With Children,With Christ

子どものための聖書教室



この世はでっかい宝島

神のわざを思いおこそう不思議なわざ
この世はでっかい宝島

不思議がいっぱい
「たくさんのぷしぎ」という絵本があるね。毎月、いろんな不思議なことを教えてくれる。わかることが増えてくれぱわからないことはなくなるのではないかと思うけれど、実は!むしろわからないことがますます増えて行くのかもしれないよ。勉強するというのは、本当はそういうことかもしれない。わからないことがいかに多いのか!それを知ってはじめて、賢くなれるのかもしれないぞ。テストで?点だったということは、それはそれで結構なことなんだけれど、本当に勉強するってことは、テストの点数とは本来は関係がないの・だ。だからと言って、そんならガッコの勉強はしなくてもいいのだ・・などとそんなことを言っているのではないよ。今、学校で勉強していることは、やっぱりとても大事なことだったりするから、学校の勉強は本当はちやんとやらないといけないのだ。

あなたの知らない世界?
さて、「たくさんのふしぎ」の話にもどろう。あの本はある時は顕微鏡の世界を、ある時は宇宙の話し、ある時はネコの一日の生活などというのが話題になっているよね、「この世はでっかい宝島」なんだよ、そんなことか言いたい本なのかもしれないぞ。不思議というのは何も特別なことなんじやなくて、実はそこいらにゴロゴロところかっているんだ。気がつかなければ、なんでもないことかもしれない。けれど、もしも「?」と思ってよ一く見たら、まあ、不思議いろんなものがゾロゾロ飛ぴ出して、限りなくおもしろい世界か広がってしまうこともあるんだよね。

ヨブという人
旧約聖書の中に「ヨブ記」というのがあるね。ヨブは正しい人だった、聖書に書いてある通り、かな。そして財産もたくさんあって、使用人がいて、お金持ちだった。ところがある時、サタンがヨブの信仰を試そうとした。ヨブが正しく信仰あついのは、恵まれているからできるんだと。それからが大変なことぱかり起きるようになった。牛やろぱが殺されたり、羊飼いは災難にあうし、子供たちは死んでしまう。ヨブの財産は全部なくなってしまった。けれど、ヨブはやっばり正しい人だった。するとサタンはヨブが病気になったら、きっと神様を呪うはずだとヨブを病気にしてしてしまった。大変な災難だよね。

けれどヨブはこう言った「神さまから幸福をいただいたのだから、不幸もいただこう」と。そんな災難にあって病気にまでなってしまったヨブのところに3人の友人がやってきて、ヨブがどうしてそんな災難にあってしまったのかといろいろ議論を始めた。このあたりはとても長い議論が続くのだけれど、これは読めるようになったら、読んでごらん。「人の知恵」という間題がいろいろ議論されて、とてもおもしろい場面だと思うよ。

神様の時間・神様の計画
神さまの前で人間はいかに小さいものか・・、別の言い方をするなら、人の時間と神様の時間と言った方がいいかな。人には測りしれない神様の秘密の計画、そう、不思議がやっぱりあるんだ。ヨブと3人の友人たちがあれやこれやの激しい話しをしていると、「主は嵐のなかからヨブに仰せになった」。『これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経りんを暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ・・・』神様は激しい調子でたて続けにヨブにいろんなことをたずねた。ね、このあたりゾクゾクッとするでしょう。人の知識などをはるかに超えるものかあるんだ。あらゆることを知ったつもりになっても、まだ不思議かあるんだ。

大事なのは
どれだけ何を知ったかなんてことじやないよ。物事を知るというのは、人間として当たり前の努力なんだ。けれど、いろんなことを知ったつもりになっても、それは「世界」のほんの少しのことを見ただけかもしれないね。けれど、本当に大事なことは、どれだけやったか、何をしたか、何を知ったか、ということじゃないんだよ、きっと。その知識を良く使うことはとっても大事なことなんだ。それに、よ一く考えてごらん。生きてるってことそのものが本当はとっても不思議なことなんだ。典礼聖歌という歌の中にこんなのかある、「神のわざを思いおこそう」。


弟子になる

弟子になる

聖書というのは不思議な本で、読む時によって、つまり自分の気持とか、その時の状態によって、いろんな風に読むことができる。だから、一度開いた話だから、あれっ、もうそんな話知ってるよ、なんてことにはならないの。

もしも孤島にいくとしたらあなたは何を持っていきますか、そんな質問で「聖書」と答える人は多いとか。つまり何度も何度も繰り返し読むことができる、聖書とはまずそういう本だということなんだね。 なぜだろう、なぜ何度も何度も読むことができるんだろうね。

ひとつには日々新しいということはあると思う。同じだと思っていてもやっぱりその日その日感じること、考えることは違うんのだろうね。それから経験を重ねることでまたちがってくる。自分が何かにぶつかってはじめて気がつくこともある。という具合に、同じ箇所でも違って感じることもある。より深く言葉を味わう日もあれば、何も感じない日もあるかもしれないね。そんな風に日々違うんだってこと、それはとっても大事なことで、もしかしたらそういうことが神さまと話しているってことになるのかもしれないよ。

それからいろんなものごとを知ってるということと、心で感じて分かるということは多分違うことかもしれないんだ。自分の目で、自分の手で、自分の体で、そして自分の心でふれてみないことには、やっぱりわからないものなんだ。聖書を読むことも同じだね。

聖書というのはただの「本」ではない、これは確かだよ。読み方によったら、「力」をもらえる不思議な本なんだ。でも、その不思議な力をもらうためには、自分で気がついで、自分でつかまなくちゃいけない。

聖書は力
神様というのはもちろんやさしい方だけど、時にはとっても厳しいことだって平気でやってのける方なんだ。でも、やっぱり最後は必ず助けてくれる、それが聖書の不思議な「力」なんだよ、きっと。では、質間!。もしも、イエズス様が「私についてきなさい」と言ったら、君はどうする?「うん」と言ってついて行く?それとも、「ちょっとまって、相談してくる」と言う?それとも、「知らない人について行ったらアカン」と言ってことわる?それとも…。

シモンとアンデレ
さて、シモン・ペテロとアンデレという兄弟がいた。ふたりはガリラヤ湖で漁をしていた。ガリラヤの風かおる丘で…、ぽら、こんな歌があるね。そこにある湖だよ。ふたりは漁師の子。だから、つりをしていたといっても遊んでいたわけではないよ。ちやんと仕事をしていたんだ。その仕事のさなかにイエスはふたりに声をかけた。「わたしについてきなさい」って。すると、ふたりは網をすてて、イエスのあとについていった。ウーン、考えてしまうね。君だったらどうする?

ヤコブとヨハネ
それから、同じガリラヤ湖の違う場所で、ヤコブとョハネの兄弟が網をつくろっていた。網に穴があいていたら、魚は逃げてしまうものね。だから漁師さんにとって網は命、網を直すというのはとっても大事な仕事なんだ。そんな大事な仕事をしていたふたりもイエスが「ついてきなさい」と声をかけると、やっぱりついていった。イエスは、ほら、お菓子あげるからなんてそんなばかなことはいわなかったはずだよ。ただ「わたしと一緒にきなさい、わたしの弟子にしよう」といっただけなんだ。

弟子になる
「ついてきなさい」ということは、もちろん、ペテロとアンデレ、ヨハネとヤコブたちのように、本当に「ついていく」ことだよ。だけど、どうしてイエスはペテロたちのような人を弟子に選んだのだろうね。イエスの「弟子」といわれた人たちは12人いたね。ほら、ちよっと話はとぶけど、「最後のばんさん」という絵はキリストをいれて、13人描いてあるのを知っているよね。12人、どんな人がいたのか、またゆっくり考えてみよう。きようのところは4人でてきた。多分みんなまだ若い人たち。そして、結構つらい仕事をしていたと思う。だけど、イエスは彼らが弟子にふさわしいと思って呼んだのだと思う。どういう人が弟子にふさわしいか、それはこれからゆっくり考えていったらいいね。

わたしについてきなさい
さて、「わたしについてきなさい」この言葉のことをちょっと考えてみようか。イエスの後をほんとに歩いてついていけるなら、これは文字通り「ついていける」かもしれないね。ペテロたちはどうもそうやってついていったみたいだからね。だけど、今、そういうわけにはいかない。どうやったらついて行けるかわからないね。だけど、自分では気がついていなくても、イエスはきっといつでも呼んでいてくださるんだよ、きっと。「わたしについてきなさい」っていつでも、呼びかけていてくださるんだと思う。呼ばれた人はみんなキリストの弟子なんだね。

あなたもやってごらん!
「わたしについてきなさい」ということは、「わたしにならいなさい」ということなんだ。「ならう」、私を手本にしてみならいなさい、ということ。わたしがしたように、あなたもやってごらん!
でも、イエスが何をしたかわからないって。そうだね、知っているようで、ほんとはあまり知らないかも知れないね。じやあ、イエスがどんなことをしたか、それを知るためにはどうしたらいいの?つて。そうそう、聖書を読んでみたらいいんだ。全部書いてある。

ほんもの
キリストのように考え
キリストのように話し
キリストのように行い
キリストのように愛そう
こんな歌がある。
「まね」をする、ほら、テレビなどで歌手や俳優さんの「そっくりさん」が出てきて、歌まねやくせをまねたり、そういうことがあるね。でもね、キリストのようにということは、もちろんまねするって意味もあるのだけれど、まねをするということは何も考えないで、ただただまねをするってことじゃないよ。キリストの生き方や心に学ぼうというでもあるんだよ。形や言葉だけまねしてもそれはあかん。何が本当にすばらしいことなのかを自分で考えてみつけていかないといけないね。だって、人間はみな自由意志を持ったものとして創られた。どう生きるか、何をするかは自分で決めることでもあるんだよ。ある時には大きな決断もしなくてはいけない。神さまはそういう時支えになってくださるんだ。

弟子になるつていうことはそういうことなんだ。「ほんもの」の弟子になんかそう簡単になれるものじやないよ。ペテロだつて3回もキリストを裏切ったんだ。君たちはこれからいろんな人にであったり、いろんなものを見たり、いろんなことを経験していくはずだよ。そういうことを通じて、「ほんもの」の弟子になれるように考えたり、悩んだりしていくんだと思う。もちろん大人だって同じなんだ。考えながらキリストと共に 歩くこと、それが弟子になるってことなんだと思うよ。




copyright/Chie Nakatani 中谷千絵
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