四国に生まれ育った者は、少なからず一度は八十八カ所の霊場めぐりをしたことがあるはずである。もちろん、八十八カ所すべてをまわったというのではなく、近所のお寺を参ると自然と霊場の幾つかをまわったことになるのだが。
四国高松に育った私も例に漏れず、香川から徳島、高知にかけての霊場にお参りをしたことがある。両親につれられて、車で日帰りできる範囲内のお寺をよくまわったものだ。
そんなあるとき、私は小学校低学年であったとおもうが、徳島のとあるお寺でのこと。朝から幾つかのお寺をまわり、少々疲れていた私がむずがったのだろう、両親は私を参内にある休憩所にあずけて、お参りにいってしまった。その休憩所ではお遍路姿の人たいが幾人か休んでおり、そのお遍路さんをもてなすお寺の人たちが忙しく働いていた。私はその風景の珍しさから最初ははしゃいでいたが、しかし、しばらくすると両親のいない不安から半べそをかいてしまった。
木製の長椅子に腰かけ、足をぶらぶらさせて、地面をみつめながら鼻をすする、そんな私をみて、一人のお遍路姿のおばさんが声をかけてきた。
「どうしたん? さみしいんか。さっきまで笑ろうとったのにのう。大丈夫やけにぃ、とうちゃんもかあちゃんもすぐ帰ってくるて。」
と言って、手にもっていたお札を私に渡しながら、
「ほれ、弘法大師さんもそばにいてくださってや、なんちゃじゃないで。」
えっ、弘法大師がそばにいる? 私がそのおばさんの顔を見上げると、ニコニコ笑っていた。妙に心休まる思いがして、なんとなく弘法大師がそばにいてくれていることを素直に受け入れることができた。
四国八十八カ所巡りがいまだに続けられている根底には、人々の弘法大師信仰が深く根づいている。お遍路さんはいつも弘法大師と共にあることを意識しながら歩く。どんなに険しい山道であろうと、どんなにさみしい夜道であろうと、いつも弘法大師がついていてくれる、だから安心して次のお寺まで歩いていける。
お遍路道沿いに住む人々はそんなお遍路さんに対して敬意をはらう。少しずつではあるが訪れた人には施しをし、疲れていれば休憩の場を提供する。彼らはお遍路さんに敬意をしめすことで、弘法大師に対して敬意をしめしているのである。
なぜ、四国の人々はそうまでして弘法大師を敬うのであろうか。
四国の人々、特に讃岐平野の人々が伝える弘法大師伝説は、空海という人の多様な姿を今に伝えてくれる。彼はまず宗教家として、八十八カ所の霊場を開くことで、形いまだくらげなす土着の民間信仰を仏教的にソフィスケートした。つまり、土着の宗教に明確な仏教的形態を与えることで、それをよりわかりやすいものにして、救済の空間を切り開いていったのだ。わかりやすいから誰もが入っていける、そこに大きなポイントがある。
しかし、彼はやみくもに霊場を開いたわけではない。空海は鉱物学者として、霊場そのものが地下資源の宝庫であることをつきとめてもいた。事実、四国山地に開かれた霊場の多くには、鉱脈が走っており、周辺地域の大切な産業になった。
さらに空海は土木建築の技術者としても伝えられている。讃岐平野は元来雨が少なく、土地が広々と余っているわりに稲が育ちにくい環境であった。特に平野中西部は水もちが悪く、何度耕作しても思うように収穫できなかたらしい。そこで日本一大きい溜池、満濃池と用水路が整備されたわけだが、その工事を指導したのが空海だとされている。
ここに宗教的、精神的指導者としての空海だけではなく、人々の普段の生活をありのままにとらえ、その根源からすべてを救おうとする空海の姿がある。だから、弘法大師信仰を口にする人々には、空海がお寺のえらいお坊さんだから尊敬するという意識はない。今あるありのままをそのまま救ってくれる、生活する中で救いを示してくれる、そんな親しみある尊敬の念をもっている。あの時のおばさんの笑顔がそのことを物語っていた。
あの日以来、私のそばには弘法大師がいてくれている。しかし、そのことが本来意味すること、弘法大師信仰がもつ救済の意味に気づいたのは、この京都に来て、親鸞の思想に触れてからではあるが・・・・