日本的なるもの7

 幼い頃のこと。毎年正月になると、近所の庭先に獅子舞が訪れていた。母はよく私を見に連れていってくれた。獅子舞にかまれるとその一年の厄除けになるといって、母は私の手をカチカチと音をたてる歯にかませていた。他の子供たちより泣き虫だった私は、かならずといっていいほど大泣きをしていた。
 さて、獅子に手をかまれてもさほど泣かなくなった頃、獅子に扮している人が親しくしている近所のおっちゃんであることに気づいた。はじめてそのことに気づいた年は、酒屋のおっちゃんと裏に住むご隠居さんだった。役回りは毎年当番制だったようで、駄菓子屋のおっちゃんやそろばん塾の先生、友達の父親などが、正月ごとに獅子に扮していた。
 私が不思議に思ったのは、獅子舞のあった日、その日一日中、その獅子当番のおっちゃんたちに、何か強い存在感が感じられたことである。これは私に限ったことではないと思われる。獅子舞は、その一日をかけて、町内あちこちの庭先で行われるが、行く先々で、子供たちが遠巻きで畏敬の視線をおっちゃんたちに投げかけている光景がよく見られた。しかし、翌日になると、普段と変わらない気さくなおっちゃんたちに戻っていたのである。いったい、あの異なるオーラは何だったのだろう。
 そうした印象は、実のところ年を経ていくうちに薄れていったのだが、大学時代、バリのバロンダンスを見た瞬間、それらのことが意識の表舞台によみがえってきた。
 バロンとはバリ島における善の精霊のことをさす。その姿はギョロっとした目玉に大きく開く口、するどい牙と威嚇する角。小刻みに震えるその体はまるで内からわきたつ力を押さえ切れないかのようである。その与えるインパクトは南国特有の刺激でむせかえるようだが、根本にあるものは日本の獅子舞に似ているな、と感じていた。
 後日、バロンダンスと獅子舞の関連性について書かれた文章を見つけたとき、すくなからず、我が意を得たりと感じた。その内容をごく簡単に言えば、人間の生活世界に善をもたらそうとする強力な力がバロンという姿になり、その姿が東南アジアから黒潮に乗り、東シナ海沿岸のアジア諸国に広まった。伝播した地域でもその姿は、人間の幸せを求める力と結びつき、日本でも正月などの節目に祝いの舞として獅子舞が行われるようになった、ということである。
 その後、バロンダンスと獅子舞に関する資料をいくつか見たが、それらを総合してみると、バロンも獅子舞の獅子も、生活世界におけるケガレを浄化するカミとして考えられていることに間違いはないらしい。そう、獅子舞はカミによる浄化と祝福なのである(ことわっておくが、ここでいうカミは一神教的な神ではなく、古来より人間が自然の力に対して持つ畏敬の念が生み出したアニミズム的なカミである)。そのカミの仮面をもっておっちゃんたちは演じていたのである。
 そこで注目したいのは、仮面のもつ威力である。おっちゃんたちは、ただカミの仮面をかぶるだけで、私を畏れさせた。つまり、仮面をかぶることで、おっちゃんたちはカミのように現実より強い存在となったのである。獅子舞をするおっちゃんの、あの何ともいえない存在感、どうも近づき難いオーラは、獅子舞の仮面が元来もつカミ的な力によるものだったのだ。翌日、普段通りのおっちゃんたちに戻ったのも、この仮面をはずしたことに原因するといえる。
 しかし、人間の存在というものは、なんとも多様で脆いものか。カミの仮面をかぶることで超地上的なカミの領域へと開示されたり、会社である役目を与えられれば一端の社会的な人間になったりする。日本というアイデンティティを与えてやれば誰でも日本人なのである。(日本人とは仮面のことなのだ。)
 話を戻そう。現在、獅子舞を見ようと思うと、少々苦労して探さねばならない。生活世界の構造が変化したため、当番制で獅子舞を行うことが少なくなり、ましてや獅子舞を生業とする芸人もほとんどいなくなった。つまり、ケガレを浄化するメカニズムが今の日本の共同体には失われているといえる。昨今の新・新興宗教がさらけ出してくれた歪みも、そのことと通底している。その歪みから学ぶものは多い。第二・第三のオウムを生み出すなかれ・・・

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