判とともに日本における近代の乗り越えを指し示して
くれているのだと思われます。

 さて、こうしたレーヴィットの批判の是非はともかく、彼の示したベクトルの上に九鬼がいるのです。
いや、九鬼だけではなく西田幾多郎、田辺元など、京都学派が形成されているといえます。

 気軽に着たつもりだった近代という衣裳。それがどうも自己の根底をひっくりかえすような得体の
知れない、危険を含みこんだものであることがわかって、しかもすでにそこから抜け出すことも
ままならないほどに深くおのれに食い込んでしまっており、得るものと失うものとの間でパニックを
起こしてしまった。それをとにかくどうにかしなければならない。それが当時の思想状況であり、
彼らの原動力でもあったのです。

 (誤解のないように言いますと、別にレーヴィットが京都学派形成に一枚噛んでいるというのでは
なく、当時の状況をわかりやすく示してくれる人物であるということだけです。あ、でもレーヴィット
は西田については評価していたとか)

 ではそうした歴史的文脈の中で、なぜ九鬼は『「いき」の構造』を世に問うたのでしょうか? 

 『「いき」の構造』の初稿「いきの本質」がパリで書かれたのは、大いに注目すべき点です。
長くヨーロッパを遊学することで、九鬼はヨーロッパの生活、文化、習慣などに深く触れていました。
ヨーロッパの精神を、学問としてのヨーロッパを根底でささえる精神を身をもって学んだのです。
そこで彼自身が見出したものがあった。ヨーロッパの良き精神と悪しき精神です。
前者はボードレールやニーチェなどに代表される批判精神。後者は直線的な進歩を前提とした科学技術
によって蔑ろにされた人間観。第一次大戦後、ヨーロッパは後者に気づき、混乱の中、不穏な政治状況
へと流れこんでいったのです(ファシズムやナチズムはニヒリズムの打ち消し衝動に支えられてでてきた
ものです)。

 さて九鬼は以上のようなヨーロッパを深く学んだところで、ハタと気づいたのでしょう。
近代化の波の中にある日本において、その人間理解も同じようなことになってしまっているのでは
ないか、と。「和魂洋才」といっているが、魂を見失っているのではなかろうか、いや、
それだけではなく、日本における近代化がヨーロッパにもなれず、新たな日本をも見出せないまま、
いまや全世界を覆い尽くそうとしている近代の深刻な問題になにもしないまま、
呆けているのではないか、と。

 そして、九鬼の野心が、日本におけるある美意識が近代の乗り越えに、近代的人間観の変更に一助
するのではないか、という着想を生んだ。それが「いき」だったのです。

 そのことはハイデカーと繰り返し交わされた対話からうかがい知れます。『言葉についての対話』
の中でハイデカーは九鬼の述べる「いき」がどうしても理解することができなかったことを証言して
います。九鬼としては理解をえられなかったことで何かしらの手応えをつかんでいたと思われます。

 つまり「いき」は日本人の生活の中で育まれた美意識であり、おのれの生き方を指し示すものであり、
文化の源泉なのです。とうてい近代的人間観ではとらえきれないものといえます。

 しかし、です。九鬼の生きた時代においても、「いき」だなんていう意識など消えかかっていた
のです。九鬼はそのことも気づいたとき、慌てたのではないでしょうか。自分が見知った美意識が
思想に一助するかもしれないというのに、それも失われようとしている。ましてや異郷において
自分が日本人であることを先鋭に意識するようになり、寂しさもある。筆を取らざるをえなかった
ことは、想像に難くないでしょう。

 『「いき」の構造』は近代化の波の中で物された野心と危機意識に満ちた書なのです。

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