「おばあさんになるなんて」

本屋さんで神沢利子さんの「おばあさんになるなんて」という本を見つけて何
やら妙に本のタイトルが気になって、あまり深く考えずに本を買いました。
1999年8月5日初版なので、できたてほやほやの本です。神沢さんが書かれたも
のではなく、編集の方が神沢さんからの聞き書きをまとめた本であるというこ
とも読みはじめてわかりました。私は「くまの子ウーフ」と「ウーフはおしっ
こでできてるか」という本がとりわけ好きなのですが、その他の本も折にふれ
て読んできました。つい最近は、図書館の新刊コーナーに「あの木、あの花、
ゆめの種子」という本があってそれを読んだところでした。神沢さんについて
は、本の末尾についている略歴を知っている程度でそれ以上のことはあまり詳
しくは知りませんでした。

今年75歳とのこと。著者略歴などにはたぶん生まれた年なども記載されてい
たでしょうが、神沢さんの年齢を考えるなどということもなかったので、そん
なお年の方なのかとはじめて知ったようなものです。「おばあさんになるなん
て」という本のタイトルが何かとってもショッキングでした。誰しもいつのま
にか年をとっておばあさんになっていくのは当り前のことのはずなのに、本の
題名を見て何かはっとしたという感じなのです。

私、つい最近まで、「おばあさん」というはずっと「おばあさん」だったのだ
と思っていたのです。自分には「おばあさんになる」という感覚がなくて、自
分にとって「おばあさん」という人は、私が生まれた時からその人は「おばあ
さん」で存在してきたのだと思っていたのです。でも、よ〜く考えてみれば、
いえ、それほど深く考えてみなくても、「私」が「おばあさん」に「なる」の
ですよね。そのことに気がついて、「あっ、そうなんだ!」と思ったというの
は、あまりにもおとぼけに近い感覚なのかもしれませんが、ある日ふと、本当
にそう思ったのです。

若い時は「老いる」ということが本当にわからないのでしょうね。年をとれば
こうなるんだと言われ、また自分でもそうなのだと思っていても、その実感と
いうのはやっぱりわからないものなのだと思います。そしてある種の実感とい
うのはじょじょにわかるのではなくて、突然わかる、そんな感じがするのです。

神沢さんの「おばあさんになるなんて」という本、何やらとってもしみじみ読
んでしまいました。どんな暮らしのなかからどんな作品がどんな風に生まれて
きたのか、とっても共感を感じる本だったなぁと思います。今年75歳の神沢
さんが今日も書き続けておられること、そのことはとっても素晴らしいし、私
にとってもとても励みになりました。



「ゆず」といえば、ギター片手に、いま、あちこちの学園祭で忙しいかな。

いえ、ほんものの「柚」の話
この間の日曜日、高雄まで自転車で。
登りはきついけれど、降りるのは10分もかからないところがすごい。
紅葉にはまだちょっと早いかな。
11月の終わり頃が見頃かもしれません。

高雄の茶店で竹で編んだカゴを売っていたので、買いました。ごく普通のみか
んでも入れたらいいような手つきのカゴ。400円。
それを買ってから、バス乗り場の前の茶店で1個100円で柚が売っていたの
で、2つ買いました。そのカゴにいれるといい感じ。

これはいいなと自分でも満足してしまった。それで、もうひとつカゴを買って、
先日の下の家のおばさまからギンナンをたくさんもらったので、その人へのお
みやげにしようかと思っていたら、なんと、茶店の人たちが「あらら、それい
いね」とえらく感動してくれたのです。ただの竹のカゴに柚入れただけなんだ
けれど。で、もう1つ作るつもりでさらに柚を3つ買ったら、そのカゴと柚の
組み合わせが気に入ったおばさんが柚をこっそり1つおまけしてくれました。

その店で缶コーヒーなど飲んでいたら、茶店の人たちがしきりに、「いいね、
おしゃれなおみやげやねぇ」とうらやましそうに見ていた。その茶店ってみや
げ物屋さんなんですけれど。

さっそくその日は柚湯。まるごとぽんとひとつお風呂のなかにいれたのですが、
とてもいい香りでした。

言(ことば)


  最近コンビニに入ると、「いらっしゃいませ、こんにちわ〜」と声がかかる。
半年か1年前くらいまえからそうなったように思う。最初聞いたとき何か妙な
感じがしないでもなかった。コンビニに入るとすかさずそういう挨拶言葉がか
かることにはもう慣れた、慣れたのは確かなのですが、何かやはり妙な感じが
するのは拭えない。どこでも店に入って、「いらっしゃいませ」と言われるこ
と、そのものは別におかしくはないし、客にそのような言葉をかけることはご
く普通のこと。でも、言葉というのはコミュニケーションの道具であるという
点で使われ方が何やらおかしいとも思う。

  入口のドアがあく、するといっせいに「いらっしゃいませ、こんにちわ〜」。
レジの前にたつとすかさず「いらっしゃいませ、こんにちはわ〜」。ところが
彼らの目線はあらぬ方向を向いている時がある。下向いたまま「いらしゃいま
せ、こんにちわ〜」ドアに背を向けたままでも「いらっしゃいませ、こんにち
わ〜」

  こうなると、犬が間違って迷いこんできても「いらっしゃいませ、こんにち
わ〜」と言うのでないかと!ここからはブラックユーモアになってしまいそう
だ。たとえば交差点の角にあるコンビニにバイクがとびこんできても、「いらっ
しゃいませ、こんにちわ〜」と声がかかりそうだ。

  こんなこともあった。ある日、いつもいく美容院が休みだったので、ま、ど
こでもいいやと思ってはじめての美容院に入ったところ、時間がたつにつれて
何か妙な感じを味わってました。技術的な面でどうのという問題ではなく、
「人」との対応というか接客方法について何やら妙な感触を味わっていた。

その某美容院、客の動きに沿って美容師さんたちの元気な「声」がとびかうの
は活気があって良いのですが、どこかでタイマーがなる、すると、どこにいる
美容師も「お疲れさま〜」。美容師同士が連絡する、「はいっ!お願いしますっ!」。

  ひとりの美容師さんとちょっと言葉をかわす分には普通。雑誌など見ていて、
この髪型すてきだねと言ってみると、あ〜、そうですね。フランスの人って無
造作にしていてセンスがあっていいねとか、ごく普通の話になる。ところが、
店全体になると妙な、、、、感じが生まれる。

  言葉は人が人に語りかけるものだからこそ、意味を持つ。
言葉が風のように頭の上を通りぬけていく。妙な感じはそれなのかと思いました。

「人」にむかって声をかけているのではなくて、ドアがあいたら「いらっしゃ
いませ」。**な音がしたら、「お疲れさま〜」。

接客もマニュアルに沿ってとなるとちょっと寒い感じがする。
使われる言葉は丁寧であっても何か妙な感じになってしまう。

  「人」に向かって話をしない、人に話しているのに、人に向かってない。
「透明な存在」という言葉をなまなましく思い出してしまう。目の前にいる人
の言葉が自分を通りぬけていくという感覚。あの神戸の中学生にしても、やせ
薬の女子中学生にしても、この奇妙な感覚にいたたまれなくなったのだろうか。

こうなると、自己表現の仕方が強烈になってしまうだろう、確かに。。。

「言葉」というのはまずは神と人を結びつけるもの。はじめに言(ことば)があっ
た。ことばは神と共にあった。やっぱりこれが「はじまり」かもしれないと思
う。ことばは神と共にあった、だから本当は言葉を使うということに神の存在
を感じるほど、言葉に敏感であってもいいかなと思うのです。



若の花と貴の花

  以下の文章は若の花が横綱に昇進した頃に書きはじめたもの。でも、なぜか
途中で書ききれなくなって、そのままにしていました。ところが、ここ数日来、
「貴の花」の行動や発言がとりざたされ、いったい何が起こっているのだろう
と思わざるを得ないような状況になっているようです。

  まず以下のものは5月頃に私が書いていたものです。文章は途中で切れてい
ますが、この時、最後までどう書きたかったのか、自分でもちょっと気になり
ますが。

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   1998年5月27日第66代横綱若の花が誕生した。横綱昇進の口上は「堅忍不抜
(けんにんふばつ」の精神、これは「我慢強く耐え忍んで心を動かさないこと」
の意味だそうだ。相撲にそれほど興味を持たない者も、若貴兄弟力士は別とい
う人も多いかもしれないですね。実際、私は相撲のファンというわけではあり
ません。

  さて、この日の夜、ニュースステーションに若の花が出演していた。ニュー
スステーションのインタビューに限らず、いままでにも若の花が登場すると必
ず出て来る質問に、弟である貴の花との関係について若の花自身がどう思って
いるのか、という質問があるようだ。常に弟が先をゆく、そのことについて兄
である若の花はどう思っているのだろうかという点について、なぜみな興味を
持ちたがるのだろうか。

  そのニュースステーションのインタビューでもやはり関心は兄弟の関係。
「ふたりはライバルか」と聞かれ、若の花はきわめて自然に「弟です」と答え
ていた。「兄弟でもあり、ライバルでもあり、これでやっと兄としての面目が
果たせた」というような言葉を若の花が言えば、周辺はやっぱりそうかとほっ
と安心するのかもしれないとも思う。

  兄は常に弟よりも体が大きく、強く、先を歩くもの。このようなイメージか
らくるさまざまな「常識」を若の花はさわやかな笑顔でするりとかわしてしま
う。相撲に限らず、またスポーツの世界に限ることでもないが、力と天性の素
養のようなものが支配する世界では、兄である、弟であるというただそれだけ
の理由で兄が必ずしも弟の先を歩めるわけではない。歩めるわけではないとわ
かっていても、やはり人は「おにいちゃん」は先をゆき、弟はあとを追いかけ
るものだというある種の常識をあてはめてみたくなるものかもしれない。

  兄弟、あるいは姉妹とはいえ、双子ならわずか数時間の差、兄弟であっても、
数年の違いしかないし、それぞれ持って生まれた何かがあるわけだから、先も
あともないはずだろうけれど。そして、現実はあって欲しい順番通りに物事が
運ぶことの方が本当は少ないのかもしれない。
  実際のところはそうだとわかっていても、人はなぜ兄や弟という立場にこだ
わるのだろうか。

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  5月頃にここまで書いていました。そしてこの頃、私は、キャサリン パター
ソン Katharine Paterson の「海は知っていた」という作品を読んでいました。
この本の原題は 「Jacob have I Loved 」です。文字通り日本語にすれば「ヤ
コブは私が愛したもの」ということですが、「ヤコブ」はもちろん旧約聖書に
登場するヤコブ。イサクとリベカの双子の子どものひとり(弟)で、兄がエソウ、
弟がヤコブです。双子の父イサクはエソウをかわいがっていましたが、兄エソ
ウは弟ヤコブの策略で長子権譲ってしまい、さらにずる賢い弟に出し抜かれ父
からの祝福も受けられなくなってしまいます。ヤコブはのちに神から祝福を受
けイスラエルという名を与えられます。イスラエルには12人の子があり、ヤ
コブイスラエルはイスラエル12部族の先祖であるわけです。

 「海は知っていた」という本の原題が「Jacob have I Loved」であると知り、
これは当然ながら旧約聖書の創生記25章19節「エソウとヤコブの誕生」か
ら36章にあるヤコブの物語に取材した作品だろうと思ったので、この本にと
ても興味を持ちました。強いて言うなら、原題が「Jacob have I Loved」であ
るならば、それを「海は知っていた」と訳してしまうと、この本のテーマの本
当に大事な部分は、日本人には伝わりにくいかもしれないとも思いました。キャ
サリン パターソンの作品については別に書こうと思います。ただ、5月頃、
私が「海は知っていた」を読んでいた頃に「若の花」の横綱昇進が決まり、そ
のインタビューを聞くたびに「兄弟の関係についての質問」がくりかえされ、
私はそれを聞くたびに「エソウとヤコブ」の話を思いうかべていたのです。

  なぜこんな話があるのだろうかと思うような話は聖書のなかにやまほどあり
ます。エソウとヤコブの兄弟の話もそのひとつかもしれません。あまりにも狡
猾な弟のやりかたは決して褒められたものではないわけですが、それぞれの人
はその人のやり方で自分にとって一番ふさわしい道を歩んでいくのだろうと思
います。とはいえ、兄弟のいがみあいや肉親間での争いなどは序の口、それこ
そ人間社会で起こるありとあらゆる出来事が聖書には刻明に語られているわけ
です。たぶん嘘偽りなく、すべてが記されていることでしょう。一生かかって
も「私」個人は絶対に遭遇しない出来事であっても、どこかで誰かある「人」
はその出来事に遭遇するかもしれません。聖書を通じて私たちはさまざまな出
来事を追体験することが出来ます。それはとても貴重なことだと思います。神
はそのような出来事を通じて、人に、いえ、私に何を知らせよう、気づかせよ
うとされるのか。

  家族、そして兄弟姉妹はもっとも近い関係であるがために、もっとも愛に満
ちた関係でもあるけれど、愛憎という言葉もあるように、もっとも近い関係で
あるがためにもっとも理解しにくい関係に陥ることもあるでしょう。それは悲
しいことでもあるけれど、「海は知っていた」を読んだあと、苦しい回り道を
しなければ見つけ出せない愛もあるのかもしれないと思いました。

  さてこの文章は、5月頃に私が「兄弟横綱」が誕生した時のインタビューを
聞きながら、「兄弟である」という関係がなんとなく気になってメモしておい
た文章に続けたものです。9月半ばの時点では兄若の花は貴の花の一方的な絶
縁発言に、昇進時の言葉通り「堅忍不抜(けんにんふばつ」。若の花がこの精
神を貫く限り、彼ら兄弟は不意の争い事を起こすことはないと思いますが、ま
ずは良い兄弟の関係を取り戻して欲しいと思います。そして、「エソウとヤコ
ブ」の話には、何かもっと読み取らねばいけないことがあるはずだと私は今、
何かもどかしい思いで続きを書いています。

  5月以降、私は、キャサリン パターソンの作品にはとても興味を持ち、
「海は知っていた」のあと、「テラビシアにかける橋」「ワーキングガール」
など、数冊を読みました。本の話についてはまた別の機会とテーマで書いてみ
ることにします。

桜と紅葉

  花見というほどでもないですが、ちょうど桜の季節に2度ほど御室あたりと
高雄あたりを自転車で走ってきました。
  さて桜でも見に行こうか、夕方にふと思いたち一条通りを走りました。その
日曜日は、ちょうど98年の復活祭の主日でした。京福北野線は桜満開の時期
は花のトンネルになるほど沿線の桜がきれいです。そういうイメージがあった
ので北野線に沿って自転車を走らせると、確かに、ごく普通の家の庭先に桜が
よく咲いてます。あちこちの家の桜に目をやりながら仁和寺方面へ。駐車場の
周辺に桜並木をながめつつ広沢の池に向かう。家を出たのはすでに5時を過ぎ
ていましたから、走るほどにだんだん暗くなってきます。このあたりは夜に花
をライトアップするわけでもありませんから、何やら白いものが見えるなと思
うとそれが桜だったりするわけです。夕闇の広沢の池、遠くにぼうっと山の陰
があり妙な京都らしさを感じてしまって、これはなかなか素晴らしい景色だと
思う
  翌週の日曜日は仁和寺の八重桜満開とかで仁和寺周辺はいつもより人出が多
い。寺の前を通りすぎ、高尾方面に向かう。それほど急でもないけれど、やは
り自転車をこぎ続けるには少々登り坂はきついかもしれないだらだらの坂道が
続き、約1時間ほど自転車を走らせると嵐山高尾パークウェイの入口までは自
転車で行けます。
  行ってから気が付いたというのは遅いですが、京都高雄といえば紅葉の名所。
ところどころに桜は咲いてはいるけれど、やはり山の雰囲気は「紅葉」の頃な
ら素晴らしいだろうと思う風景がひろがっています。
  桜の花びらは雪のようにまい散って、わずか1、2週間の間に、もう目にま
ぶしい若葉の季節が始まっています。
  春はいつしか初夏へ。




体験

A Happy New Year! 1998年、年の始めのご挨拶を申しあげます。

1997年11月15日、大阪国際児童文学館での '96 国際アンデルセ ン賞授賞作家ウーリー オルレブ Uri Orlev さんの講演会に行きました。

オルレブさんはワルシャワで育ったユダヤ人。少年時代は戦争のただ中に あり、壁に囲まれたゲットーで、そして収容所での暮らしを体験 。しかし、 オルレブさんの作品にはユーモアと暖かみがあふれ、そして何よりも未来への 大きな希望を感じます。

講演会で最も印象的だったことは、自分が生まれた場所や自分が生きる時代を 自分では選べないと言われていたことです。少年時代に「戦争」というものを 体験した。その体験を否定するのではなく、その体験を持ったのが、まさに今 ここに生きている自分であるということだと言われていたことです。

あの体験がなければとか、あんな時代に生まれなければ、ともすればそんな風 になることもあります。けれど、オルレブさんはとても自然に自分が生きた場 所、自分が暮らした時代を恵みとして受け入れ、そして、自分の鮮明な記憶 をその時の目線で作品として描くことで、思い込みをいともたやすく打ち破っ てしまうのです。

Don't think that the Lord is too weak to save you or too deaf to hear your call for help!(Isaiah 59:1)主の手が短くて、救えないのではない。主 の耳が鈍くて聞こえないのでもない。(イザヤ書59:1)

ほんの少し注意深く自分が生きている「時」をみつめて見よう、1998年、この 年がどんなことを告げるのか、耳をすませてみよう。jeanne





真珠

  某所川沿いの道を自転車で走りながら、川向こうのバス停に目をむけるとも
う長く会っていない知人の姿が目に入った。友達というには私よりはるかに年
長の方。ああ、あの方と話をしたのはいつだっけと思い出しながらそのまま通
り過ぎようとしたのですが、交差点の手前で、やっぱりご挨拶くらいはしてお
こうと思い、小さな橋を渡り川沿いの反対側の道をバス停まで戻った。

  その方の目の前で自転車を降りて、いきなり「こんにちは!」と声をかける
と、その方は突然目の前に人があらわれてちょっとびっくりされたようでした。
でも、私だと気がつくと笑顔になり「あらぁ、なつかしい。お元気?」と返事
をかえしてくださった。そうそう、もう5年以上は会っていなかったかもしれ
ない、もうそんなに月日がたってしまったことを声をかけてはじめて思い出し
た。その方と私は同じ教会に所属のカトリック信者同士の知り合いですから、
それほど親しい方でもないけれど、知らない人ではないわけだから、もう数年
も会ってないなどと言う方が本当はおかしいかもしれないですね。
挨拶をかわし、少し言葉をかわしているうちにその方が乗られるバスが来た ので、あっさり別れた。でも挨拶をかわし、ほんの少しの近況を伝えあったそ の5分ほどの時間に、私は妙に満足した。 「出会い」というのはたぶん会う機会が多いということとはちょっと違うと 思う。一度きりしか会うことのなかった人でもなぜか妙に記憶に残る人もいれ ば、毎日のように出会う人でもすれ違いに挨拶だけということもある。そして 実際に顔をつきあわせて出会う人もいれば、通信上のメッセージで知り合うだ けの人もいれば、年に数回電話で話をするだけというつながりの人もいる。日々 誰かと出会う、でも、あえて「出会い」という言葉を使うなら、それは人とだ けの出会いをさすわけでもなく、本のようなものや鮮烈に記憶に残る景色のよ うなものとの出会いもある。 「出会い」って何だろうと、あえて言葉で説明しようとするなら、出会いが もたらすものは、心に刻まれる何かかもしれないなぁとも思う。そのことやそ の人に出会ったことで私の心に何かが刻まれる。刻まれた何かがはっきりわか るように思うこともあるけれど、たいていの場合は何が刻まれてるかなんてこ とはわからない。けれど、何か気になる、けれど何が気になるのかわからない ということの方が多いと思う。 「出会い」とは必ずしも俗に言う「いいこと」だけをさして言えるわけでも ない。自分では思いもよらなかったとんでもない経験もまた出会いのひとつ。 なんで私がこんな目にあわなくてはいけないのよ!と思う時もある、その渦の なかにいるときは混乱していてわからない。けれど、そのことを忘れさってし まわないで、いつかその時のことを振り返ることができるなら、それはやっぱ り何かと出会ったことになるのかもしれないと思う。その出来事から得た何か は私のなかに刻まれているのだろうな。 悲しい出来事であれ、苦しい出来事であれ、また楽しい出来事もやはりすべ ては出会いがある。けれど、苦痛だと思ったことはやっぱり残る。それが心の なかに刻まれる時、やっぱり刻まれ方がちょっと深いのかな。もしかしたらちょっ と深い傷をおったことになる場合もあるのかもしれない。それはどうだかわか らない。けれど、そんな風にしてとうてい忘れることはできないと思って刻ま れた傷でも年月が経てば「時間」という魔法の薬が癒してくれて、その時に見 えなかった別の何かに姿をかえて別の出会いをもたらしてくれることもあるの だろうな。 私は6月生まれなのですが、6月の誕生石は「真珠」とか。誕生石にもそれ なりの由来はあるのでしょうが、宝石のたぐいには全く興味がないので、他の 月の誕生石のことは良く知らないし、なぜ6月が真珠なのかもその理由は知ら ない。 ただ1月から12月、たぶん、6月を除く11ヶ月の誕生石はダイヤ とかサファイアといった本当に「石」(鉱物)なのではないだろうか。 ところが真珠は石であって石でない。真珠貝を育てて真珠を作る。つまり生 物が自分の体のなかで「石」を育てているということになる。「大地」という 小説を書いたパール バックはあるエッセーのなかで、自分の名前 Pearl は好 きな名前であり、Pearl はもちろん真珠の意味ですが、真珠が好きだと言って いる。真珠というのは真珠貝といわれるあこや貝の貝がまだ小さいうちに、貝 の体のなかに真珠の核になるものを埋め込む。つまり貝のどこか器官に傷をつ け、貝にとってはよけいなものを入れて、貝自身にその手当をさせているよう なものと言ったらちょっときついですか。貝はその傷を癒すために傷つけられ た部分に分泌物を出し、異物をくるみながら大きくなる。年月をかけた傷の手 当の結果があの素晴らしい輝きを持った真珠になるとしたら残酷といえば残酷 な話。パールバックが真珠はそんな風にして作られるから好きなのだと言って いるのと同様、私も同じ理由で真珠は好きだし、何よりも真珠がどうやって作 られるかということはちょっと気になっている。 バス停でのわずかの時間の立ち話でふと「心のなかに人には言えない傷はあ るものね」などという言葉を互いに言っていた。なぜ互いにそんなことを言っ たのか、通りすぎていく風のようにそんな言葉を互いがもらしていたのが気に なった。けれど、そのわずか5分ばかりの出来事が、今日、私にはとてもいい 時間だった。(97/06/26/jeanne)






小さな復活祭(1996年の復活祭の思い出)

1996年の復活祭、私にとってはまた忘れられない日になりそうです。

数年前、フラン スのルルドで迎えた復活祭、聖木曜日からの1日1日が感激続き、そして、徹 夜祭のミサの参加者は1万人以上でしたか。主日のお祝いの日はルルドの大聖 堂の下の広場にさまざまな国の人々が集い、とても素晴らしい復活祭を経験し ました。 そして、1996年、今年の小さな復活祭の集いもきっと忘れることがないだ ろうと思う。 今年は、2つの家族6人で、「ごらんよ空の鳥」を歌って、静かに復活祭をお 祝いしました。今年、教会での復活祭のごミサには参加しませんでしたが、こ の小さな集い、そこにはとても大きなお恵みがあったかもしれません。 聖土曜日、やっと桜が咲きはじめ、ほんの少し春めいて暖かな日でした。 自転車に乗って出かけた時、ふと思いついて、Sさんの家に寄ることにしまし た。Sさんの家はご主人が長いこと腎臓透析をされ、最近では他の病気も加わ って、透析に出かけられるのもひと仕事。奥さまも持病があるし、ほとんど寝 たきりになったご主人の透析の介護までは出来ないから、送り迎えにはヘルパ ーさんを頼んでおられます。そんなこんなでここ数年は日曜日のごミサにも出 られないし、クリスマスや、復活祭のミサに出ることもありません。そんな事 情はずっと知っていたのですが、クリスマスや復活祭の前後に電話をするか、 家によるか、とにかくそういう日の前後にはいつも顔だけは出してはいたので すが。 土曜日に、ドアを開けて出て来られたSさん、私の顔を見るなり、本当に喜ん でくださった。私は玄関先ですぐに帰るつもりでいたけれど、結局、家にあが りこんでしまい、コーヒーをご馳走になり、いつものようにおしゃべりが始ま ってしまった。あれこれ、おしゃべりしているさなか、これは本当に突然の思 いつきだった。「ね、明日の日曜日、うちの家族みんなでここに来ていいかし ら?」そんな風にたずねました。一瞬驚いた様子のSさん。「だって復活祭で しょ」。「もちろん、だから、復活祭をここでするのよ」・・・。 特別に何を約束することもなく、朝、10時30分から11時までの間に来る からと、時間だけ約束しました。 日曜日の朝、我が家の家族4人は、「イースターエッグ」と「スィートピーと ガーベラ」の花束と典礼聖歌のMidを数曲いれたテープを持ってSさんの家に 行きました。 Sさんは聖書と祈りの本と、ろうそくとイエスさまを用意してくださいまし た。何の約束も何をどうするということも何ひとつ決めていなかった。さて、 どうしようかという具合だったのですが、小さな祈りの本をたよりに、まずは 「ごらんよ空の鳥」を歌って、小さな祈りの会をはじめました。 Sさんが聖書を朗読してくださり、その後、「復活の続唱」を歌い、ひとりひ とつの共同祈願。そして、6人が声をあわせて「主の祈り」。 「愛の賛歌」を歌って小さな祈りの会は終わりました。 昨夜、どの歌をテープに入れようかといろいろ迷ってはいたのですが、「あめ のきさき」はBGMには最高によかったし、復活祭の集まりに「愛の賛歌」はち ょっと違うかなとは思いながらも、そこにいた6人の心の中には、とっても満 たされたものがあったかもしれません。 どんな風に復活祭を過ごそうか・・・どうしようかなとちょっと思い続けてい たのですが、やっぱり神様はどうしたらいいか、ちゃんと教えてくださるよう です。
この小さな集まり、私はきっと忘れないだろうなと思う。
自動シャッターで写した写真がちゃんと写っているといいな・・。
(かげの声・・・集会祭儀の式次第をもう少し頭に入れておいたらよかったな ぁ。その場にふさわしいバリエーションで出来るように、それが出来たら本当 にいいなと思った)jeanne


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