浮世之介は好き者である。自他とも認める好き者である。その浮世之介がある日思い立って、この際色道一切の奥儀を極めてみたいと考えた。そこで彼は誓願成就するよう笠森稲荷に祈願に出掛けた。
笠森山をようやくのぼりつめ、稲荷に祈願すると、仙女二人が現われて、浮世之介に仙薬を与えた。その仙薬飲み干せば、体みるみるうちに縮みゆき、浮世之介は豆男になってしまった。浮世之介これ幸い、その体で世の艶場をのぞいて色道修行にはげむことにした。
鈴木春信の春画本『風流艶色真似ゑもん』はこうしてはじまる。
春信は甘く上品な作風の美人画で知られており、私も知人に私信を送る際、その作風にあやかって彼の美人画の絵はがきを使用すること度々である。春信の甘く上品なイメージは、はじめてその春画を見たときにもかわらなかった。彼の春画は、他の春画作家に比べて誇張された性器やアクロバティックな体位が少なく、すっきりとした性表現がなされているように見える。最初のうち私は春信を淡白で技術屋的な絵師とイメージしていたのだ。
しかし、彼の春画の中に先の浮世之介こと「まねゑもん」の存在を見出したとき、そのイメージは大きくくつがえされてしまった。春画を見る者の覗き見の欲望をくすぐるような存在。それを具体化してしまう春信の想像力。甘く上品な中に倒錯した性表現がなにげなく介在する。浮世絵師は一筋縄ではいかない。
さて、当のまねゑもんであるが、これがなんとも愛らしく、すこぶるゆかいである。たとえば、床の上で男女がくんずほずれず盛り上がっているすぐそばで、おちょこをチャンチキチャンチキ鳴らして囃し立ててみたり。習字の師匠が弟子の子娘に手を出しているところを覗いては、なんて無惨な処女喪失なんだろうと嘆いてみたり。心中を誓った男女が最後のいとなみに精を出すところを見て、さかりの花を散らすがいたわしや、と二人の持ってきた脇差を隠してみたり。あらゆるシチュエーションで男女がフンフンフウフウハアハアスウスウアンアンモウモウソレソレセッセセッセズイズイズガズガヌルヌルチウチウジブジブハレハレヒイヒイ(おっとっと、やりすぎた)あれやこれやでからむそのそばで、チョコマカチョコマカ。屈託のない表情や素直な独り言に思わずふきだしてしまう。と同時に、こちらもまねゑもんの覗き見に参加してしまっている。その共犯意識が一層まねゑもんを身近なものにしてくれるのだ。
まねゑもん本人の姿に目を移してみよう。まず髷は軽くすっきりと本多髷。黄枯色あるいは鼠色で縦縞の着物に黒羽織をはおっている。腰には脇差や銀ギセル。うむ、この着こなしはかなりの通人であると見た。好き者を自称し遊びまわるだけのことはある。まねゑもんは春信本人がモデルであるとのことであるから、春信自身も相当の遊び人だったのではなかろうか。
江戸期、特に中期以降、医学の発達と共に性に関する知性と実践が格段に進んだといわれる。春画本などはその革新性を随時伝えるメディアであったし、その伸びやかな性表現は進歩のすさまじさを示すものだろう。その進歩を背後から支えた大衆文化のもつ視点というものを、実はこの「まねゑもん」がもっているのではと私は考える。まねゑもんの行動や言動をながめていると、どんなに醜い濡れ場であっても、どんなにまねゑもん自身がそのことを嘆いていようとも、なぜかそこには性そのものについての自虐やうしろめたさというものを感じることがない。どこかあっけらかんとしているのだ。恋愛であろうと強姦であろうと近親相姦であろうと政治的かけひきであろうと、そんなことは関係ない。性の実践あるのみ。すがすがしいほどの解放感を感じる。
江戸期の道徳として私たちはすぐさま儒教や道学を思い浮かべるが、実際はその影響は武士階級だけのもので、庶民にはほとんどおよばなかったという。徳川二百五十年の間、争乱らしい争乱がなく、武力の脅威を感じることなく暮らすことができた庶民の間で武士の倫理など重要な意味を持つわけがない。江戸庶民は性に明るさを求め、快楽を享有するだけの遊びや余裕を常に持ち続けていたのだ。そうした遊び心が春信の想像力を通してまねゑもんを生み出したといっても過言ではなかろう。
明治以降、庶民が日本国民になり、厳格な皇国道徳を植え付けられると、性に関する解放感は急速に失われていった。大正から現在にいたる性表現はどこまでいってもうしろめたさをともなっている。そう考えると、まねゑもんがチャンチキ笑っているところをうらやましく見ている自分がうらめしく思われてくるのである・・・