一般ローマ暦に基づく聖人カレンダー/5月

5月

  • 5月1日労働者聖ヨセフ
     聖母の淨配、大工、臨終の保護者

    19〜20世紀初頭、ヨーロッパでは労働者の地位向上と権利要求のための闘争が繰り広げられた。教会も労働者の諸問題に大きな関心を示し、レオ13世とピオ11世は、社会問題と取り組み、労働者の問題に関する回章を出している。教皇ピオ12世は、5月1日を聖ヨセフの保護のもとにおいて、福音の精神に従う勤労感謝の日とした。ヨセフはガリラヤのナザレ村の大工で、マリアの夫、主イエス・キリストの養父。

  • 5月2日聖アタナシオ司教教会博士(記)
    294〜373

     アタナジオは294年にアレクサンドリアに生まれた。両親はギリシャ人。20歳の頃、エジプトの砂漠で隠遁修行をしていた聖アントニオのもとで数年修行をした。当時、アリオが異説を唱え出し、異説は広がる一方で、社会不安さえかもし出したので、ローマ皇帝コンスタンチノは325年に第1回ニケア会議を招集した。  328年アタナジオはアレクサンドリアの司教に叙階され、ニケア公会議の議決に従って、教区内からアリオ派を締出し始めた。しかしアリオ派は教皇をそそのかし、アタナジオをわなに陥れ、アタナジオは追放5回、延べ17年間の亡命生活を余儀なくされた。366年ヴァレンス帝は世論に反対しきれず、アタナジオの追放を解除し、アレクサンドリに呼び戻した。アタナジオは余生の9年間をよく教区を治め、聖書や神学に関する著述を完成し、373年に死去した。  教会は学問に優れ、聖徳に輝く者を教会博士として公認しているが、なかでもアタナジオは最もすぐれた教会博士として「正統神学の父」と呼ばれたたえられている。

  • 5月3日聖フィリポ聖ヤコボ使徒
    聖フリッポ
    聖ヤコボ

    聖フィリポ:さらし業者、帽子製造者の保護者
     聖フィリポはゲネサレト湖畔のベトサイダの生まれ。十字杖やまきものを手に持った姿で描かれる。12使徒の1人。ペトロがイエスに出会ったあとで、フィリポはイエスに出会い主に従った。そのあとフィリポは友人ナタナエルをイエスのもとに連れて行った。キリスト昇天後、フィリポは今のトルコ、フリージアで宣教し、そこで殉教したと伝えられる。

    聖ヤコボ
     ヤコブはヨハネの兄弟ヤコブと区別するために、小ヤコブと呼ばれている。父はアルフェオ、母はマリア・クレオファ。イエスの親戚であると言われている。48年頃のエルサレム公会議で、ヤコブはペトロとともに教会の主な人物であった。エルサレムの司教となり、信者たちから尊敬を受けると同時に、ユダヤ教の信者からも聖人として崇められて、「義人」といわれたがユダヤの祭司長から死刑の判決が下され、石打ちと丸太でうち殺された。ヤコブは棍棒を手にした姿で描かれる。

  • 5月12日聖ネレオ/聖アキレオ殉教者/聖パンクラチオ殉教者

    聖ネレオ・聖アキレオ
     いずれもローマ皇帝の迫害によって犠牲になった初代教会の殉教者。ネレオ・アキレオは実兄弟。1世紀中頃にローマの軍隊に入り、警備にあたっていたが、ドミチアノ皇帝によるキリスト教徒の迫害が激しくなり、残酷な命令にも従わねばならず、軍隊をやめ、ネレオ、アキレオは聖パウロから洗礼を受け、皇帝の近親のフラヴィオ家の皇女ドミチラの下僕になった。2人の影響のもとで、ドミチラは受洗する。ドミチラはある貴族の青年と婚約をしていたが、受洗によってこれを解消し、終生独身を守る決心をした。婚約相手の青年はこれを承知することができず、皇帝にドミチラがキリスト教徒であることを告げたので、3人は4年の流刑となり、棄教を迫られたが、初志をかえることはなく、テラテナで殉教した。ネレオ兄弟とドミチラの遺骨はローマに移され、フラヴィオ家の墓地に埋葬された。

    聖パンクラチオ殉教者
     パンクラチオは小アジア(トルコ)のフリジアに生まれ、のちローマで受洗した。その後熱心な信者となったが、その信仰のゆえにデオクレチアノ皇帝の時に首を斬られて殉教した少年である。500年、教皇シンマクスは聖パンクラチオの墓の上に大聖堂を建てた。聖パンクラチオは古代から崇拝された聖人で、14名の救難聖人の一人であり、特に宣誓の保護者および偽誓の復讐者とされている。

  • 5月14日聖マチア使徒(祝)

     イスカリオテのユダのあと、12使徒の1人に選ばれた。マチアの家柄や生い立ちについては記録が残っていないが、マチアは初めからイエス・キリストの弟子になり、主の公生活、ご苦難、ご復活の目撃者であったことは確かである。マチアはエルサレムで活躍したのち、トルコやカスピ海地方、また遠くエチオピアまで布教したが、現在のロシアのコルキスという町で暴徒の手にかかって殉教したと言われている。その聖遺骨は4世紀聖レナ皇太后の配慮でローマに運ばれ、ドイツのドリール司教座聖堂にうつされた。

  • 5月18日聖ヨハネ1世教皇殉教者
    〜526

     聖ヨハネ1世はトスカナに生まれ、雄弁と模範的生活のために若い頃から著名であった。523年に教皇に選任された。当時のイタリアはアリオ派のテオドリコによって制服されていた時代であった。東ローマ帝国のユスチノ1世皇帝はアリオ派を退ける勅令を出したが、アリオ派を撃退することはできなかった。ユスチノ皇帝の戴冠式後、ヨハネ1世はテオドリコによって捕えられ、526年5月27日、ラヴェンナで獄死した。4年後に遺体はローマに移され、バチカン大聖堂に安置され、偉大な殉教者として敬われている。

  • 5月20日聖ベルナルディノ(シエナ)司祭
     1380〜1444

     ベルナルディノは1380年、イタリアのシエナに近いマッサ市に生まれた。子供の頃に両親を失い、11歳でシエナのおじのもとから学校に通った。1402年22歳でアシジの聖フランシスコ会に入会。司祭叙階後、説教者に任命された。14世紀から15世紀、イタリアはルネサンスの名のもとに人間開放が叫ばれた時代であり、そのような時代の中で民衆に多大な影響を及ぼした説教家として活躍した。

  • 5月25日聖ベダ司祭教会博士/聖グレゴリオ7世教皇/聖マリア・マグダレナ(パッジ)おとめ

    聖ベダ司祭教会博士 672〜735

     聖ベダは672年スコットランドに生まれた。7歳頃からベネディクト修道会のウエアマウス大修道院で学んだ。19歳で助祭となり、さらに哲学、神学を学び、11年後司祭に叙階され、神学博士となった。黙想や祈りとともに勉学と執筆に励み、何よりも聖書知識の普及につくし、多くの黙想書や神学、歴史書を著した。たえまない祈りと学問研究のために体力の消耗も激しく、735年5月26日63歳で亡くなった。

    聖グレゴリオ7世教皇 1020〜1075年頃
     1020年イタリア北部のサヴォナの大工の子として生まれた。少年の頃からローマでグレゴリオ6世(1045年に教皇就任)のもとで学んだ。1049年教皇レオ9世の招きで教会の行政にたずさわることになり、以後5代の教皇に仕え、枢機卿として働くとともに、フランス・ドイツの教皇使節、ローマ教会の助祭長を果した。1073年グレゴリオは教皇に就任。司祭叙階権の改革を行おうとしたが、ハインリッヒ4世の反逆に会い、激しく争った。

    聖マリア・マグダレナ(パッジ)おとめ 1566〜1667
     聖マリア・マグダレナは1566年、イタリア、フィレンツェのパッジ家に生まれた。小さい頃から信仰にあつく、10歳で初聖体を受け、その頃に終生神に仕える決心を固めたと言われている。父がコルトナ市の市長に就任した後、フィレンツェの修道院で教育を受け、16歳頃に、規律の厳しいフィレンツェのカルメル会「天使の聖マリア修道院」に入った。1584年18歳で、初誓願をたてた。その修道生活は「死よりも苦しみ」をモットーに、多くの苦しみに忍んだ。のち修道院長となり、修道院の副委員長ともなったが、大病を得て、1607年5月25日に亡くなった。聖マグダレナ・パッジの御絵は、燃える心臓を胸にし、手に荊の冠を持った姿で描かれる。

  • 5月26日聖フィリポ・ネリ司祭(記)
     1515〜1595
    オラトリオ会の創立者

     フィリポ・ネリは1515年、イタリアのフィレンツェで生まれた。18歳の時、ナポリに近いおじの家の養子となり、跡継ぎになることを期待されていたが、一切を捨ててローマに出た。ローマに出たフィリポは、16年間家庭教師を務めながら、神学の勉強に励み、祈りの生活を送った。1548年33歳の時、「聖三位一体信心会」をつくり、病人や貧者のためにつくした。その後司祭への道へすすみ、1551年、36歳で司祭に叙階された。祈りと節欲の生活をおくり、霊的指導につくした。霊的指導にあてられていた部屋をオラトリオ(祈りの家)とよび、このオラトリオが1575年に創立されたオラトリオ修道会の始まりとなった。フィリポの霊的指導とその事業はローマからスペイン、ドイツ、イギリスなどヨーロッパ各地に伝わっていった。終生霊魂の司牧につくしたフィリポは1595年80歳で祈りながら亡くなった。

  • 5月27日聖アウグチヌス(カンタベリー)司教
     ?〜607

     イギリスはもとは古代ローマの属領であったが、5世紀頃にはキリスト教はほとんど消滅していた。グレゴリオ1世は、アングロ・サクソン民族への布教を志し、596年、ベネディクト会のアウグスチヌスを宣教師としてイギリスに派遣した。時の国王エテルベルトはアウグスチヌス一行を歓迎し、国内の布教を許した。アウグスチヌスは布教に励み、やがて数千人に洗礼を授け、グレゴリオ教皇はさらに多くの宣教師を派遣するとともに、アウグスチヌスをカンタベリー大司教とし、その後司教座を中心に各地を巡回布教を行い、伝道につくした。607年イギリスで亡くなった。

  • 5月31日聖母の訪問
     5月は聖母マリアにささげられた月で「花の月」として信心されてきた。第2バチカン公会議後、それまで7月2日に祝われてきた聖母マリアのエリザベト訪問を5月31日に移した。聖母の訪問の様子はルカ1:39−56に詳しい。マリアはエリザベトを訪ねることでエリザベトを慰め、励まし、またイエスを通してヨハネを清められた。 参考:6月24日洗礼者ヨハネの誕生


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