暖簾を片手ではらい、草履を下駄箱に放りこむ。21。木片でできた下駄箱の鍵に刻まれた数字。擦りガラスの入った木戸を開け番台に小銭をあずけて「こんちは」。重ねてある籐カゴを一つ取り、それを裏返して床に二度ほどがんがんとたたく。身につけているものはすべて取払い、カゴの中に重ねてロッカーに放りこむ。鍵についた輪ゴムを腕にくくって、いざ湯殿へ。
持ってきた洗面器の中には石鹸、シャンプー、リンス、歯磨きセット。髭剃りはもちろん番台で売っている百円のもの。タオルはできれば腰にまわして端と端のとどくものが良い。銀行、温泉などでもらったものならばなお良い。
足で腰掛けを引き寄せ、備え付けのシャワーで軽く洗ってから座る。ひとまず打ち湯。肩からかけて、背中、腰、脚に今から入るゾ、という信号を送る。さて湯槽へ。まず手で温度を確認しておいて、静かにかつ一気に肩まで湯につかる。
おおおおおうううう、ふううう。
手で顔を拭いながら、ぶるぶるぶる、ふうううう、あうう。ごくらくごくらくとオ。
背中を壁にもたれかけさせて、お湯を味わいに入る。少し熱めのお湯がシャキッと肌を刺激するが、まろやかな温かさがからだ全体を包み込む。毛穴という毛穴からお湯がしみ入るかのよう。時間と共に体液とお湯が対流しはじめたか。そうなるとどこまでが自分の身体かどこからがお湯か、もう判別つかない、いや、つけたくなくなる。ぐっと伸びをして、はっと弛緩する。身体が湯槽の中で完全に解放される瞬間。
ひるがえって壁に描かれた絵を味わう。やはり富士が良い。ときおり奥入瀬かどこかの渓流や、天の橋立などが描かれていることもあり、それはそれで趣きがあって良い。しかし、富士が描かれているのを見ると、やはりこれに優るものなし、と確認させられる。日本に住む多くの人々がその意識の中に共通して映し出す富士は、おそらく銭湯の壁絵をその原型としているのではないだろうか。
お湯からあがり、身体を洗う。東京下町あたりの銭湯では背中の流し合いをする習慣が今でも続いているとのことだが、こちら関西にはない。黙々と身体の隅々まで洗うのみ。湯殿での会話も少なく、ひたすら我身を昇華し解放することに精を出す。
頭のてっぺんから足の先まで洗い上げると、再び湯槽へ。今度は湯槽の縁に腰掛け、足だけをお湯につける。深呼吸して周りをながめる。水蒸気がたちこめて意識を朦朧とさせる。壁絵の富士やケロリンの黄色い洗面器の概形があいまいになり、消尽点があやふや。薄明の中に意識は崩れゆく。ぶっとんだわけではない。意識の輪郭がなくなったといおうか、なんといおうか。
カポーン。
洗面器の音に目覚め、今一度、湯槽に埋没。喉の乾きと共に身体を新たに取り戻す。瑞々しい身体感覚に意識も新たな立上りをみせる。首すじから目の裏側にかけて熱いものがこみ上げる。もう少しがまんがまん。
近所のじっちゃんが入ってきたのであいさつする。身体を洗う後ろ姿に遣い慣れた業物の風格が漂う。自分にあれだけの風格を出すことができるだろうか。
のぼせてしまう前にお湯からあがる。軽くタオルで身体の水気を取って脱衣場へ出る。ここちよい冷気にほっとする。大きな扇風機の風にあたりながら身体を拭く。しばらくパンツ一枚で呆けて立ちつくす。このときなぜか手は腰にある。
ひと心地ついたところで喉の乾きをうるおす。スポーツ飲料やウーロン茶、ビールなども良いが、ここは一つ牛乳でいこう。片手は腰に、一気に飲み干すのが基本。ぎんぎんぎんぎん。立ちくらみをこらえる。
身体の隅々までほかほかするのを味わうように椅子に腰掛ける。テレビをながめて時間をつぶした後、籐カゴを元の場所に重ねて「おおきに」。暖簾をくぐって返り道も幸せ幸せ。
銭湯は日本の庶民が生み育んだ最高の快楽装置である。人間の欲望を満たしてくれるものが溢れる最近においても、快楽装置としての魅力に一点の曇りもない。暖簾のむこうに日本人が追い求めた快楽の粋がある・・・・・