With Children,With Christ

子どものための聖書教室



神さまの国はどこに?

神さまの国はどこに

主の祈り

主の祈り、これはもちろん知っているようね。「天にますます」ではじまるイエスさまが教えてくださった祈り。ちょうどいい言葉がみつからないときは、この祈りの言葉を唱えるというのはいいことだと思うよ。

ところで、「天」とは何だろう。もちろん、「天の国」、それから「神さまの国」、「天にまします」の「まします」というのは、天におられるということだから、天のお父さまというよびかけが、主の祈りの一番はじめの言葉だよね。最近は、神さまはなぜ「父」で「男」なのだろうとそんな話もあるけれど、ま、これはまた別の機会にゆっくり考えてみよう。じゃあ、神さまは天におられると言われても、それは「空の上」、そんな意味なんだろうか。もちろん、それだってちっとも構わないと思う。天の国は神さまの国だから、それが空の上にあっても、どこにあっても不思議はないかもしれないね。 だけど、「空の上」、これは悪くないけれど、やっぱりどこにあるんだろうかと考えた時、わかるようでわからないかもしれない。それでは「神の国」というのはどこにあるのだろうか。ちょっと考えてみようよ。

あなたがたの間に

さて、ルカによる福音書17章20節にはこんなことが書いてある。「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかとたずねたので、イエスは答えて言われた。神の国は見える形では来ない。ここにある、あそこにあると言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるもものだ。
う〜ん、ちょっと考えてしまう。神の国、あるいは天の国と言ってもいいと思うけれど、それは「天」まはた「空の上」にあるのではないかと思っていたけれど、イエスさまは「あなたがたの間にあるんだ」とおっしゃっているね。「あなたがたの間に」とは、どこだろうか。
う〜ん、なんてまた難しく考えてはいけない。イエスさまはみんなにわかるように簡単に教えてくださっているはずだから、ほら、あなたがたの間ということは、あなたとあなたの友だちのいるところ、それからあなたの家族のいるところ、あなたと誰かが一緒にいるところに、神の国があるんだよと、そう教えてくださっている。

心をひとつに

じゃあ、もう一つだけ聖書の言葉を見てみよう。マタイによる福音書18章20節にはこう書かれている。「あなたがたのうち2人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。2人または3人がわたしの名によって集まるところには、わたしもそのなかにいるのである」。
ほーら、イエスさまというのは単純明解。誰にでもわかるように話してくださる。2人が心を一つにして、そして、キリストの名によって集まれば、そこに神さまもイエスさまも一緒にいますよ、そういうことだね。

ということは、そこが「神の国」なんだね。あなたがたの間にというのは、そういうことだよ。だけど、人がたくさん集まれば、ほんとにいろんなことがある。いろんな人がいる。だけど、みんな神さまの似姿に創られた「神さまの子ども」なんだ。そこのところを忘れてはいけないよね。もちろん、意見のあわない人も、ムシが好かない人も、好きな人も嫌いな人もいるだろうよ。だけど、神さまはきっと、人間にはわからない「秘密の計画」を持っておられるんだ。
神さまが人間にして欲しいと思っておられることって何だろうか。神さまはちょっとだけいじわるな方?だから、そういうことになるとそう簡単には答えを教えてくださらない。だけど、ヒントはいつもくださっているよ。

パンが膨らむように
さて、聖書のなかには「たとえ話」というのがたくさんでてくるね。「神の国」はいろんなものにたとえられているね。たとえば、「からし種」とか「パン種」のようなものだというたとえられている。パン種というのは、今でいうなら、イースト菌のこと。パンをパンらしく膨らませてくれる元だね。そう、神さまの国というのは、もう出来上がってしまったパンではなくて、みんなが創っていくものでもあるかもしれないよ。
この地球の上には、毎日楽しい出来事もあるけれど、一方では戦争が起こったり、食べるものがなくて辛い思いをしている人たちがたくさんいる。だけど、そういう人間が生きている地球の上に、そうあなたがたの間に神の国を育てなさい、神さまはそうおっしゃておられるかもしれないよ。




考古学者シュリーマンの話をしよう

シュリーマンの話をしよう
トロイアの遺跡を発見した考古学者ハインリヒ・シユリーマンという人かいる。いつかその話を書いた「古代への情熱」というような本かあるから興味かあるなら読んだらいい。今、シュリーマンその人のことを書くのが目的ではないから、詳しいことはいわない。たた、彼は考古学者で、古代ギリシヤの詩人ホメロスという人が書いた「イーリアス」と「オデッセイア」という詩に歌われている伝説だと言われていたトロイアの町を発掘してしまった人なのだ.ふ一ん、それかどうした?そう言うかもしれないね。でもね、これは実に偉大なことなのだ。学間的にも偉大だけれど、それよりも何よりも、シユリーマンの古代への情熱について考えてみるのは悪くないと思うよ。それと聖書と何の関係かあるの?うん、そこだよね。

宝はどこに?
考古学者というのは、簡単に言うと遺跡を発掘するのか仕事。ちよっと目には、土木工事の人に似てるね。来る日も来る日も「ここだ!ここに宝があるのた」と信じる場所を掘り続けるのだ。もちろん、求めるものか「ここにある」ということを信じて、それを言えるまではそりやあ大変な努力と忍耐が必要なのだよ。いいかげんに掘っていたって「宝」か出てくるわけはないものね。ここ掘れワンワンみたいにそういう便利な犬がいるとそりやあ、うれしいけれど、普通の場合はそんな超能カを持った犬や人がいるわけじやないってのも現実なんだよね。さて、本題。今日のテーマは「お恵み」なのだ。それとシユリーマンの発掘といったいどういう関係なの?って。

お恵みはどこから?
じやあ、結論から先に。つまり、「お恵み」も発掘しないとだめなんだよね、きっと。棚からぼたもちということわざを知っているかい?思いかけない時にいいことにめぐりあうという意味だね。もちろん、そういう「お恵み」もあるよね。いろんないい状況か重なりあって、おもいもかけない、いいことに発展してしまうこともあるのだから。たけど、むしろそういうことは少ないのたと思っておくほうかいいよ。何かいいことないやろかとただ待っていても、たいていはそんな甘い期待は裏切られてしまうよね。

お恵みってなんでしょう
「お恵み」って何たろうか?カトリック聖歌集のなかにこんな歌がある。
おめくみって何でしょう
イエズス様からいただいた
みんなの丈夫なそのからだ
そうよそれがおめぐみよ
これは1番の歌詞。じようぶな体がお恵みだって。なんだものかなんては言えないね。じやあ、2番は「きれいなぞの心」だって。3番ば「守護の天使とご一緒に遊ぶ楽しい幼稚困」こんな歌詞になっていた。ちよっと古い歌だね。だけど、この歌からお恵みってどんなものかわかったかい?う一ん、なんとも言えないね。だけど、じょうぶな体にきれいな心、そして楽しい日、これはやっばりお恵みと違うだろうか.つまりね、この歌からはあんまりたくさんのことはわからないけれど、お恵みというのは、これから頂くものではなくて、本当はもうたくさん頂いてしまっているものかもしれないのだ。神様のプレゼントというのは、もしかしたら、そういうものかもしれないのだ。だけど、それぞれの人は神様からどんなものをお恵み・プレセントとして項いているのか、ちよっとやそっとではわからないようにできているのかもしれない。けれど、すでに頂いているのだから、もう持っているのだ。だから、シユリーマンのように発掘しないといけないのだよ。

タレントって何だろう?
2コリント6章1節に「神からいたたいたお恵みを無駄にしてはいけません」、こんな言葉がある。そして、もう1つは「タラントン」の話.マタイ福音書25章14節。天国のたとえのひとつ。ある人が旅行に出かけることになり、僕(しもべ)たちに自分の財産をそれぞれの力に応じて預けた。主人か帰ってきたときに、1人は、5タラントンを元手にして5タラントン儲けた。1人は、2タラントン預かり2タラントン儲けた.3人目は預かったタラントンを失わないように地の中に隠して、そのまま返したという話。ここで出てくるタラントンというのは、「?円」というようなお金の単位だと思ったらいいよ。タレントという言葉はここから出てきたものらしい。タレントというのは今ではテレビのタレントさんみたいに使われているけれど、もとの意味はここから来ているし、才能とかカという意味だよ。

マタイ福音書に出てくる話は、たた単純に解釈してしまったら、お金もうけの商売の上手な人が主人のためにたくさん儲けたってことになってしまうけれど、それじやあどうもおかしいよ。まずはこれは聖書にかかれている「たとえ話」なんだということは忘れてはいけないよ。
よ一く考えてみよう。1つの解釈なんだけれど、タラントン(タレント)の使い方か間題なんだよね。だって5タラントンあずかった人も3タラントンあずかった人もご主人がもどってきた時に、私はこれだけ増やしましたといってお金を差し出しているでしょう。その時主人はふたりとも同じように誉めている。つまりご主人ととったら「金額」は問題ではないわけだよね。ふたりの人は預ったものを使ったという意味では同じことをしているわけでしょう。すると、この話は、主人から預かったものを元手にしてさらにもうけた人と、せっかく預かったものだから失ってはいけないからと土の中に埋めてしまった人かいることになるね。タレントというのはもちろん力量とか力でいいのだけれど、その意味はタレントを持っているというよりは、それを使う力という意味の方がいいような気かするね。だから頂いたものを大事に守るつもりで土の中に埋めてしまったのでは、いったい何のためのタレントなのかわからなくなってしまう。せっかくのカをまるで使わなかったことになってしまうのだ。

洗礼は大きなお恵み
何か言いたいかちょっとははっきりしてきたかな。つまり、もうすでにいろいろとプレゼントをお恵みとして頂いているんだ.だけど、どういうものを頂いているのかやっばりわからないんた。だけど、その1つは洗礼を受けたということだよ。そこからすべてか始っているかもしれないんだよね。神様というのはケチな方じやないのだよ、きっと。もうほんとにたくさんいろんなものをくださっていて、少し言葉をかえるなら、人間にいろいろなカを「預けて」おられるのだ。それがお恵み。だけど、それがどんなもので、いったいどれくらいで、はたまた、どう使ったらいいのか、そこんとこは結構厳しい方みたいで、自分で考えなはれ・・って感じなんだよね。だけど、これはとっても大事なことなのだ。神様は人間を「自由意志」を持ったものとして創った。このことはとっても大事なこと。必要なもの、あなたにふさわしいものはもうすでにいろいろありますよ、さあ、それで何がつくれるか自分でやってみてごらん!そういう意味でもあるかもしれないね。

だから考古学者になろう
だから、頂いたお恵みを、どうやって発掘して、どうやって使うのか、そういうことをするカがタラントン(タレント)じやないかなあと私は考えているのですが。だから、どれだけできたとか、人よりよく出来たとか、そんなことは関係ないのだ。自分に与えられたものをちゃんと見つけることかできたかということか大事なのた。ま、わかったようでわからない話になったかもしれないけれど、これからだんだん大きくなって、いろいろなことに出会うと思うよ。そういう時にシユリーマンみたいな人がいたんだと、そんなことを思い出してくれたらいいだけ。




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