E.L.カニグズバーグ(E.L.Konigsburg) の「ティパーティーの謎」を読んだ。この
本の原題はThe View from Saturday 、しいてそのまま日本語にするなら「土
曜日から見えること」、変かな、そのまま日本語にしようすると、くどいかも
しれないけれど「土曜日のできことから見えてきたこと」という感じになるか
な。
view という言葉はなかなか深い意味を持っているようだ。同じ「景色が見え
る」であっても、view と sight は違う。sight は一定の場所からの眺めのこ
とで、視覚によって見えたそのままの光景を言う言葉。ちなみに、scene は、
特定の場所から見える眺めのことで、たとえば映画のワンシーンのように使わ
れる。view は一定の場所から、見ようとする方向があり、範囲があり、角度
があり、何か目的を持ってものを見るということになる。したがって、view
という言葉には単に見えるという意味だけではなく、ものの見方や考え方、見
解といったものを含んでいることになる。
書き出しの1行とタイトルを考えることは本当に難しい。書き出しの1行がほ
んとに最初に1行になることもあるけれど、ほとんど最後まで書いてしまって
から、書きはじめた部分をばっさり削除して、新たに書き出しの1行に苦労す
ることもある。それと同じくらいタイトルに苦労することもあるけれど。少な
くとも本の読者は本のタイトルにひかれて、あるいは書き出しの1行にひかれ
て読み始める。「なめとこ山の熊はたいしたもんだ」(「なめとこ山の熊のこ
とならおもしろい」というはじまりになっている本もある。)これは宮沢賢治
の「なめとこ山の熊」のはじまりですが、最初の1行から「あれはたいしたも
んだ」と言われると、ええっ、どういう風に?と思わず身を乗り出して聞こう
としてしまう、そういう意味では「なめとこ山の熊」の書き出しはすばらしい
書き出しの部類だと私は思う。
さて、いまここで書き出しの1行についての話を書くつもりではなかったので
すが、「ティパーティーの謎」は書き出しも素晴らしいという部類にはいるし、
タイトルもなかなか含蓄が深い。日本語訳の「ティパーティーの謎」は、「謎」
という言葉にとてもひかれるから読み始める前のわくわく感をかきたててくれ
る。そして本を読んだあとで、The View from Saturday がこの本の原題なの
だと知って、カニグズバーグのすごさを再認識してしまった。逆に言うなら、
The View from Saturdayを「ティパーティーの謎」と翻訳したことは、かなり
すごいかもしれないけれど。
カニグズバーグの作品は、絵画的に言うならディテールがしっかりデッサンされ
て、なおかつ全体の構成のバランスのよさを感じさせる。書くための土台がと
てもしっかり計算されているのであるが、読者にはその計算はまるで感じさせ
ないので、非常に自然な流れにのって物語のなかにはいりこみ、どんどん読ん
でいける。ところが、読み終ったあとで何かどんと大きな問題をぶつけられる
ような感じがあるのだ。それは物語の主人公がぶつかって、乗り越えようとし
た問題とほとんど同じ問題を自分も感じていた、いや、感じているのだという
ことに気が付かされるのかもしれない。ところが、解決の手立てはいま読んで
きた物語のなかにある。解決の手立てというよりは、その大きな問題をどのよ
うに考えていこうかというヒントであると思うのだが。ここがカニグズバーグの
作品のすごいところだと思うのだ。
「ティパーティーの謎」の本のなかには、実に多くの現代の子どもたち、いや
大人たち(親たち)が直面している問題があざやかに描き出されている。本当の
ところ、子どもたちはさまざまな社会の問題と無関係に暮らすことなどできな
いわけで、両親が離婚すれば、子どもの生活もかわらざるを得ない。祖父母が
結婚すれば、その孫の世代にあたる子どもたちにもまた新たな人間関係が生ま
れる。実際のところ現実の子どもたちが戦わねばならない問題は本当にたくさ
んある。知らないうちに複雑な家庭環境を背負ってしまう子どもたちに悩みが
ないはずがない。子どもたちも悩み、親たちも悩み、そして祖父母の世代もま
たさまざまな問題に直面しつつ日々暮らしているのが現実の姿なのだ。カニズ
バーグはそのような現実にしっかり目を据えて、日々の暮らしのなかでの出会
いを通して、View ものの見方を育てる作品を書く。読み終ったあとで現実と
向き合うための力を得ることができるように感じるとしたら、カニスグバーグの
目線、そして文学とはすごいものだと思ってしまう。
物語は博学競技大会の場面からはじまる。博学競技大会というのは、日本でも
テレビの番組で全国高校生クイズ大会のような番組が行われているが、そのよ
うな感じのものらしい。ただ単なるクイズ大会ではなく、学習の成果を競うちゃ
んとした教育を目的とした大会らしい。地域の大会から州の大会へとかなり高
度な問題が出題されるようで勝ち進むのはかなり困難な大会のようだ。その大
会にエピファニー中学校から、ノア、ナディア、イーサン、ジュリアンの4人
のグループが参加することになった。この4人は自分たちの集まりにソウルズ
という名前をつけていたのであるが、「ティパーティーの謎」はこの4人がど
うやって出会い、友達になっていったかという過程が謎解きになっている。
ナディアの両親は離婚をした。ナディアのおじいちゃんは69歳で、もう現役
を退職し、フロリダのセンチュリー・ビレッジの高層マンションに暮らしてい
るが、昨年マーガレットと結婚した。ナディアのおじいちゃんとおばあちゃん
(マーガレット)はフロリダで亀の保護運動をしているのだ。
ナディアの両親は離婚したために、ナディアは暮らしの時間を2つに分けられ
ることになった。普段は母親とニューヨークで暮らすが、春、夏の休みは父と
過ごす。そんな暮らしがはじまったはじめての夏、ナディアは父とフロリダで
過ごすことになる。両親が離婚し、祖父が結婚する、これだけでも家族関係は
複雑ですよね。
ノアのおじいちゃんたちもまたフロリダに住んでいて、ノアはちょっとした事
件のために、ナディアのおじいちゃんとマーガレットの結婚式で介添え人をす
ることになってしまう。イーサンはマーガレットの孫だから、ナディアとは義
理の孫同士ということになる。ジュリアンとイーサンの出会いはバスのなか。
さまざまな背景を背負った4人がシリントン荘でのお茶会でようやくひとつの
道をみつけだすのだ。さらにエピファニー校での新しい担任のオリンスキー先
生は事故で足が不自由になり、車椅子に乗った先生だ。マーガレットの後輩に
あたるという関係。しかしながら、たとえ4人といえども、実に多彩な暮らし
ぶりだ。どんなきっかけがあって人が人と知り合うかはやはり神のみぞ知るこ
とかもしれないけれど、知り合ってさらに互いに心を通わせることができるま
でには、さまざまなきっかけと努力が必要なのだ。
「ティパーティの謎」のなかでは、不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」
と「マザーグースの歌」がとても大きな役割をはたしている。「不思議の国の
アリス」という作品は、子どもの文学だけの世界ではなく広く文学作品として
も古典の領域に入る作品になっていて、この本のなかでは「お茶会」は「午後
4時」というキーワードはアリスのなかから取られている。日本では少し馴染
みはうすいかもしれないけれど、ハンプティ・ダンプティは周知の話であるし、
別の場所では「ジャック・スプラットは脂みがきらい」というマザーグースの
歌がごく自然に使われている。この歌を出せば、その夫婦がどんな夫婦なのか
がなんとなく想像がつくというわけであるが。
この本のなかで、現役を退職した人たちの生活ぶりが描かれているのが興味深
かった。フロリダにあるセンチュリー・ビレッジの暮らし。現役を退職してい
るけれど、社会生活を退職したわけじゃないという視点はとても大事なものだ
と思う。そして、また現役を退職した人たちがいわゆる孫の世代の生き方に本
当はとても大きな影響を与えているのだということはもっと考えなければいけ
ない問題だと思う。
カニズバーグの作品
クローディアの秘密 岩波少年文庫
魔女ジェニファとわたし 岩波書店
ぼくと(ジョージ) 松永ふみ子訳・岩波書店
エリコの丘から 岡本浜江訳 佑学社)
ロールパン・チームの作戦 松永ふみ子訳 岩波少年文庫
ほんとうはひとつの話 松永ふみ子訳 岩波書店
ドラゴンをさがせ 小島希里訳 岩波少年文庫
ジョコンダ夫人の肖像 松永ふみ子 岩波書店
なぞの娘キャロライン 小島希里訳 岩波少年文庫
800番への旅 岡本浜江訳 小野かおる画 佑学社
Tバック戦争 小島希里訳 岩波少年文庫
Harry Potter ハリー・ポッターファンのページ
HEDWIG BIDS YOU WELCOME
ハリー・ポッターはすでに第4巻が発売中
日本では邦訳第2巻『ハリー・ポッターと秘密の部屋』は9月に発売予定。
第1巻の日本語版を購入したのは、本が発売された直後でした。すぐに読み
はじめたのですが、その時はなぜか入りきれなくて先に読みすすむことができ
ませんでした。本屋さんには「ハリー・ポッターと賢者の石」が平積みにされ、
「売れている」!と。イギリスでは大評判であるのは本当だそうだ。けれど、
いま、日本では実際のところはどうなのでしょうね。ふとそんなことを思いつ
つ、また本を手に取って読みはじめたのですが、なぜか2度目でしっかりはまっ
てしまったようです。ハリー11歳の誕生日にキング・クロス駅9と4分の3
番線から汽車に乗り、ホグワーツ魔法学校へ行く、私もとうとうハリーと一緒
に汽車に乗ってしまったようです。
トールキンの「ホビットの冒険」を読んだときもこんな感じだったか。この
時は最初に「旅の仲間」のほうをよみはじめ、のりきれなかったのですが、
「ホビットの冒険」から入ったらやめられなくなったしまったという記憶が
あります。
こういうのは「通過読書」というのかもしれません。いきなりその本には入
りにくいけれど、その本を読む前にこの本を読んでいると、その世界にはいり
やすいというちょっとした順番のようなものです。
そういう意味では「ハリー・ポッター」には前読書などなくても、いきなり
入っていける世界ではあるのですが、なぜか私はちょっとの空白時間が必要だっ
たようです。
「ハリー・ポッター」では、「魔法」がこれだけ自然にマグル(普通の人間)
の世界と共存しちゃうのかというのはちょっとした驚きです。トールキンの
「ホビットの冒険」もル・グインの「ゲド戦記」も魔法の世界ではあるのです
が、ハリー・ポッターの世界とはかなり違うと思います。けれど、このような
世界を描きだす文化的な根にはかなり共通要素があるなと思うのですが。こう
いう本についてはそのストーリーなど紹介してしまうのは推理小説の犯人をあ
かしてしまうようで気がひけますので、興味があればぜひどうぞ。
久しぶりに立花隆の本を買った。次の2冊
東大講義 人間の現在1 脳を鍛える 新潮社
新世紀デジタル講義 新潮社
立花隆ってなんだかエネルギッシュですごい人だわって感じで、いままでにも
立花隆の本は数冊読んでいる。いつでしたか、もう3、4年前になるかな、
「インターネットはグローバルブレイン」という本が出た頃だったかな、ちょ
うどその頃よくテレビに出ていて、実際のところはどれくらいの頻度でテレビ
の番組に登場していたかはわからないけれど、妙に目についた頃があった。
NASA の訪問もして、宇宙服も体験してと、そういう番組を私もたまには見て
いたのですが、その頃の立花隆って実はあんまり好きになれなかった。という
か私は「インターネットはグローバルブレイン」という本が好きになれなかっ
たのかもしれないけれど。同じ頃に「ぼくはこんな本を読んできた」だったか
な、その本も読んで、立花隆の「知」についてのエネルギッシュさは、私はす
ごい好きだと思った。
それからしばらく立花隆の本からはなんとなく離れた。なんでかな?最近の新
聞の読書欄で「新世紀デジタル講義」の書評を読んだ。これは買おうと思った。
本屋さんに行ったら、「東大講義」の本もあって、見たら、こちらのほうが欲
しくなったので、ついつい2冊購入してきた。
「新世紀デジタル講義」の最初に記載されている URL にはつながらない。
http://www.shinchosha.co.jp/tachibana/seminar
講義をまとめたページを見たかったんだけれどね。
でも先端研探検団のページはありました。
数字は出ていないあ、カウント数は 1996年4月に開始されている
先端研探検団
このページから
教養学部にある,立花隆ゼミのホームページ
こちらへはもうアクセスできないようで、
講談社の立花隆のページ
このページのカウントは since 24.Apr.'96 以降。
探検96年1月第2回報告
第2回報告
##先端研探検団や立花隆関連のページはもうほとんど消滅しちゃったようだ。
(2003/07)
立花ゼミは1998年3月で活動を終えたそうです。
その一部の記録は次のところに残っています。
Cyber University
##先端研関連のページはもう消滅してますからつながりませんが、
ここに書いたことはそのまま残しておきますね。
ひとつの結末は「立花隆秘書日記」(佐々木千賀子)にすべてが書かれているよ
うだ。この本についてはいずれ。2003/07/11付記
「まぼろしのインターネット」 ジャック・アタリJacques Attali
幸田礼雅 訳 円山学芸図書
本屋さんの店頭でみかけて買おうかなと思ったけれど、なぜかやめた。それか
らしばらくして図書館の書棚で目に入ってしまったSF 小説。買うのは躊躇し
たけれど、借りることには迷いはなかった。けれど、読みはじめて、ああ、こ
れは SF なんだと思うのですが、いまいちなんか怪しい(笑)などと思いつつ、
それでもけっこうはまってしまった小説。こういう小説本を読んでいるとき、
次はどうなるの?と思うとしたら、それはやっぱり物語にはまってるという証
拠ですね。
主人公アダムズ、本名はラ・フォンテーヌ、アメリカ軍事秘密研究センター
HP5 の教授。彼のコンピュータに、2126年、22世紀からインターネットを通
じてバルシットと名乗る者から不思議なメッセージが届く。2126年スイフト・
タルトという彗星が地球を破壊しようとしている、それを回避するためにアダ
ムスに援助を求めた。「インターネット」という通信手段を通じて未来の人間
が過去の人間と交信をしてくるわけです。
SF というのは、サイエンス・フィクションとはいうものの、 SF が科学技術
の「正確な知識や技術」を基礎に書かれているわけではないものです。あくま
で小説世界のひとつのジャンルですから、ありそうな話であろうが、ありそう
にないことであろうが、荒唐無稽であろうが、小説としてのおもしろさが第一
だと思います。
「いま」の人間がへぇ〜、そんなことあるはずないと思っていても、未来の世
界では実現可能なことかもしれないことはたくさんあるわけだし、逆に実現し
ないこともまたたくさんある。実際のところ「未来のこと」ははかり知れない
ことのほうがたくさんあるわけですかから、そこに SF という小説が成り立つ
のだと思います。SF はサイエンスフィクションでもあるけれど、サイエンス
ファンタジーでもありますから、フィクションよりはファンタジー作品であれ
ばあるほど、実際の科学技術的成果を直接反映しているとかいないとはあまり
関係がないものだと思う。
「インターネット」というコンピュータを使った通信網に未来からのメッセー
ジがまぎれこんでくるということは、そうですねぇ、絶対ないとは言い切れな
いわけで。現実的には多少なりともコンピュータネットワークがどういうシス
テムで構築されているのかという技術的なことを多少なりとも知っていれば、
ばっかばかしい話とも思うわけですけれど、未来からのあるいは過去からのメッ
セージが絶対ないとはこれまた言えないかもしれない。たとえば 1999年から
2000年へと新しい年を向かえるとき、「日本」の標準時で「おめでとう」を発
信しても、たとえばロンドンにいる人は実はまだ午後の時間帯を過ごしている
わけですから、タイムスタンプだけ視れば、未来からのメールを受け取ってい
ることになります。
でも、このようなタイムスタンプはどこの標準時でスタンプされているかは一
目見ればわかるものですから、送信者も受信者も標準時についての了解があり
ますから、受け取ったメールにたとえ未来の時刻がスタンプされていても、
Posted: Fri, 14 Jul 2000 13:59:09 +0900
未来人からのメールだ!などということにはならない。
時空間がちょっとねじまがって現在と未来のどこかが接触して、そのすき間か
ら未来人がコンピュータネットワークを通じてコミュニケーションをはかって
くる、う〜ん、あるかもしれない(笑)
未来のある時に起こる大事故を未然に防ぐために過去の人間に援助をあおぐ、
さあ、そういうことが考えられるだろうか。時をさかのぼる冒険の場合、大原
則は「過去を未来の力で変更してはならない」というのがあるようです。そう
ですよね。そこをいじると、いま存在しているはずのものが存在しない状態が
作られてしまう。それはやってはならないと。でも現在の人間が未来を変更す
ることは?未来はこれから起こることだから、変更が可能?と言ってしまえる
のかな。そこのところが物語のおもしろさであるのだと思いますが。
この手の本は、あれこれ想像させてくれるところは実におもしろいと思う。そ
んなことあるはずはないよなぁと思いつつも、いや、2200年くらいになれば、
こんなことくらいはすでにあれこれできるようになっているのかもねとも思い
つつ、しかしながら人間って1000年2000年たとうともそれほど変わってないん
だよねとも思う。
1995年頃から、「インターネット」の利用人口は毎年爆発的に増加してきてい
る。私自身はそのちょっと前、1992年の終り頃からインターネットをぼちぼち
使い出してきたのですが、その頃のほうがコンピュータネットワークの姿はい
まよりももう少し捉えやすかったかなと思う。コンピュータとコンピュータを
つなげていくおもしろさが「インターネット」 Inter-Net という通信網を作
り上げてきたけれど、これからどんな風になっていくのだろうかとやっぱりふ
と考えてしまう。いまでも日々数通のどうしようもない SPAM が届くけれど、
ほとんどゴミだと思っている、そんなメールのなかから、ある日突然未来から
のメールが届いていたら、どうしようかな。。。。
Maurice Maeterlinck (1862-1949)
Maurice Maeterlinck
Maeterlinck's most famous play, The Blue Bird, was first priduced
in 1909 by Konstantin Stanislavski at the Moskow Art Theater.
The work, an allegorial fantasy conceived as a play for children,
have been videly translated and adapted into screenseveral times.
五木寛之の「青い鳥のゆくえ」(角川文庫)
五木寛之の「青年は荒野をめざす」を読んだのはいつだったか、まるで覚えて
ないし、今となってはその内容すら覚えてはいない。五木寛之を読んだのはそ
れが最初で最後だったかもしれないなぁと思うほど、私は五木寛之の本にはあ
まり縁がない。それがなぜかつい最近「ステッセルのピアノ」という本を読ん
だ。なんでも日露戦争後にロシアのステッセル将軍から贈られたピアノが日本
に現存するそうだ。その古い曰くあるピアノを追う話。なんだかしみじみ読ん
でしまった。1冊でもしみじみ読んでしまうと、五木寛之も悪くないじゃない
という感じになってきて、ふと本屋で目にしたのが「青い鳥のゆくえ」という
本だった。「青い鳥」ってあのメーテルリンクの青い鳥のこと?へぇ、五木寛
之が何を書いているのだろうととても気になって、さっそく読んだ。
ところで五木寛之の文庫本は文字が大きいのだが、これは何か理由があるのだ
ろうか。文庫本というと文字が小さいというのは当り前のことかと思っていた
のですが、最近の文庫本は一般的にもそういうわけでもないようですね。でも、
とりわけ「ステッセルのピアノ」は他の文庫本に比べても大きな文字になって
います。「青い鳥のゆくえ」はこれも文字は大きいですが、もっと余白があり
ます。曽野綾子の本も大きな文字を組んでいるようですが、これは曽野さんが
目の病気をしたため、何かそういうことに配慮をしているのかなと思っている
のですが、本当のところはどうなのでしょうか。
さて、メーテルリンクの「青い鳥」は、とても有名な児童書の1冊です。チル
チル、ミチルという主人公の名前はとても有名だし、たいていの人はその内容
を知っていると「思っている」。チルチルとミチルという貧しい兄妹が青い鳥
を探す旅にでかけるが、青い鳥は見つからず、がっかりして家に戻ると「青い
鳥」は自分たちの部屋にいた。メーテルリンクという作者の名前は知らずとも、
いつのまにか「青い鳥」は幸せのシンボルのようなものになっており、幸せの
「青い鳥」を求めてあちこち旅をしても、結局幸せというのは一番身近なとこ
ろにあるんだ、という教訓めいた話として「知っている」というのが一般的に
知っているという意味あいになりそうです。
さて、私はこの「青い鳥」をちゃんと読んだだろうか。小学生の頃に読んだ記
憶がある。だけど、それは原作ではなく、児童文学全集に収録されたものを読
んでいるはずです。翻訳ものの児童書の多くは原作そのままであることのほう
が珍しいですから、たぶん私も児童向きに編集された「青い鳥」を読んだのだ
と思います。そしていつのまにか「青い鳥」という話は、あちこち探し歩いて
も、結局幸せというのは一番身近なところにあるんだという教訓的なことが書
いてある話なんだと思いこみ、その後わざわざ「青い鳥」を読もうとは思わな
かったし、原作をちゃんと読む理由も見つからなかったので、私自身も残念な
がら「青い鳥」という作品を誤解したままいまに至っているのかもしれない。
「青い鳥のゆくえ」で、「青い鳥」という作品について五木さんはメーテルリ
ンクが青い鳥に託して語っていることは、とても虚無的なことなのではないか
と書いています。この解釈を読んで、さっそく私も本屋さんにでかけ「青い鳥」
の原作翻訳本を買おうと思いました。
「青い鳥」の話は、「クッククックウ〜わたしの青いとり〜」と誰かが歌って
いましたが、そんな風にけろっと明るい世界にある話だといつのまにか思いこ
んでいましたが、そうではなく、うん?幸せ探しというようなどこかに出来合
いの幸せや希望があるなんて嘘っぱち、そんな出来合いの幸せなんてどこにも
ないんだよ、ないから自分たちでなんとかしなくちゃいけないだという、ある
意味とっても虚無的な人生観に基づいて書かれたものじゃないかと言われて、
え〜、そうだっけ、それなら私も再読しなきゃと思ってしまった。
しかし近くの本屋の店頭には原作はなく、とりあえずと思い、岩波少年文庫の
「青い鳥」を買ってきました。児童書に入っているものではなく、原作もぜひ
読んで見るつもりにしていますが。そのとき、別の棚で「青い鳥の住む島」
(崎山克彦、新潮文庫)を見つけました。まだ中身は読んでいませんが、タイト
ルから見ると、「青い鳥の住む島」の「青い鳥」の使われ方は「幸せの青い鳥」
の意味なのでしょうね。
「青い鳥」は幸せのシンボルでよいのですが、あちこち探し歩いても、結局幸
せというのは一番身近なところにあるんだ、家に帰った兄妹は家のなかで青い
鳥をみつけた、そこまではよいのですよね。さて、そこからあとが問題なわけ
です。家に戻ってみると、あんなに探した青い鳥は自分の家にいるじゃないで
すか。こんなに近くに青い鳥はいたんだ、よかった、よかった。幸せを見つけ
た兄妹はその後「末長く仲良く幸せに暮らしました」とは原作にはどこにも書
いてないです。いわゆるハッピーエンドではないのですね。
メーテルリンクの「青い鳥」は舞台脚本として書かれたものです。では最後の
セリフはどうなっているのでしょうか。よかったよかったと幸せいっぱいのフィ
ナーレにはなっていない。
せっかく見つけた青い鳥は手のなかから飛んでいってしまう。そして、チルチ
ルの最後のセリフは「(すすんで出て、お客さんたちにいう)みなさんのなかで
どなたでも、あの鳥を見つけられたら、どうぞぼくたちに返してください。ぼ
くたちの幸福のために、いまに、あの鳥がいるのだから」
というのが最後のセリフなのです。
ですから五木さんは「青い鳥のゆくえ」が気になったのかもしれません。
あの鳥はどこに飛んで行ってしまったのでしょうか。
青い鳥とは何だったのでしょうか。
本当の「青い鳥」を見つけたと思ったとたん鳥はどこかに飛んで行ってし
まった、これが「青い鳥」という話の結末だった。
メーテルリンクの「青い鳥」は、幸せというのは一番身近なところにあるんだ、
というのが一般的に知られた「教訓」らしいのですが、実際の本には幸せは身
近に「ある」などとは書いてないのですね。というか、物語の作者というのは、
たいていの場合、教訓を書こうなんてほとんどの場合は思っていないものです。
あちこち探して、結局は自分の家のなかでチルチルのミチルは青い鳥を見つけ
るのですが、彼らは青い鳥を自分のものにしようしたわけではありません。見
つけた青い鳥は隣の娘にやってしまうのです。ところが鳥にパンをやろうとし
ているすきに鳥は空高く逃げてしまうというわけです。せっかく見つけたのに、
またいなくなってしまった。となるとチルチルとミチルはまた青い鳥を探しに
でかけなくちゃいけないのです。本はここで、劇を見ている客たちに青い鳥が
見つかったら返してくださいと訴えるのです。劇を見ている、あるいは本を読
んでいると、このせりふには心を動かされてしまう。
いまこれを書きながら私は小さい頃間違いなく「青い鳥」を読んだ、その記憶
がかすかに戻ってきたように思います。絶対読んでいる、「お話」として読ん
で、楽しんでいたのだと思います。とても記憶に残るお話ですものね。けれど、
子どもの時も、最後の叫びのセリフも読んでいるはずだとは思うのです
が、その時はそれほど悲痛には響いていなかったと思います。
青い鳥を探す旅から戻ってみたら、家にちゃんと青い鳥がいた!青い鳥はやっ
ぱり見つかった、それも自分の一番近いところで!という結末になんだかとて
も安心してしまったのではないかと思います。けれど、その鳥が逃げてしまう、
逃げてしまうのだけれど、逃げてしまったことはその後すっかり忘れてしまっ
て、そこにいたという見つけた喜びのほうにはるかに余韻があって、最後の悲
しいセリフはそれほど記憶に残ってこなかったのではないかと思った。でも大
人になって多少なりともいろんな経験を積んだ上で「青い鳥」を読むと、子ど
もの時のような読み方では読めないということもあるでしょうね。そう、「最
後のせりふ」が妙に気になってはくるけれど。
ただ、「青い鳥」は劇の脚本として書かれたことを考えると、舞台からの客席
への話かけというのはとても大きな効果をもちます。劇がとても現実感を持っ
てくるのですね。「あなたの近くで見つかったら、ぼくに返してください」と
言われると、そんなに困っているなら私も一緒に探してあげようかと思ってし
まうかもしれない。そうそう、チルチルとミチルが青い鳥を探す旅に出かけた
のは自分たちのためではなかったのです。隣の病気の娘のためにおばあさんに
頼まれて青い鳥を探す旅に出かけることになったわけです。「青い鳥」は、自
分のために探して自分のものにするものじゃないのかもしれません。いま「青
い鳥」再読してみるとなかなかよく出来た「童話」だと思います。本当は素直
にお話を楽しんだらよいわけですが、大人はやっぱりちょっと深読みもしてみ
たくなりますよね。深読み部分はまた別の機会にまとめて見ることにしましょう。
1冊の本を読むとき、どんな状況で読むかによって、その本から感じることは
いろいろあるのだと思います。筋だけがやたらに気になるときもあれば、細か
い描写の部分が気になることもあれば、また子どもの頃に読んだ本を大人になっ
てから読む場合も同じ本であってもかなり印象が違ってくることもあります。
子どもの頃に読んだ「青い鳥」は、旅のなかのさまざまな冒険と青い鳥を見つ
け出した喜びに大きく反応していたのでしょうね。でも、いま再度見てみると、
気になるのは「青い鳥」って何だろうとということと、最後のチルチルのセリ
フ「あの鳥を見つけられたら、どうぞぼくたちに返してください」になってし
まうかもしれません。
希望や幸せは、それに向かって努力しているときが一番希望があり、幸せなの
かもしれません。これがあればと思うものを苦労してやっと手にいれたと思っ
たとたんそれは不思議に色あせてしまう、そしてまた新たな希望や幸せを求め
はじめるのかも。こういうことは「希望」や「幸せ」に限らずどんなことにつ
いてもそうなのかもしれません。どのような状態が幸せなのだと言えるのか、
それすら実はよくはわからないものなのかもしれませんが、人間って実にどん
欲です。でもまたそのあらゆる面についてのどん欲さは必要なものかもしれま
せん。それこそ「求めなさい。そうすれば与えられる」(マタイによる福音書7
章7)、執拗に求める続けることはとても大事なことでもあると思います。しか
しながら、存在すること、生きていまここにあること、出発点はそこにしかな
いとは思うのですが。
2000年7月2日琵琶湖ホールでの熊川哲也の「カルメン」を見ました。
一部
スコティッシュダンス
パヴァーヌ
4人のためのヴェリエーション
二部
カルメン(ローラン・プティ版)
ステージの感想の前置きですが、熊川哲也の熱狂的な「ファン」がいるのは確
かなようで、琵琶湖ホールの1階客席には、ステージに背を向けて4人の男性
警備員が配置されていたのにはちょっとびっくりしました。彼らは背広姿だっ
たのですが、もしも舞台にかけよるような強烈なファンが出現したら、たちま
ちとりおさえられたでしょうね。とはいえ舞台下はオーケストラボックスがあ
りますから、ストレートにそんな行動が取れるとは思えませんが、琵琶湖ホー
ルで客席に警備員が配置されているのを見るのは始めてでした。
熊川哲也の出現でバレエを見る人口は急増したのではないかとは思いますが、
琵琶湖ホール満席はやっぱりすごいと思います。
プログラム第一部の三つ作品はどれも私にはとても新鮮なものでした。とりわ
け「4人のためのヴェリエーション」は素晴らしい。4人の男性ダンサーのた
めのヴァリエーションですが、ひとりひとりが素晴らしく、また4人の調和が
さらに素晴らしい。このようなプログラムはいままでのバレエ公演にはないも
のだし、ちょっと珍しい演目だと思いますが、Kカンパニーならではの演目で
あるかもしれません。K カンパニーの男性ダンサーはみんなロイヤルのダンサー
で、みなそれぞれにソロをはれるダンサーですから、男性メインのバレエ団の
新しい挑戦のためのプログラムとしてもとても新鮮でした。クラシックを主体
にしたバレエだと男性ダンサーはどうしても女性ダンサーの引立て役になりが
ちですが、このようなプログラムが演じられると今後は男性のダンサーの素晴
らしい技術や力強い踊りがもっと前面に出る振付けが増えるのではないかと思
います。そういう面でもK カンパニーの存在は、これまでのバレエ界に新しい
風穴をあける力があると思います。
まあ、ほんとうに素晴らしい「カルメン」でした。熊川哲也のドン・ホセは、
そりゃあ、かっこよかったのですが、私はカルメンを踊っていた女性ダンサー、
ヴィヴィアン・デュランテが本当に素晴らしと思いました。ローマ生まれのロ
イヤルのプリンシパル。バレエを踊るために生まれてきた、そういう風に感じ
る人がいますが、この人もそういう感じの人だと思う。足が長くて、まっすぐ
で、足をあげたら頭より上に足首がある!
Kカンパニーが創設されて3年目で私は、はじめて熊川哲也の生舞台を見たの
ですが、想像以上に今後の可能性を感じさせてくれるバレエ団だと思います。
既存のバレエ団から飛び出した人たちが、本当に新しいバレエを創っていこう
という気迫とすごいいきごみを感じるステージだったように思います。
熊川哲也がかっこいいというのはちょっと別にして(私はそういう面はそれほ
ど関心ないです)、いままでになかったものを創っていこう、やっていこうと
いうパワーというのは、やっぱりすごいと思います。自分たちの目的に向かっ
てひたすら走り続けようとするパワーに魅力を感じました。
舞台の完成度はきわめて高いのに、完成品というよりは挑戦している姿勢を感
じ、さらに今後まだ何か素晴らしいものを見せてくれるのではないかというよ
うな期待を感じさせてしまうとしたら、それはものすごいパワーだと思います。
さて、本心を少し書いてみようかと思います。
実は公演が終ってホールを出た時、満足感があるには違いないのですが、何か
忘れものをしたような気分になっていたのです。何か見ていないものがある?
満足してると思ったのは、そう思わないというほうがおかしいからそう思った?
さて、この妙な感覚はいったい何なんだろうとそれからの時間翌日までずっと
気になってしかたがありませんでした。(生)熊川を見て不満があるはずがない
と思う一方で、何か妙な忘れものをしたようで不思議な気分でした。
熊川哲也といえば高いジャンプ!もしかしたら2メートルも3メートル(3メー
トルはオーバーですか、でもそれくらいの価値はあります)も跳んでいるので
はないかというような素晴らしいジャンプ、それを見ていなかったなぁと気が
ついたのは夜になってからでしたか。でも昨日の舞台でそのようなジャンプが
「必要」だっただろうか。
自分では気がついていなかったのですが、私はたぶん熊川哲也の素晴らしい
ジャンプを目の前で見てみたかったのかもしれません。けれど、あれだけの素
晴らしい舞台を見ていて、その場では私が期待するようなジャンプがなかった
ことをすっかり忘れていたのです。そんなジャンプがなくても、私は十分に満
足していたはず。けれど、ホールをあとにする時に、ふと「見たかったものを
見ていない」ことに気がついたのだと思うのです。
そこでもう一度あの素晴らしい「カルメン」の舞台をゆっくり振り返ってみ
ると、やはりそこに感じるのは、自分たちの新しい目的に向かってひたすら走
り続ける魅力だったと思います。全体を通じてとても素晴らしい技術が駆使さ
れた公演だったと思うのですが、その高度な技術をささえる基本動作がきっち
り見えていた!つまりKカンパニーは従来のバレエ団にはない何か新鮮で不思
議な魅力を秘めているけれど、それはクラシックバレエの伝統をきっちり受け
継ぎつつ、さらに新しい世界を開いていくのだという姿勢を見せてくれるとて
も好ましい魅力なのではないかと私は思うのです。
K カンパニーの舞台は、究極おろそかにできるはずのないことを本当にきっち
り押えている、何やら当り前のことを言っているようにも思うのですが、でも、
これほどすごいことはないのではないかと思います。プロですからひとりひと
りが日々高度な技術を磨いていることは当然のことですが、それを当り前だと
平然と言えることが本当はすごいことではないかと思います。技術的に押える
べきことはきっちり押えてあることが安心感を与え、なおかつ全体の構成に時
代をひらく挑戦の風を感じるとしたら、これはやはりとてもすごいものを見て
しまったのだとやっぱり思いました。
高いジャンプはなかったけれど、ひたすらクルクル回る場面がとても印象に残っ
ています。いつだったか「徹子の部屋」に熊川哲也が登場したときに、「バレ
エをはじめた頃、回るのに命かけてましたからねぇ」と冗談っぽく言っていた
のを覚えているのですが、今回のステージを見ながら私はその言葉を思い出し
ていたほど回る場面は多かったのではないかと思います。もしかしたら回数が
多いというのではなく、きわめて印象深いピュレットがあったということかも
しれないのですが。
高いジャンプというのは目をひくし、舞台で映えるものです。ある意味評価が
得やすい技術かもしれません。しかしながらピュレットという動作は32回転
まですれば目をひくけれど、実は1回転でもとても高い完成度が必要な動作な
んじゃないかと思います。今回の公演を見て、熊川哲也は彼自身の可能性を追
求しつつ、さらに彼が結成した K カンパニーというバレエ団の可能性を追求
しようとしているのだということをはっきり感じました。
バレエで妖精の世界を扱うというのはとても理にかなったものだと思います。
そもそもトウシューズで立つということが、この世ならぬものを表現するのに
ぴったりなわけですから。トウシューズで立つという技法を得て、バレエはそ
の独自の表現世界を完成させてきたわけで、だからこそ幻想的な世界を表現す
ることことでクラシックバレエ独自の素晴らしい世界をつくりあげてきたのだ
と思います。バレエはその技法で非人間的な幻想的なものを表現するにはまさ
にぴったりだったけれど、現代のバレエでは人間を演じることもまた大きなテー
マになってくるのは当然のことだと思います。
クラシックバレエは幻想的なものを表現することにぴったりはまりすぎていた
ために、なかなか白鳥の世界を抜け出ることができなかったのかもしれないで
す。トウシューズで立つという技術を駆使しつつ、なおかつ人間をテーマにし
た作品を演じること、これは意外に難しいことなのではないかと思います。
一般的にもバレエといえば異次元世界を見ることを期待するし、バレリーナの
白いチュチュにはあこがれがあるし、バレエこそ妖精が登場する夢の世界を見
せてくれるみたいな印象のほうが強いものです。しかし、そのような世界から
一歩抜け出てバレエという舞台に新しい可能性を探ることもまた当然生まれて
くる欲求だと思います。そして、そのような挑戦はこれまでにもプリセツカヤ
のようなダンサーをはじめ多くのダンサーたちがさまざまな試みをしてきたは
ず。しかしながら一般的にはなかなか受け入れがたいこともあったのだと思い
ます。
そういう意味でも熊川哲也はひとつの時代を作っていく人だろうと思います。
「カルメン」の舞台は私にとってもけっこうショッキングなものだったのかも
しれません。
アーサー・C・クラーク「イルカの島」
この本「海洋 SF の傑作」と本の紹介文には書いてあるのですが、SF を超え
て(笑)、なんとリアルな現実感があることか。
日本語版文庫本は1994年の発行になっていますが、原作は1962年頃に書かれた
ものだそうです。アーサー・C・クラークのその他の海洋SF ものとしては1957
年の「海洋牧場」がありますが、それよりも新しい作品ではあるのですが、
「イルカの島」は、SF という感じがしなくて、きわめて現代的な小説という
印象があります。この本が書かれた1962年頃だったら SF だったけれど、2000
年にこの本を読むとなんだか現実にあるようなことになってしまうのだろうか。
「21世紀の子ども」たちは、ホヴァーシップのヒューンという音を聞きなれ
ているわけですから、この本の時代設定は少なくとも「21世紀」、2000年代
である。2000年の初期なのか、後期なのかははっきりしないけれど、全体的な
印象から21世紀の前半という設定だろうと思います。ということは、いま、
2000年にこの本を読む限りはこの本の内容がきわめて現代的なありそうな話と
感じてしまえるのはおかしいことではないと思う。
ジョニー少年は、真夜中にホヴァークラフトが止まる音で目を覚ました。ヒュー
ンという音があることになれている少年には、その音が突然停止してしまうこ
とのほうが不思議だった。そこで、ホヴァークラフトは本当に故障して止まっ
ているのかどうかを確かめに行った。ホヴァークラフトによじ登っていった時、
ホヴァークラフトが突然動き出してしまい、ジョニー少年はホヴァークラフト
の密航者になったしまった。ところがホヴァークラフトはやっぱり故障してい
てオーストラリア沖で沈没してしまう。海にたったひとりで放り出されたジョ
ニー少年はイルカに助けられイルカの島に着いた。イルカ島ではイルカとのコ
ミュニケーションをするために研究が続けられていた。これがおおよその粗筋
なのですが、ありそうもない SF であるどころか、きわめて現実性のある話で
はないかと思えてしまうほど、アーサー・C・クラークは淡々と「イルカ島」
でのジョニー少年の生活を語ります。
ある時嵐のあとで、通信網がいっさい絶たれてしまいイルカ島は孤立し、イル
カの研究をしてきた学者の命が危ないという危機的な状況になります。その時、
ジョニー少年は本土までイルカにサーフボードを運んでもらう場面があります、
陸が見えて来たとき、イルカからサーフボードを切り離し、あとは自力で波に
乗って陸に向かおうとするところがあります。海はまだ嵐のなごりが残り、サー
フィンができるような状況ではない海でジョニーがサーフィンに乗るあたりの
描写は最高に素晴らしい。アーサー・C・クラークが相当なサーファーだった
のではないかと思う。(実際のところ、この作品はアーサー・C・クラークが潜
水事故で入院しているときに書かれたそうです。)
イルカはとても賢い生き物だそうな。それは単に芸を覚えるというような賢さ
だけではなく、知能が発達しているとも言われています。イルカたちが言葉を
持っているのではないかというのは SF 的な話であるよりも、きわめて現実性
のあること。現在ではそのような研究をしている学者たちもいるようですから、
SF には必ずしも「宇宙人」が登場するわけではなく、イルカとのコミュニケー
ションをテーマにした SF があっても少しもおかしくないし、きわめて現実味
のあるおもしろい本だと思う。
CHIE AYADO "LOVE"
ぜひともお勧めしたい CD は綾戸智絵さんのLOVE。
少しハスキーで少しガラッとした声がきわめて元気よくすごい迫力を感じる。
関西弁のおしゃべりのノリがよい。
けれど、そこにとてもすごい人生体験がこめられている。
綾戸さんのドキュメンタリーが放送されていたことがあった。テレビの画面を
見ずにテレビを聞いていたのであるが、なんと素晴らしい歌手がいるのだろう
と思った。そのドキュメンタリーはたぶん綾戸さんが卒業した小学校での記録
だったのだと思う。子どもたちに Let's it be を歌わせていく場面。英語の
歌詞のままを歌うのですが、英語が問題やないねん。自分が聞いたまま、感じ
たまま、Let's it beを歌うんや。独特の語りで子どもたちをのせていく。最
後にみんなでLet's it beの大合唱になるのですが、その歌にはとても感動す
る。音楽ってそういうもんや!と。理屈でも知識でもない。体で感じる音楽を
体で表現する、その難しいことを綾戸さんは熱をこめてやってしまう。できる!
それこそ、Let's it be だ。
クラシックってこんなに楽しいもんやったと改めて気が付いたのは、佐渡裕指
揮の演奏会を聞いたときだった。音楽を聞いてとにかく楽しいと思う。それっ
て本当に当り前のことのはずなのに、「学校」ではどうも「鑑賞」をしなくちゃ
いけなくなる。何かしたあとで感想文をかかなくちゃいけないから本なんて読
みたくないなんて思うこともあるかもしれない。けれど、本当は音楽は楽しい
し、おもしろい本はやっぱり楽しいのである。自分がいい絵だなと思えばそれ
はいい絵なのだ。なんか最近はそういう素直な心がどっかにとんでしまうよう
なことが多いかも。
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