分岐するベクトルは何を語るのか



 人間は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる闇であり、空しい<虚無>
なのである。言い換えれば人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫なのであるが、しかしこの
表象やイメージのうち一つも、人間の精神に正確に現れることはない。そこに、つまり人間の内に存在
しているのは闇なのである。自然の内部、もしくは内奥なのである。さらに言い換えれば、純然たる
個的な<自己>なのである。幻影の表象に囲まれて周囲はすべて闇になっている。こちらに突然血まみれ
の頭が現れたかと思うと、あちらに白い亡霊が現れ、そしてまたそれらが突如消え失せたりするの
である。一人の人間の眼のなかを覗き込むと見えるのはこのような闇なのだ。その人間の眼のなかに、
われわれは闇を、どんどん恐ろしさを増す闇を、見出しているのである。まさに世界の闇がこのとき
われわれの現前に現れているのである。
                        (ヘーゲル「イエナ大学講義録」)

 「心気症」ヒポコンデリー。自分の身体や健康状態を異常に心配する症状のことをいいます。身体が
だるい、熱っぽい、頭が重い等々。医者に診てもらっても、身体自体には異常はない。しかしどうも
自覚症状らしいものがある。どうすることもできなくなり、イライラがつのり、よけいに体調を悪く
してしまう。スパイラル状に心身症へと陥ってしまうのです。そのことは、自分の身体が自分の思い通り
にならない、つまり自分の内に闇を見出してしまうことを意味します。
 絶対知を捉えんとするヘーゲルにとってこの体験は痛恨であったろうと思われます。ヘーゲルを
フランスに紹介したアレクサンドル・コジューヴによると、ヘーゲルは25才から30才の間、
ヒポコンデリーに苦しんだとみています。上の講義録はヘーゲルが『精神現象学』を構想していたころ
に書かれたもので、茫洋とした意識から絶対的な知識へといたる道程を模索していたドキュメントとして
学者の間では注目される資料なのですが、繰り返し述べられる上記のようなトーンの論調にヘーゲル学者
たちはしばしば困惑していました。コジューヴの指摘はそれまで論理的整合性にのみ躍起になっていた
ヘーゲル学者と違って、ヘーゲル自身の実体験、現実的で個人的なヘーゲルその人を描き出したと
いえます。
 人間の中にある闇。「精神に正確に現れることのない」表象やイメージ。自分にはどうすることも
できない<虚無>。しかしこうしたヒポコンデリーの症状の中でヘーゲルはとある確信をつかんだとも
いえます。『精神現象学』の序論において彼は、人間の自己確立の過程とは決して平坦でなく真剣さと
忍耐を要求される苦痛に満ちた労働の道のりであることを説いた上で次のように述べます。

 このような非現実を我々は死と呼びたいのだが、死こそは最も恐ろしいものであり、死を保持することは最大の力(クラフト)を必要とすることである。<精神>の生は死を前にして怖じ気づき、死を避け荒廃から身を守る生ではなく、死に耐え、死のなかに自らを維持する生なのだ。精神は、絶対的な引き裂きのなかに自分自身を見出しはじめて自分の真実を手に入れるのである。

 ここにヘーゲルが導き出した答えがあります。自らの内にある闇は絶対知へといたる道程として
避けることのできないものであり、それに面することで自己確立への力、原動力となりうる。極めて
理性的かつ包括的な思考力であるといえましょう。特に注意を引くのは、闇が力を帯びていることを
ヘーゲルが認めていることです。自己と世界が精神化する過程においては死を抱えこまざるをえないの
ですが、どのように抱えるべきか、大きな問題であるといえます。直接自分の手で扱うことのできない闇
をどのように抱えるか。ヘーゲルは精神化の重要な原動力としてその闇をとらえ、自己確立と精神化の
道程と思考力とを一体化する推進力へと転化していったわけです。バタイユというフランスの思想家は、
ヘーゲルのそうした闇の力への着目を充分評価したのですが、あくまでも理性的で包括的な志向については
難色を示しました。ヘーゲルが闇に対してとった態度があまりに欺瞞に満ちたものに見えたからです。
バタイユの議論は錯綜を極めるので割愛させていただきますが、素直にヘーゲルの解決案を読むとバタイユ
のいわんとするところがわからないでもない。ヘーゲルの欺瞞は精神化の志向を押し進めんがためにおのれ
の経験したところのもの、自分を死に直面させた当の経験を「非現実」と規定してしまったところに
あります。これでは目をつむったに等しい。ヘーゲルの世界精神たる体系は肝心な地点で闇から目を
そらし、闇を覆い隠すかのように組み立てられたものに過ぎないのです。しかし、この闇の力への着目は
捨てがたいものといえましょう。晩年のシェリングやショーペンハウアーなどの仕事はその力を扱ったもの
といえます。
 そしてその流れが一気に流れこんだのがニーチェでした。

 ニーチェにおいて力(クラフト)は権力と読みかえられますが、死に面する生の意味合いがより強調
されてきます。彼の「権力への意志」論は徹頭徹尾生の意味生成を問います。ニーチェによれば、人間は
生きながらに世界を多層的にとらえ、その意味を了解することで世界と手を結びあっているのですが、
彼の仕事はその意味を丁寧に読み解く作業でした。自然科学、道徳、宗教、芸術等々。意識することなく
自然に生きるそれら意味の世界は、人間によって収まりのよいように解釈され、都合良く支配されたもの
である。しかしそれでは闇に眼を向けたことにならない。彼の答えはこうでした。

私が初めて、真に対立する二つのことを発見したのである。すなわち一方には、底に隠された生への憎悪
を抱きつつ、生に敵対する、退化していく本能(その典型的な定式は、キリスト教、ショーペンハウアー
の哲学であり、ある意味では既にプラトン哲学もそうで、また理想主義=観念論の全域はそうである)が
ある。それに対して他方には、溢れるばかりの豊饒さと充満性から生まれたあの最高の肯定という方式、
つまり苦悩や過ちを進んで是認しようとし、生存にともなうあらゆる異様なものや、問題提起的な危うい
ものに対してさえ留保なしに<然り>という態度があって、この二つのことは、鋭く対立しているのであ
る。こうした究極的な、歓びに充ち溢れた生の肯定、過剰なまでに激烈な生の肯定は、ただ単に最高の
悟性に呼応しているだけではなく、最も深い悟性、真理と学問によって最も厳正に確認され、支持されて
いる悟性にも呼応しているのである。およそ存在するものである限り、なに一つとして廃棄されるべき
ではなく、なに一つとして余計なものはない。
                   (ニーチェ『この人を見よ』)

 滅びゆくものであるゆえに、死するものであるゆえに、それらは間違いだ、不浄だ、不要なものだと
切り捨ててしまうのではなく、生である以上、進んで<然り>と言う。ニーチェの権力意志論はそうした
勇気に充ちたものでした。ヒポコンデリーに悩むヘーゲルを目の前にしてニーチェならこう言ったかも
しれません。

「自分の身体が思うようにいかない?苦しいだろうね。でもその苦悩を克服し、自律的な精神を組み立て、
苦しみを思い出にしてしまおうなんてことをしたって、愚かだな。君は勝者になるつもりだろうが、現実
を非現実に転化すること自体、弱者のやることだ。君は勝利を確信するごとに自らの弱さを露呈している
んだよ。さあ、ヒポコンデリーをちゃんと受け入れなさい」

 ここにヨーロッパのもうひとつの姿があるように思われます。現代思想の分岐点とされるヘーゲルと
ニーチェですが、意外にも同じ地点に立っていたのではないかとわたしには感じられます。ただ投げ
かけるベクトルが違っただけなのです。近代の限界を疑い続けたレーヴィットが考えたヨーロッパの
もうひとつの可能性がここにあり、九鬼が受け取ったヨーロッパの良き智慧でもあるといえましょう。
 偶然論をひっさげてヨーロッパと対決しようとする九鬼の挑戦。荒唐無稽な不可能のことではなく、
闘うに足るだけの下地があったのです。
 

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