日本的なるもの8

 ドイツの哲学者カール・レーヴィットが来日したのは昭和11年だった。ナチスがドイツの政権を握り、ヨーロッパを破滅に導こうとしていた頃である。レーヴィットはユダヤ人だったため、ドイツに留まることが不可能になった。
 そこで、東北帝国大学の招聘を受けて、わざわざ東の果てのこの国までやってきたのである。その後、彼は昭和16年まで滞在し、太平洋戦争の開始とともにアメリカに渡ってしまった。
 そうした事情で、多少なりとも日本を知るレーヴィットに「日本の読者に与える跋」という文章がある。『ヨーロッパのニヒリズム』という著書の日本版あとがきに寄せられたものである。
 『ヨーロッパのニヒリズム』はレーヴィットが生涯のテーマとした、人間の自己確信が崩壊する道行を哲学史に位置づけるものである。自己意識を全体的な意識にまで拡張し、その巨視的な視点からすべてを説き明かしたと信じるヘーゲルから、「神は死んだ」と叫ぶことですべての価値判断を無効にしたニーチェまで、ヨーロッパのアイデンティティが失われる姿をレーヴィットは描き出した。彼はその自らの行為を「ヨーロッパ的自己批判」と呼び、ヨーロッパにおける、それまでとは違った人間の在り方を模索したのである。
 しかし、その返す刀で彼は日本を批判する。日本の何を?つまり「日本的自愛」を!
 「前世紀の後半において日本がヨーロッパと接触しはじめ、ヨーロッパの
'進歩'を嘆賞すべき努力と熱っぽさをもって受け取ったときは、ヨーロッパの文化は、外的には進歩し、全世界を征服していたとはいえ、内実はすでに衰退していたのである。(中略)その時はもうヨーロッパ人はその文明を自分でも信じなくなっていた。しかもヨーロッパ人の最上のものたる自己批判には、日本は少しも注意を払わなかった。」
 日本はヨーロッパから産業と技術だけを学びとった。つまり、日本のものの考え方、風習、ものの評価というものはそのままに、外面的にヨーロッパの技術を身に纏ったのである。そして、ヨーロッパ的外面の矛盾に気づくやいなや、簡単に打ち捨てようとする、あるいは自らの内面の働きでよりよき「日本とヨーロッパの統合」を作り上げようとする。しかし、ヨーロッパ的外面はそれを着ることで内面までその矛盾が蝕んでくる代物だったのである。今なお続く宗教上、道徳上、社会上の矛盾をみれば、その浸透性に気づかされる。
 したがって、日本はヨーロッパのニヒリズムに真っ向から向き合わねばならないはずである。しかし、それにはヨーロッパの書籍を研究し、知性の面のみで理解するだけではいけない。レーヴィットは当時の日本の学者を指してこういう。
 「彼らはヨーロッパ的な概念--たとえば'意志'とか'自由'とか'精神'とか--を、自分達自身の生活、思惟、言語にあってそれらと対応し、ないしはそれらと食い違うものと、区別もしないし比較もしない。」
 日本の学者は他なるものの中から自らを問題にすることがないというのである。彼らはものごとを日本的に感じたり考えたりしているのに、外面的にはヨーロッパの概念をふりまわす。そこには自らの体験への自己省祭なり、自己批判がない。この点をレーヴィットは「日本的自愛」と呼んだのである。
ヨーロッパにおけるゲーテやニーチェ、ボードレールのように、自己および自己の国民を問題にする日本人が果たしてあるのだろうか、彼はそう問いかける。
 そうした批判は実際のところ、今でも有効性を失っていないと思われる。
 戦後50年間、ドイツでは自らの内に抱え込んだナチズムという問題を徹底的に考えてきた。戦犯に対しては執拗な追及がなされ、被害者に対しては可能な限り保障を行ってきた。解決つかない問題は山ほど残っている。しかし、民族に宿るナチスの火を克服しようと全力を尽くしてきたのである。
 しかし、日本では近年の従軍慰安婦問題をはじめ、近隣諸国への謝罪・保障、靖国問題等、ほとんど無視の状態が続いている。ようやく国会セレモニーとしての「戦後50年国会決議」なるものが表面化したが、結果は周知の通り、ていたらくなものである。
 日本は「民主」を、「平和」を、「共生」を、そして「戦後」をいかに学び、いかに考えてきたか。いや、いかに学ばず、いかに考えてこなかったか・・・

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