一般ローマ暦に基づく聖人カレンダー/3月

3月
  • 3月4日 聖カシミロ
     1458〜1484

     カシミロはポーランドの王子として生まれた。父はポーランド王カシミロ4世、母はオーストリア皇帝アルベルトの長女。1471年カシミロの兄がボヘミアの王となった時、隣国ハンガリーの国民も自分たちの国王に不満を抱いていたので、これを退位させ、カシミロをハンガリーに迎えようとした。しかし、カシミロが国境に来てみると迎えるものは誰もなく、カシミロはそのまま引き返した。すると父王カシミロ4世は、敵と戦わなかった王子を国の恥さらしと思い、ドブスキィ城に幽閉した。しかし、カシミロはここで祈り、主のご受難と聖体について黙想し、慈善のために働いた。23歳の時、大病にかかり、十字架を抱きながらなくなった。カシミロは生前からポーランド国民に尊敬されたが、死後いっそう敬われるようになった。教皇レオ10世によって列聖された。

  • 3月7日 聖ペルパトゥア 聖フェリチスタ殉教者(記)
    ?〜203

     202年ローマ皇帝ゼブチモ・セヴェロはローマ帝国全土にユダヤ教とキリスト教の禁止令を出した。ユダヤ教はその後信教の自由を得たが、キリスト教は厳しい弾圧下にあった。203年北アフリカチュニジアのカルタゴで、5人の求道者が逮捕された。貴族の婦人ペルペトゥアとその奴隷フェリチスタと3人の男性であった。彼らに教理を授けていた伝道師サッロも捕えられた。5人は監禁中に受洗し、すぐに投獄された。やがて一同は競技場に引き出され、猛獣のえさにされるというむごい刑を受けた。死刑寸前までの記録は自らの手によって残され、また死刑の記録は目撃者によって残された。

  • 3月8日 聖ヨハネ・ア・デオ修道者
     1495〜1550,br> 聖ヨハネ病院修道会の創立者
    病院、書店、印刷の保護者

     ヨハネ・ア・デオは1495年ポルトガルのモンテマヨールで生まれた。冒険心と好奇心が強く、7歳の時に家を出て、スペインに行き、羊飼いにやとわれ、15年間忠実に働いた後、軍隊に入った。その後オーストリア遠征、あるいはアフリカに渡ったりと様々な冒険の後、グラナダで聖ヨハネ・デ・アヴィラという司祭に出会い、感銘を受け、主に仕える人生を選んだ。ヨハネは小さな病院をつくり、祈りと奉仕によって人々を癒した。また、弟子の足を洗った主に倣い、司教、司祭のできないこと、あるいはしてはならないことを自ら進んで引き受け、働いた。1550年55歳の時、ヘニル川が氾濫して洪水になった時、溺れかけた子供を救おうと川に飛び込み、そのため病を得て亡くなった。ヨハネの精神を受け継ぐ聖ヨハネ病院修道会は昭和26年にババリア管区から大阪に来日し、現在、神戸で聖ヨハネ病院をはじめヨハネ寮、そして病者のための施設を経営している。

  • 3月9日 聖フランシスカ(ローマ)修道女
     1384〜1440?

     聖フランシスカはローマの貴族の家に生まれた。フランシスカはアシジの聖フランシスコに由来した名前。7歳の頃からベネディクト会士の主任司祭から霊的指導を受けた。12歳の頃、父は娘の修道院入りを恐れて縁談をまとめてしまい、青年貴族ロレンツォ・ポンチアニと結婚した。フランシスカは家族によくつくしたが、やがてフランシスコ会の第三会員となり、貧者や病者のためにつくした。この時代、教会はローマと南仏のアヴィニヨンに2人の教皇を持って対立し、分裂していた時代であり、これを統一するための会議がピサで行われ、アレキサンドル5世が新しい教皇に選ばれたが、前任の2人の教皇はこれを認めなかったので、教会は紛糾していた。この混乱に乗じてナポリのラジオス王がローマ侵入を果たし、この時、フランシスカの夫ロレンツォは教皇軍を指揮し、戦いに破れて捕虜となり、長男も人質にとられた。次男はペストに倒れ、娘は急死するというフランシスカの家庭は試練の日々を過ごさねばならなくなった。  1417年、コンスタンス公会議でマルチヌス5世が教皇となり、教会の分裂も終息し、フランシスカの家庭にもやっと平穏が訪れた。フランシスカは1425年、献身会を設立し、慈善事業を続けた。1436年、夫が亡くなった後、献身会の修道院に入り、院長となり修道女たちを導いた。

  • 3月17日 長崎の信徒発見記念日

     1549年聖フランシスコ・ザベリオの来日以来60年ほどの間に日本のカトリック信者は30万を数えたと言われる。しかし、1587年、秀吉は、宣教師追放令を発令し、1569年には長崎26人の日本最初の殉教者を出した。  カトリック信者には長い迫害の時代が続いたが、日本は1853年、ペリー来航、1858年諸外国と修好条約を結び、日本における外国人の信教の自由が認められ、外人居留地内に聖堂の建築が許可されるようになった。1862年には横浜居留地に開国後日本最初の聖堂が建てられ、1865年には長崎に大浦天主堂が建てられた。フランス寺と呼ばれた大浦天主堂の献堂式から約1カ月たった3月17日、浦上の農民たちがフランス寺にやってきて、プチジャン神父と出会った。そのうちの一人の婦人がプチジャン神父に近づき、「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」「私たちは浦上のものでございまする」と告げた。婦人たちはさらに「サンタマリアさまのご像はどこ」とたずね、神父は聖母子像の前に彼らを案内した。  これが世界宗教史上の奇跡とまで言われる長崎の信徒発見の日の出来事であった。しかし、その後も迫害は続き、禁教令が廃止されたのは明治6年のことであった。

  • 3月17日 聖パトリック司教
     385〜461
    アイルランドの使徒

     パトリックは385年スコットランドの裕福なカトリック信者の家に生まれた。401年パトリックが16歳の時、アイルランド人がスコットランドに侵入し、パトリックは奴隷として家畜小屋で働かなければならなくなった。苦しい生活の中でパトリックは祈り続け、約6年後東岸の港から脱走した。407年故郷に戻ったが、神学を学ぶことを志し、フランスのレリンの修道院で諸学科を学び、のちに、オークセールの修道院で神学を修めた。  アイルランドにカトリックが伝えられたのは4世紀頃で、教皇チェレスティノ1世は、421年に聖パラディウスを叙階し、アイルランドに派遣したが、まもなく亡くなったので、432年オークセールで聖パトリックが助祭され、司教として派遣された。当時アイルランドには少数のカトリックが散在していたが、ドルイド教の偶像崇拝に陥っていた。聖パトリックはアイルランド全土に不況活動を展開し、ほとんどすべての住民をカトリックへと導いた。辺鄙な地方にまで700余の聖堂を建て、修道院を設立し、5000人を司祭とし、多くの助祭たちを育て、370人を司教に叙階した。アイルランドにおける不況のめざましい発展に感銘し、聖座はアイルランドを教会管区の地位に昇格させ、パトリックをアーマーの大司教に任命した。しかし、パトリックは親友の裏切りに会い、司教職を退かねばならなかったが、アイルランドのために生涯をかけてつくし、461年北アイルランドのサウルで亡くなった。  聖パトリックは今でもアイルランド人の国民的英雄であり、3月17日には国をあげて祝われる。

  • 3月18日 聖チリロ(エルサレム)司教教会博士
     315〜386

     エルサレムのチリロは315年に生まれ、20歳頃まで宗教の研究に全力を傾け、19歳の時エルサレムの司教マカリオに選ばれて助祭となった。10年後に司祭となり、その5年後、全キリスト教会の母教会と言われるエルサレム教会の司教に就任したが、アリオ派の人たちに迫害され、35年間の司教生活のうち16年間は流刑状態であった。  チリロは76歳の時、381年コンスタンチノープルで開かれた公会議に出席し、マケドニアの異説に対して聖霊が神であることを決議した。386年72歳で亡くなった。

  • 3月19日 聖ヨセフ(祝)
    聖母の淨配、大工・臨終の保護者

     教皇ピオ9世は、1870年12月8日に聖ヨセフが教会の保護者であることを宣言した。教皇ヨハネ23世は、第2バチカン公会議の招集の準備として1961年3月19日に聖ヨセフを公会議の保護者に選んだ。ついで1962年11月13日に公会議の1つの実りとして、聖ヨセフの名をミサ典文に挿入し、聖ヨセフへの信心をいっそう深めた。
    ヨセフはガリラヤのナザレ村の大工で、マリアの夫、主イエス・キリストの養父。
    参考「救い主ヨセフ」ヨハネ・パウロ2世使徒的勧告

  • 3月23日 聖トゥリビオ(モングロベ)司教
     1538〜1606

     聖トゥリビオは1538年11月16日スペイン・レオン洲のモングロベホ領主の2番目の子供として生まれた。ヴァラドリドでの高等教育ののち、サラマンカ大学に進んだ。卒業後スペイン王フェリペ2世と出会い、グラナダで裁判長となった。その後、1581年ペルー教区への司牧のために叙階され、ペルー・リマへ派遣された。  当時のリマ教区は太平洋沿岸の南北500キロに及ぶ広大な地であったが、広い教区を徒歩で巡回し、多くの人々を導き秘跡にあずからせた。そして宗教から受ける利益を永続させるために、神学校や教会や病院を至るところに設立した。広い教区内を一周するのに最初は7年間かかったが、2回目は4年、3回目はそれより短時間で巡回することができたという。1606年、教区巡回中にサンダという町で倒れ、3月23日に亡くなった。その業績からラテン・アメリカの聖カロロ・ボロメオ(11月4日)とも呼ばれている。

  • 3月25日 神のお告げ(祝)

     マリアは「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7:14)と預言されたおとめであった。 「マリアよ、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名ずけなさい」マリアは天使の言葉にとまどいながらも、謙虚に神に従った。神を賛美するとともに聖マリアの純潔と信仰と謙遜に倣うことができるように、聖母の取次ぎを願う日。 お告げの鐘は、13世紀にはじまり、初めの頃は鐘の音に合わせて天使祝詞を3回となえていたが、16世紀頃より、これに「われは主のつかいめなり、仰せの如くわれになれかし」などの祈りをつけ加えるようになった。


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