日本的なるもの6

 日本という国は何故「日本」という国なのだろう。「日本的なるもの」と題しておきながら、今までこの「日本」ということを明かにしておかなかったようである。日本の社会や文化を考えていくにあたって、そのことを示しえないのでは、論考自体に意味がない。今回その反省をもって、改めて「日本」ということについてまとめなおそうと考えた。しかし、あまりに問題が多岐に渡り、てんやわんやしてしまった。多少バタバタするが、その辺もあわせて示してみたい。
 現在、我々の常識において日本の国を規定する場合、次の三点が主に主張される。

1、日本は四方を海に囲まれた、孤立した島国である。

2、日本は稲作によって支えられた国である。

3、日本は世界でも稀にみる単一民族の国である。

 これらの主張は、しかし、ちょっと考えてみれば大変矛盾した考え方であることが分かる。
 まず1では、海による孤立を主張することで日本文化の独自的発展が考えられている。そして、この考えをつきつめる形で3の主張へとつながっていく。しかし、考古学、民俗学等の成果により、有史以前から列島の各地域で大陸との交流が盛んに行なわれていたことが知られるようになった。
 環日本海沿岸の生活圏をはじめ、瀬戸内海の島じまと朝鮮半島との交流、琉球を中継点とした東シナ海文化圏など、世界の生活圏の中で日本列島は存在していたのである。つまり、1の主張のように海は大きな障壁ではなく、重要な交通路であったといえる。日本列島ではその諸生活圏の中でそれぞれの文化が発達し、互いに流通していたのである。
 次に2。去年の米不足のおり、日本人の米に対するこだわりが非常に深いことが確認されたわけだが、その感受性=日本人となるのだろうか。一般に稲作一元論が主張される場合、「日本人の魂は稲を通じて大地の力をもらっている」といった類のことがいわれる。つまり、稲をして日本の宗教の核心を説明し、天皇家がおこなう新嘗祭が日本人にどれだけ重要かを説くのである。聖なる天皇を立てることで稲作=日本人を公式化しようとしているといえよう。
 しかし、天皇をかつぎだすならば、供御人の存在が忘れられてはならない。供御人とは、海の幸や山の幸を直接天皇に貢献する集団のことである。網野善彦や黒田日出男などの研究で示されるように、天皇がおこなう儀式において、米が権力の分かりやすい象徴であるのに対して、海や山の初物が天皇権力の暗いマジカルな部分を受け持っていたとされる。又、そうした海民、山民の非農業集団が中世紀まで天皇家の直属軍事力として編成されていたことも注目に値する。建武の新政のとき、後醍醐天皇が悪党とよばれる非農業集団と結びついたのも、このマジカルな力を取りもどそうとしたといえる。さらに、天皇との関係を離れた後でも、この海民、山民は独自の流通経路を通じて楽市を組織するようになる。日本の都市性は彼ら抜きで語ることができない。
 以上のように1、2をあわせて考えてみれば、3はおのずと否定されよう。事実、日本列島には、アイヌや琉球の民族が存在し、東北人を一つの民族と見る向きもある。この列島に住んでいるのが人間である以上、生活レベルで考えれば、日本は単一民族と簡単にいうことはできない。日本が単一民族であるとしてきたのは、畿内に発生した権力であり、その主張は皇国史観を構成するのにどうしても必要だったのだ。中曾根元首相の日本単一民族発言は単なる皇国史観の焼直しにすぎない。日本という国は民族によって建つ国ではない。
 しかし、現在、我々日本人は日本列島に住むあらゆる人々にある種の均質性を感じている。この事実はぬぐい去れないものであろう。いったい、この均質性はどこからくるのだろう。
 網野が指摘するように、それは律令制が列島の隅々まで行き渡ったことに原因する。律令制において、何よりも効力をもつものは書類であり、その書類がことあるごとに列島中に撒き散らかされるのである。
 畿内の言葉が列島の権力空間における共通語となったことは想像に難くない。しかし、書類の文章は中国からの漢語を用いられることが多く、それだけでは役人だけの言葉で終わってしまうはずである。そこで網野は「ひらがな」の存在に注目している。
 平安期にはいり、列島の権力空間がひとまずの安定がみられるようになると、女性の中から「ひらがな」が起こり、生活レベルでの共通言語として機能するようになったのである。「日本語」という均質性が生まれたわけだ。
 確かに、言語を空間としてとらえることで日本の均質性を見いだすことができる。しかし、私はその「ひらがな」さえも受け入れた人々の感受性に注目したい。
 元来、女性性という他者的なるものであるはずの「ひらがな」を受け入れることで日本という均質性を開いてしまう感受性。そう、私が「日本的なるもの」と呼ぶものは、まさにこれである。

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