ふだん、我々はことばというものについてどのように考え、それをどのように使っているのだろうか。
現代のような情報過多の社会に生きていると、ことばは情報を表現する手段としてのみしか扱われていないのではないだろうか。この場合、情報の内容が大切なのであって、ことばそのものは手段としての役割以上に考えられていないといえる。
情報の収集と公開の速効性が問われる現代において、それは一面の妥当性をもっており、新しい表現知として今後の成果が楽しみな領域ではある。
しかし、ときとしてことばは表現手段としての役割とは違った姿を見せてくれる。たとえば、折口信夫の『死者の書』に触れるとき。
物の音。----つた、つたと来て、ふうと佇ち止るけはい。耳をすますと、元の寂かな夜に、----激ち降る谷のとよみ。
つた つた つた。
また、ひたと止む。
この狭い庵の中を、いつまで歩く、足音だろう。
つた。
死者の足音が読む者をぎくりとさせる。
つた つた つた。滋賀津彦が死の淵からよみがえり、藤原南家の郎女にせまりくる足音。なんとも不意をついたことばである。
しかし、なぜこうもぎくりとさせられるのであろう。普通の足音であれば、誰かが歩いているのだろうとだけ感じる。ところが、この場合、死者がせまってきている、と確信させられるのだ。つた つた つた、という足音が、死者の到来を確信させるに足ることばとしてそこに存在しているのである。しかも、それは死者の到来を単純に描写しているというレベルを超えてそこに存在している。
「つたつた」というようなことばは、擬声語とよばれる品詞に属する。たとえば「ざあざあ」や「わんわん」「さらさら」など。擬声語とは物の音響、音声などをまねて作る語である。しかし、注意すべきは、擬声語はあくまで音をまねて作る語であることだ。つまり「ざあざあ」といっても、雨そのものの正確な描写ではなく、みんなも知っているはずのあの音、という了解のもとに作られているのである。いわば、「雨の音」という意味がたちあらわれるための基体として「ざあざあ」がある。擬声語はことばそのものの物質性を極めて純粋に示してくれる。
したがって、「つたつた」も、その物質性をもって我々に、郎女にせまってくる。読む者は、死者が庵の中を歩き回っているからぎくりとするのではなく、まず、その物質性に不意をつかれるのだ。
では、「つたつた」という物質的なことばからどういった意味がたちあらわれるのか。
死者がこの世によみがえるとき、死と生の間、つまり自然と人間存在の間に何かしらの橋渡しがおこなわれなければならない。折口はその介在する文化システムとして擬声語を使用したのではないだろうか。いや、「つたつた」という足音を発見したといった方がいいか。とにかく、死者はことばを伝って、ことばを踏みしめて近づいてきたのである。(そんなことを考えていると、先日出版された松浦寿輝の『折口信夫論』の中で同じようなことをいっていた。私の考えもそれほど突飛なことではなさそうだ)折口はその指先にもつ筆でことばという物質の上に死者を歩かせたのだ。そう、擬声語が死者の到来を確信させる。
郎女は刹那、思い出して帳台の中で、身を固くした。次にわじわじと戦きが出て来た。
ことばの物質性に不意をつかれ、次いで、死者の到来を確信して戦きを覚える。わじわじと。もう折口の張ったディスクールから逃れられない。郎女も読む者も、そして折口自身も逃れられない。郎女の戦きは私の戦きか?
なも、阿弥陀ほとけ
戦きの中で郎女の唇から洩れた念仏。再び不意をつかれる。そう、ことばを伝って阿弥陀仏が救いにやってくる。郎女も読む者も折口も、そして滋賀津彦も・・・・・