With Children,With Christ

子どものための聖書教室(旧約聖書ものがたり)



モーセと主のすぎこし

ちょっとだけ前置き
「旧約」と「新約」
聖書には「旧約聖書」と「新約聖書」というのがあるのは知っているでしょう。この「旧約」とか「新約」ってどういうことか知ってるかい?たま〜に「やく」という言葉の意味を勘違いをして、「旧約」は「旧訳」で古い訳本、「新訳」は新しい本だと思っているってことがあったりするのだけれど、「旧約」というのは、よ〜く字を見てごらん、「約」で、これは「約束」の「やく」なのだ。古い約束と新しい約束って何だろうか。

新約聖書のヨハネによる福音書13章34節あたりをまず見てごらん。そこに「あなたがたに新しい掟を与える、互いに愛し合いなさい」というのが言葉があるでしょう。ここでイエスさまが与えた掟、これが新しい約束(契約と言った方がいいかな)だよ。これが「新約」って何だろうという簡単な解説。さて、では「旧約」とはいったいどんな約束だったんだろうか。そして、今の私たちにはもう関係のないことなんだろうか。

ところで、ここでちょっとひとこと。なぜ聖書を読むのかな、そんなことも考えながら、一緒に聖書を読んでみようよ。けれど、どうぜ読むなら、楽しくよもう。

川に捨てられた赤ちゃん
モーセという名前には、「水からひきあげられた人」という意味がある。水がもらないようにアスファルトとピッチを塗りこめた葦のバスケットに赤ちゃんをいれて、モーセのお母さんはモーセを川に流した。生まれてすぐのことだよ。なぜ?それをこれからお話するんだよ。

モーセはイスラエル人、生まれた場所はエジプト。その頃、イスラエルの人々はエジプトに住んでいた。なぜイスラエルの人がエジプトにいたかというと、ちょっと歴史をさかのぼるけれど、ヨセフという人のことから話さないといけないね。

ヨセフのことを忘れちゃいけない
アブラハムには7人の子。。。があったかどうかは知らないけれど、イサクという子どもがいた。イサクにはエサウとヤコブという双子の子どもがいた。そのヤコブにはなんと12人の子どもがいて、12人の子どものうち下から2番目にヨセフという賢い子がいた。

お父さんのヤコブが賢いヨセフばかりをかわいがるので、10人の兄たちはくやしくて、ある時、ヨセフをエジプトに向かう隊商に売ってしまった。隊商というのは砂漠を移動しながら、商売をやっているような人たちのこと。むか〜しロバのパン屋というのがあったそうだけれど、ちょっと違うかもしれないけれど、お店の方からきてくれる。もちろん車じゃなくて、ラクダに乗ってだよ。

というわけで、ヨセフはエジプトに連れて行かれてしまった。ところがやっぱり賢い子で、夢占いなどをはじめてしまって、飢きんが来ると予言して、食べ物をしっかり保存するように王さまに告げた。そんなありがたくない予言がぴったり当たってしまったものだから、いざ飢きんの年がやってきた時、エジプトはしっかり飢きんの対策ができていたから困らなかったんだね。だから、ヨセフは王さまに気に入られて、とうとうエジプトの国の大臣にまでなってしまったというわけ。

エジプトへ
ところが飢きんがおそって、イスラエルのヤコブの家族たちは食べるものに困り、今ではエジプトの大臣になっているヨセフを頼って、食べ物をいっぱい蓄えていたエジプトに移住してきた。このあたりは「夢みるヨセフの物語」と言って、イスラエルの人々がなぜエジプト住むようになったか、そのわけがちゃんと書いてあって、お話としてもとてもおもしろいから、これはまた別の機会にね。

苦しいことばかり
ヨセフの時代からだいぶんたって飢きんの時代にエジプトに移住してきたイスラエル人がとてもたくさんになった。そうすると困ったのはエジプトの人たち。自分の国なのに、エジプト人よりイスラエル人の方が多くなってしまったら、何やらおもしろくないわけね。このままの状態が続いたら、自分たちの国はイスラエル人に取られてしまうんじゃないかと思った。それで、エジプトの王さまはイスラエルの人たちが国を取ることがないようにと、イスラエル人を奴隷にして働かせた。

エジプトにはピラミッドというとてつもなく大きな王さまのお墓があるのを知ってるよね。ああいうものや町を作るためにイスラエルの人たちを働かせた。そして、これ以上イスラエルの人の数が増えないように「イスラエル人の男の赤ん坊をみんな殺してしまえ」という命令を出した。モーセはそんな時代に生まれた。だからモーセのお母さんは赤ちゃんが殺されるなんてとても耐えられないと思って、誰かいい人が拾ってくれないかと願って、モーセを川に流した。

モーセはやっぱりラッキーな子だった。王女さまに拾われた。川の水のなかから拾いあげたので、モーセと名前がつけられて王子として育てられた。でも、大きくなって自分は本当はエジプトの王子ではなく、イスラエル人の子どもだったことを知ると、奴隷で苦しんでいるイスラエルの人々を助けようとした。といっても世の中そんなに甘くはないよね。イスラエル人を助けようとしたために、よけいなことをしたということになって、砂漠に追われてしまう。モーセは砂漠をさまよって、ミディアンというところにたどりついた。そこは聖なる山といわれたホレブ山のあるところだった。

モーセよ、モーセ
さて、ここからがモーセの預言者としての人生のはじまり。預言者というのは、神様の言葉を預る人のこと。神様から聞いた言葉を間違いなくみんなに知らせる人のことだよ。

といってもモーセはミディアンで特別な暮らしをしていたわけじゃなくて、ツィポラという奥さんがいて、ゲルショムという子どもがいた。ミディアンで、モーセは羊飼いの仕事をしていた。

ある日のこと、羊を追ってホレブ山の近くに来た時のこと。モーセは柴が燃えているのをみつけた。これは<燃える柴の話>と言って、とても有名なところでもあるんだよ。つまりここで、何があったかというと、モーセがはじめて神さまの声を聞いた場所なんだ。 燃える柴のなかから、神さまはモーセを呼んだ。「モーセよ、モーセ」ってね。そして、神さまはモーセに、エジプトで苦しんでいるイスラエル人々を助けなさいと言った。

たとえ神さまの命令でも、「助けなさい」ということは、イスラエルの人たちをエジプトから連れ出しなさいということだよ。これは大変な仕事だよね。一人や二人を連れ出すわけじゃなくて、何万人もの人をエジプトから連れ出しなさいというんだ。そう簡単には「はい、やりましょう」と言ってできることじゃない。「助けてあげるよ」なんて、大きな声で言っても、みんなが素直に、普通の羊飼いの言葉を信じて、聞いてくれるかどうかすらわからないんだものね。

あって、ある神さま
モーセは困って、神さまに聞いた。「わたしたちを助けてくれるといっても、そんなことを言う人は誰だ、なんという名前なのだ、本当のことを教えろ、とみんなが言ったら、自分はどう答えたらいいか」と。そうしたら神さまは、「わたし《ある》という方から命令されて、みんなを助けにきた」と、答えたらいいとモーセに教えた。

神さまといつもいっしょ
神さまには名前なんかなくて、「わたしは《ある》というものだ」。いつでも、どこでも《ある》もの。ここいらあたりちょっと難しいね。でも、「神さまといつもいっしょ」という歌を知っているね。そういうこと。ぼくの、わたしのなかにいつもいっしょにいてくださる、それが「あって、ある神さま」なんだ。

みんなを助けたい
さて、モーセもやっぱり普通の人。神さまがいつも一緒にいてくださるというのはわかるのだけれど、エジプトからイスラエルの人々を救いだすというような大きな仕事が自分にできるかどうか、やはりとっても心配になった。だからあれやこれや理由をならべて神さまに反抗してみた。私は何もできないし、話もへただって。私の言うことなんか誰も信じてはくれないかもしれないってね。神さまはモーセをしかったけれど、いつもモーセを助けると約束してくれた。そしてアロンという人をつれてきてくれた。この人は人の前で話をするのがとても上手だった。

ようやくモーセの気持ちもおさまって、モーセは心から神さまを信頼し、信じ、神さまの言葉にしたがってエジプトにむかった。そしてエジプトの王さまに会いに行った。だけど、ある日突然、エジプトの国にモーセがあらわれて、イスラエルの人びとを自分の国に帰してくださいと言っても、エジプトの王さまにしたら、そりゃあ困るということになるよね。

イスラエル人の数が増えて国が取られるのではないかと心配もしたけれど、イスラエル人が急にみんないなくなったら、つらい仕事をする人がいなくなるということだし、王さまにとったらモーセの話はまったくもってとんでもない困った話ということになってしまった。モーセは何度も何度も王さまと話をした。けれど、そんな話をしたおかげで、イスラエルの人たちの仕事は前にもましてつらくなってしまったのだった。困るよね、こんなの。神さまがやりなさいというからやったのに、うまくいくどころかだんだん悪くなるばかりだもの。

エジプトは大混乱
そんなこんなでモーセがすっかり困っていると、約束通り、神さまがモーセを助けにきてくれた。私がエジプトの王さまをこらしめてやろうと。そうしたら王さまは言うことを聞くようになるかもしれないからってね。ところが、これがちょっとやそっとのこらしめではなくて、そりゃあ、もう!エジプトを打ちのめすほどの懲らしめだった。

どんなことがあったかというと、まずは川の水が血にかわってしまった。エジプト中から水がなくなってしまった。それから蛙が山ほど現われた。いたるところ蛙だらけ。それからぶよが出た。さされたらカイカイのあのぶよだよ。それから、病気、はれ物が流行し、おまけに雹まで降ってきた。それからいなご。ついに暗闇。朝がこなくて夜ばっか。これでいくつになったっけ。もうエジプトはメロメロで傷だらけ。それでも、エジプトの王さまはイスラエルの人々が国を出るのを許さなかった。

王さまがあんまりにも頑固なので、神さまはエジプトにもう一つわざわいを与えることにした。そうこれが最後、エジプトにとっては最後のわざわいになった。それはどんなことだったかというと、王さまの子どもを殺し、エジプト中の子どもを殺すことだった。

すぎこし
イスラエルの人たちは最後のわざわいが起こる約束の日の夜、ここがイスラエル人の家である印として、玄関の鴨居に羊の血を塗った。神さまがそうしなさいと言ったからね。血が塗ってある家はイスラエル人の家。だから血を塗った家にはわざわいはやって来ない。わざわいは、あなたがたの家を通り越していくと神さまは約束した。これが「すぎこし」ということだよ。

約束通り、神さまはエジプト人をこらしめた。赤ちゃんが殺されていくんだよ。夜の闇に叫び声がこだます、恐い夜になった。外では叫び声がとびかうとんでもない夜になってしまったけれど、イスラエル人にとっては、ちょっと難しい言葉で言うなら、つらい外国での生活から自由になれる「解放の日」だった。この日は「エジプトから出る記念の日」。だから、神さまが用意しなさいと言った食べもの、それはにが菜と酵母の入っていないパンと子羊の肉だったけれど、イスラエルの人々は、すぎこしの祝いの食卓で祈りをしながら息をひそめていたのだろうね。

ミサは救いの喜び
血を塗った家はおそわない、これが「主の過越」(しゅのすぎこし)といって、イスラエルの人々にとっては「神さまの救いの記念」なんだ。

ところでミサでは感謝の典礼のところで「主イエスキリストはわたされる夜、パンを取り、あなたに感謝をささげて、祝福し、割って弟子に与えておおせになりました」というところがあるのを知っているよね。ここは、ほら、有名な「最後の晩餐」を記念したところだよね。最後の晩餐というのは、実は「主のすぎこしの食卓」だった。だからミサのもともとは出エジプト、イスラエルの人々の救いの記念にまでさかのぼるものなんだ。

なんだかちょっと難しい話になりそうだね。けれど、そんなに難しく考える必要はないよ。要するに、ミサというのは、簡単に言うと「喜び」のわかち合いってことなんだ。神さまを信じて、とらわれや罪から解放されて、自由になることを喜ぶということなんだ。

エジプト脱出
さて、イスラエルの人々はモーセにしたがってエジプトを出た。もう奴隷ではなくなった。その数は60万というからちょっと想像しがたいけれど、いったいどんな風にしてエジプトを出たんだろうね。エジプトを出たイスラエルの人々は自分たちの国、カナンをめざした。

といってもエジプトの兵隊がおいかけてくるし、海もあるし、砂漠をうろうろしなければならなかったし、だんだん食べ物はなくなってくるしで、自由の身になったとはいえ、そんなに簡単なことではなかった。

さて、次の話は
さて、ここでちょっと休憩。砂漠でどんなことがあったか、そしてイスラエルの人々はどんな風にしてカナンに向かったか、次回を楽しみに。




copyright/Chie Nakatani 中谷千絵
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