哲学の道から東へ少しきつめの坂を登ると、鹿ヶ谷とよばらる一帯に出る。鹿ヶ谷の森は静かに、そして鬱蒼と繁り、法然院の静寂を演出している。その法然院の参道に沿って歩くと墓地に入る。この墓地には名士とされる人々の墓が多く、京都をこよなく愛した作家、谷崎潤一郎の墓もここにある。谷崎ファンの墓参が今も絶えない。
その谷崎の墓のそばに瀟洒で格調のある墓が建っている。「九鬼周造之墓」墓碑名には西田幾多朗によって書かれたもので、その側面にも西田によって訳されたゲーテに詩が一句彫られている。
「見はるかす 山の頂 梢には 風も動かず 鳥も鳴かず まてしばし 汝も休はん」
何の衒いもなくたたずむその墓は、参る者に不思議な透明感を与える。
九鬼周造。『「いき」の構造』や『偶然性の問題』などで知られる異色の哲学者である。大正から昭和初期にかけてヨーロッパを遊学し、ヨーロッパで最先端の方法論を高い水準で理解し、「日本的なるもの」を考え続けた人。後は近代日本をその身をもって生きたのである。
そんな九鬼の哲学は二元世界といわれる。東洋と西洋。江戸とパリ。東京と京都。偶然と必然。禁欲と享楽。そして、男と女。彼はその間にすべり込み、軽やかに自らの哲学を展開した。観念論であろうとマルクス主義であろうと弁証法が哲学の中心であった当時の日本にあって、そのスタイルがかなり異色であることは肯首できよう。
その九鬼が法然院に葬られている。これは彼自身の遺言によるものである。ここに九鬼自身の精神史におけるスリリングな展開が想像できる。
彼は若き日から死に至るまで、ヨーロッパの詩歌における「押韻」と同様、日本の現代詩歌における「押韻」について考え続けた。しかし、その試みは日本語にどこまでも違和感を残し、結局現代詩に押韻を基礎づけることに失敗してしまった。その彼が死に際して浄土教に身をゆだねたのである。
鈴木大拙に従えば、外国からの輸入物ではじめて日本的霊性を表現しえたのは禅と浄土教である。本来、浄土教は此岸にありながら念仏を唱えることで彼岸を想う密教的営みをさす。しかし、法然が浄土の冥想から念仏者の主体へ問題を転換した時、浄土教は日本的となったのである。
ところが、中沢新一の説くところによれば、禅と浄土教以後、「日本的なるもの」を表現しうる思想的輸入物がみあたらない。マルクス主義もアメリカニズムも日本的となりえず、そのままマルクスやヤンキーであり続けたのである。九鬼はその「日本的なるもの」の課題に挑み、挫折し、そして日本人として再び浄土教に出会ったのだ。日本的なるものの可能性はついえたか否か、九鬼の墓はそう問いかける。
九鬼周造と浄土教。不思議な取り合わせだが、重要な意味を持っている。