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       --好事家の筆遣いは洋を越えたのか?--

「文体は人体のようなものだ。というと、どこかできいたことのあるセリフのような気が
するかもしれないが、すくなくともビュフォンの「文はひとなり」なんかにくらべると、
このほうが、はるかに具体的でもあり、唯物論的でもあり、さらにまた、エロティックでも
あるとわたしはおもうのだが、どんなものだろう。いや、エロティックというのは、少々、
説明を要するかもしれない。わたしはこの世の中にあたらしい文体があらわれるさいには、
人体のばあいと同様、かならずアダムの文体とイヴの文体とが、一体化しなければならない
ものだと信じているのである。したがって、文体論というのは、そもそもの出発点から、
へたをするとポオノグラフィになるかもしれないし、うまくいったところで、レオナルドの
男女交合の解剖図のようなものになりかねない。(中略)それかあらぬか、これまで文体論
を手がけた著者たちは、ほとんど例外なく、文体誕生の神秘についてはふれたがらない」
                             (「文体の秘密」花田清輝)

 今回は花田清輝の引用からはじめさせてもらいました。花田は戦前戦後の時代状況を
レトリックと韜晦に満ちた批評で切って切って切りまくった評論家として知られた人物でした。
その文章は諧謔に満ち、読む者の凝り固まった思考をほぐしながら、現代という歴史意識を
非常にクリアにしてくれる希有なものです。
 この花田清輝、彼も京都学派といえばいえなくもない立場です。まあ、彼が京都帝国大学英文科に
入学したころには、西田幾多郎は退官した後でしたし、英文科ということもあって田辺元の
ところに出入りすることもほぼありませんでしたので、いわゆる京都学派といわれるラインとは
すこし異なった場所にいたようです。また韜晦の人物なので、プロフィール上では京都には
3年ほどしかいなかったことになっているようですが、その後も大学の図書館にあしげく通っていた
という証言もあり、その上、西田の『善の研究』はしっかりと読んでいたようです(久野収の証言)。
時まさに「滝川事件」で京大は上へ下への大騒動の時期。彼は闘争に見向きもせずに図書館で、
ルネサンスの画集かなにかを開いてぎょろぎょろと眺めていたのです。
 花田にすれば、すでにその時期からマルクス主義や自由主義の限界を感じ取っていたのでしょう。
近代の所産は近代の闇を乗り越えられないことを知っていたといえます。言論統制された戦前戦中、
言論解放なった戦後、一貫してレトリックに満ちた批評を貫いたのは、その点が大きく作用していた
と考えられます。そして、その点において花田が京都学派の範疇に括られるゆえんでもあります。
 その花田が、九鬼について言及している文章があります。元来は当時売り出し中だった岡本太郎
の『芸術のいやったらしさ』という著書の批評です。「いやったらしさ」をつまり媚態ととらえる
ところから話は始まります。

「なにしろそのスタイルがすばらしいよ。九鬼は、まず、「いき」と媚態とのきってもきれない関係
を問題にする。それから媚態の考察にはいって、しからば媚態とはなんであるか、媚態とは、一元的
の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性とのあいだに可能的関係を構成する二元的関係である、
とくるんだからね。とにかく、このすっとぼけた調子には、なんともいえないユーモラスな味があり、
きっとこの哲学者は、「浮世床」にやってきて、熊公や八公たちに「火の玉くう」とかなんとかいって
バカにされる浪人者の口吻をたえず意識しながら、この本をかきつづけていったにちがいないとおもい、
わたしは、いまだにかれにたいして、相当の敬意をはらわないわけにはいかないのである」
                                (「芸術のいやったらしさ」)

 まあ、かなりひねくれた性格の御仁だったので、そのままこの文章を受け取るのはすこし
ためらわれるのですが、冒頭に引用した文章からすると、彼なりに九鬼を讃えているといえる
でしょう。とにかく、九鬼の文体をとらえた評論は、後にも先にも花田のほかいません。
 九鬼の文体は、どこをどう捉えても、硬質な分析概念で構成されたものですが、すこしでも
注意深く読んでみると、その奥に生々しい鼓動が脈打っているのです。花田はその微妙なバランスに、
すっとぼけた調子となんともいえないユーモラスな味を嗅ぎ取った。近代とは違うなにかを九鬼の
文体の中に見出したのです。
 そもそも「いき」は、化政時代の江戸に花開いた美意識とされていますが、まずはその
プリミティヴな形態は岡本太郎や花田がいうとおり、「いやったらしさ」つまり媚態です。そして、
その媚態を基礎として「いき」へと育んだ場所や歴史的状況がこの問題に大きく関わっていました。

 媚態はいわば男女の色恋の場面でしめされる徴候です。しかし、江戸時代、色恋の意味するところは、
現代のように誰しにも開かれたものではなく、歓楽街での遊びを指すものだったのです。
 当時の社会状況においては、男性と女性の比率が、およそ3:1。基本的に現代のような自由恋愛
が物理的に不可能な状態といえます。そこで、色恋を学び、実践する場として、吉原や深川などの
廓(くるわ)が重要な役割を果たしたのです。
 遊女はお客にリピーターになってもらうために、あれやこれやの手練手管を用い、お客は多くの客
の中から己を選び出してもらい、よりよいサービスを受けるために、駆け引きをする。その関係性
の中で、遊女はプロとして鍛えられ、男は「野暮は揉まれて粋となる」、人間関係においても洒脱な
いい男に成長するのです。自然、世間的な趣味判断として広く受け入れられるようになり、江戸と
いう都市が都市生活者のための街として爛熟したとき、美意識へと昇華された。九鬼も<「いき」は
「浮かみもやらぬ、流れのうき身」という「苦界」にその起源をもっている>と述べるのも、
そのことをよく認識していたからだといえます。

 そこには近代的な人間観、もっと手前の話をすると、近代的な自由な恋愛観とは鋭く対立する価値観
が描き出されています。理性によって感覚や欲望に絡め取られる自己を律することで、社会的に立派な
人物となる。理知的な計画性のもとに生きることで、つまり、理知的に家族構成をおこない、社会に
貢献することで、よきヨーロッパへ至り、おのれの幸せをつかむことができる。いわゆるベルエポック
のヨーロッパ人はおおむねこうした理想のもとに生きていたわけですが、九鬼はそれとは正反対の
人間像を描き出したのです。おのれの感性や欲望に逆らうことなく、性と性とが出会う刹那、遊びの中
で昇華された美意識を生活のなかでも重要なものとして捉える。ともすれば退廃的な生活へと陥りかね
ない価値観。九鬼はそれをヨーロッパに突きつけたかったのです。しかも、ヨーロッパで育まれた
分析概念で描くことで、その概念の限界をみずから示し、言外に「いき」の生々しさを浮かび上がら
せるその戦略は、奇跡的に成功にいたっている。九鬼の文体の神秘はここにあると考えられます。

 それにしても、色恋を基礎とした「いき」を分析概念で説いてみせるという冒険をおこなってみせた
九鬼の卓越した目には驚かざるをえません。少なくとも、当時の日本のアカデミズムでは新カント派流
の学術的な問題を学術的な言葉で理路整然と研究することが主流だったのですから。しかし、九鬼は
その優れた分析力と論理性を逆手に取り、極めて艶めかしい主題を、さらっと書いて見せたのです。
よっぽど明治以降の近代的道徳観に絡め取られたことが、いやだったんでしょうね。九鬼の現代的な
生命はそこにあるのでしょう。

 『「いき」の構造』における九鬼の挑戦はある程度達成されているといえます。「いき」そのものが
わかりにくくなっている現代においてさえ新しく読者を得続けていることが、その証拠です。
ポストモダンといわれ、ふたたび「近代の超克」や「戦前の思考」が主題とされる昨今、
『「いき」の構造』は特異な立場を保ち続けているのですから。

 しかし、『「いき」の構造』には大きな弱点、九鬼自身も感じていたであろう弱点がありました。
あくまでも「いき」は化政時代の江戸で昇華された美意識であり、共時的可能性のひとつにしか
なりえないのです。したがって「いき」をも可能ならしめる論理性、しかも近代的な分析概念を
乗り越えうる論理性、人と人とが出会うその刹那に戯れる生の論理性が必要だったのです。それが
九鬼のライフワーク『偶然性の問題』なのです。

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