4月
聖フランシスコは1416年イタリアのパオラ市で生まれた。フランシスコという名前は両親が長く子供ができないのを悲しみアシジの聖フランシスコに取次ぎを願ったからである。パオラの聖フランシスコは断食、労働、不眠、禁欲などで自らの体を鍛えあげ、これを魂の道具として祈りと償いによって、正義と平和のために生涯をささげた。
フランシスコは小さい時から信心深い生活を行い、13歳でフランシスコ修道院に入ったが、自らの道は別にあることを悟り修道院を出た。その後隠遁して苦行生活を送っていた。19歳の時、数人の青年が彼のもとに集まってきて共同生活をはじめるようになった。しだいにその人数が増えてきて、1454年、コセンツァの司教はより大きな修道院を作ることを許可した。1473年、フランシスコの修道院は教皇シクスト4世によって会憲を認可され、「アシジの聖フランシスコの小修士会」と名づけたが、後に同会の修士たちの要望で「最も小さい者の会」と変更された。この会は、ルイ11世、カルル8世、ルイ12世などの歴代の国王から尊敬される修道会となった。死期の迫ったことを悟ったフランシスコは弟子たちに互いに愛し合うことをさとし、1507年、93歳で亡くなった。
聖イシドロは560年頃、スペインの貴族の家に生まれた。イシドロは聖レアンドロ司教、聖フルゼンチオ司教の弟であり、また聖女フロレンチナの兄であり、聖人一家に生まれたが、小さい頃から勉強嫌いだったという。長男のレアンドロ司教はものおぼえの悪いイシドロを自分の創立した学校に入れ、厳格に教育したが、勉強が嫌いだったイシドロはとうとう学校を脱走してしまう。ところが、水くみに来ていた村の婦人に出会い、悩みを打ち明けると、大きな励ましを得ることができ、再び学校に戻った後は司祭への道を熱心に歩みはじめた。600年、兄レアンドロのあとを継いでセビリアの司教となり、聖会の典礼や学校教育のためにつくすとともに、「語源」「神学命題集」などの本を著した。たえず祈り、人々を救いの道へと導いた聖人。
ビンセンチオは1357年、スペインに生まれた。14歳の頃から哲学と神学を学び始め、18歳でドミニコ修道院に入り、祈りと聖書研究につくした。司祭叙階後バルセロナのカタロニア大学で研究生活を続け1384年神学博士となる。その後、故郷のバレンシアに戻り、説教活動を行う。38歳の時、教皇特使として全ヨーロッパを説教して回り、イギリス、フランスをはじめ、またグラナダの回教徒のもとへも請われて出掛け、多くの者が改宗した。説教活動とともに「霊的生活への指南」「信仰への指南」なども書き残している。ブルターニュ地方での説教が最後の生活となり、ワンヌの町で病を得て1419年4月5日に亡くなった。遺骸はスペインのバレンシアの司教座聖堂におかれている。弁舌の聖人であり、言葉と祈りと聖性についての手本と言われている。
聖ヨハネ・バプティスト・ド・ラ・サールは近代教育の先駆者と呼ばれ、特に青少年教育につくした聖人である。1651年、フランス北部のランスの名家の長男として生まれた。幼い頃から司祭になることを志し、パリのサン・スピルス神学校を経てソルボンヌ大学に進み、1678年27歳の時、ランスの大聖堂で叙階された。1684年5月に12人の教師とともに青少年の教育を目的とするラ・サール修道会を創立した。しかし教育法に関してさまざまの無理解や非難があびせられ、苦しみの連続であった。1699年10月、20歳以下の青年たちのために、日曜と祝日の工芸学校を開設し、また、フランス最初の工業学校と師範学校を創設した。
現在、ラ・サールの「キリスト教的な学校の兄弟たち」は、教育のための修道会の中で一番大きく、1302校を経営し、984名の会員がおり、彼らは子供たちに「神を愛し、純真さを守り、悪に対する嫌悪を教える」ため世界の各地で働いている。日本には、昭和7年にカナダ管区のモントリオールから函館に到着したのが最初である。この他鹿児島に高校、仙台にラ・サール・ホーム、東京・日野にラ・サール学生寮を経営している。
スタニスラオは教皇ヨハネ・パウロ2世の故郷ポーランドのクラカウで生まれた。両親は結婚以来30年も子供に恵まれず、やっとスタニスラオを授けられ、神への感謝から子供を聖職者に献げる決心をしていた。スタニスラオは幼い頃から両親の厳しいしつけのもとでよく祈り、信仰深い生活をした。グネーゼン大学を卒業後、パリ大学に留学し、勉学を修めた。クラカウに戻り、司教ランベルトから司祭に叙階された後、1702年クラカウの司教に就任した。説教する前に身を持って教区民に手本を示す司教であったために、司教の一言は千金の重みがあったと言われる。
当時、わがままで邪悪のとりことなっていた前の国王ポレスラス2世の生活は目に余るものがあり、スタニスラオが注意を与え、不品行を改めないと破門も辞さないと戒めたところ、王はこの助言を根に持ち、司教の名誉を傷つけようとした。1709年5月8日、スタニスラオはポレスラス王によってミサ中に切り殺された。のちにこの国王は、国民の反乱によって国外に追放され、スタニスラオは聖人として崇められている。
649年に教皇に選任された。聖マルチノ1世教皇はラテラノ公会議を招集した教皇であるが、そのために東ローマ皇帝コンスタンチヌス2世の怒りに触れ、投獄され、殉教した最後の教皇である。5〜7世紀にかけて、キリストは真の神であっても人間ではない(単性説)や、神としての意志はあっても人間ではない(単意説)のような異説が生じ、教会を2分するような議論がなされていた時代であった。マルチノ1世は649年、教皇就任後まもなくローマのラテラノ教会で公会議を開催し、「真の神、真の人であるキリストに、神としての意志と人間としての意志がある」ことを宣言した。このため653年マルチノ1世は捕えられ、入獄され、虐待を受け、死刑の判決を受けて、教皇位を剥奪された。さらに、多くの苦しみを受け、653年、ケルソンで獄死した。
中世の大神学者であり、イギリスのカンタベリー大司教であった聖アンセルモは1033年北イタリアのピエモンテ県のアオスタ市に生まれた。16歳でベネディクト会の修道院に入会を求めたが、願いが聞きいれられず自堕落な日々を送るようになった。しかし、修道院に入りたいという望みを失うことはなかったが、父は跡継ぎであるアンセルモの修道院入りを許さなかった。しかし勉強を志すことは理解があったために、勉学のためアンセルモはイタリア・ブルヴァンディに行くことを許した。3年間ブルヴァンディで学んだ後、フランス・ノルマンディに行き、哲学者ランドフランクの門をたたいた。1060年26歳でベネディクト会の修道士としての請願をたてた。しかし、アンセルモは莫大な父の財産と領地を相続することになっていたために、ベネディクト会入会の決意をする前に、この問題について解決しなければならなかった。アンセルモは財産を捨てて修道士の道を選んだ。まもなく彼は修道院長にも任命され、「愛される修道院長」として、多くの修道士から慕われた。
1078年ベックの大修道院長に就任。1091年ウィリアム2世は、彼をカンタベリーの大司教に任命しようとしたが、任命権の問題についてアンセルモは正義を貫くためにこれを断った。1093年にローマからカンタベリー大司教として叙階を受け、イングランド駐在教皇使節となった。カンタベリーの大司教の任命権については1106年のベックの協定会議まで対立が続いた。アンセルモは司教の任命権について大きな業績を残したが、哲学者としての業績もまた大きく、中世カトリック神学の基盤となったスコラ哲学を基礎づけた。1109年に死去。墓はカンタベリーのカテドラルの聖堂内にある。1120年、教皇クレメンス11世によって教会博士の称号をおくられた。
聖ジェオルジオは280年、小アジア(今のトルコ)のカパドキアに生まれた。少年時代にはローマ陸軍に志願し、17歳で将軍であった父に従って出陣し、手柄をたてた。勇敢な軍人であったためにジオクレチアノ皇帝の信用を受け将校となった。しかし、キリスト教の迫害がおこった時、皇帝に向かって、キリスト教が真の宗教であることを主張したために、捕えられ、監禁され、皇帝によって首をはねられ、303年、殉教した。ローマの殉教録にはジェオルジオを「殉教者の冠」とたたえられており、また、十字軍時代には英国のリチャード1世は、聖ジェオルジオは自分の軍隊の保護者とした。
聖フィデリスは1577年、南ドイツのジグマリンゲンで生まれた。フライブルグ大学で法律学を修め、1601年、24歳の時哲学博士号を得、その後も勉学に励み、1611年教会法および法学博士となり、弁護士を開業した。正義の闘士として弁護活動を勤め、名声も高くなったが、妨害者も多く現れ、世間のみにくさにあいそをつかし、1612年南ドイツのカプチン会修道会に入り叙階された。フィデリスは修道名で忠実という意味である。1622年カプチン会の管区長はフィデリスをカルヴィン派の狂信者の多かったスイスのグラウビュンデン洲へ派遣した。布教活動は成果をあげたが、反面憎しみをかう結果となり、カルヴィン派によってロヴィスの町で説教中に殺害された。
マルコは主キリストの時代に生まれ、母マリアとともに使徒たちの協力者であった。マルコはキリストの直接の弟子ではなかったが、家族は弟子たちとつながりを持ち、広い邸宅内は信者たちの集会所に使われていた。ペトロが捕らえれた時、信者たちが祈っていたのはマルコの家であり、また一説には最後の晩餐の席、そして聖霊降臨の場所と同じであったと言われている。
マルコのシンボルにはライオンが使われているが、これはマルコ福音書がライオンのいる荒野でのヨハネの宣教から始まっているからである。マルコ福音書はローマの信者たちのによっておもにペトロの見聞した主のことばや行いについて記録されたものである。また、マルコ福音書は最古のものであり、クムランの洞穴で発見された文献の断片はマルコ福音書の一部分で、これは遅くとも50年頃にはすでに書かれていたものであることが立証されている。 マルコはエジプト、アレクサンドリアの最初の司教となり、そこで殉教した。
ペトロ・シャネルは1803年フランスのベレー教区のキユエーに生まれた。子供時代から宣教師になることを志し、勉学に励み、1827年27歳で司祭に叙階された。1836年、ヨハネ・コランが創立したマリスト会に入会し、宣教師として南太平洋の島々に派遣された。しかし、この地方は宣教を妨げる古くからの迷信の多い地方であった。多くの困難の中でフトゥナ王の王子を受洗に導いたが、反感をかう結果となり1841年37歳で殺害された。
聖カタリナは1347年3月25日シエナの染め物屋の24番目の子供として生まれた、末っ子のカタリナはオイフロシネ(快活)という愛称で呼ばれていた。家族の反対にあいながらも、聖ドミニコ修道会に入ることを願い続け、18歳でドミニコ会の第2会員になった。当時、14世紀頃のイタリアは教会を2分する混乱の時代であった。教皇党と反教皇党に分かれ内乱が続き、教皇は南フランスのアヴィニヨンへ流され、国内ではペストの流行もおこり、イタリアは大きな難局に面していた。
詩人のボッカチオらを中心にグレゴリオ1世教皇解放運動がおこったが、成功しなかった。このような混乱の中で、カタリナは書簡をたずさえアヴィニヨンに行き、教皇にローマ帰還を求め、十字軍を組織することを願い出た。教皇は1378年フランス王にローマ帰還の意志を明らかにした。このような国家と教会のはざまで大きな働きをしたカタリナは1380年ローマで倒れ亡くなった。現在シエナ市の中心にはカタリナ大聖堂がある。
1416〜1507
最も小さい者の会創立者
560年頃〜
1357〜1419
1651〜1719
ラ・サール会の創立者
教師の保護者
1030〜1709
ポーランドの保護者
〜563
1033〜1109
280〜303
軍人の保護者
1577〜1622?
公証人の保護者
1803〜1841
1347〜1380