一般ローマ暦に基づく聖人カレンダー/6月

6月

  • 6月1日聖ユスチアノ殉教者(記)
    103〜?

     ユスチノは103年頃、パレスチナのネアポリス(古代のシケム)に生まれた。30歳で受洗し、哲学神学の勉強に励み、模範的な信仰生活をした。さらに布教にも励み、小アジア、ギリシャの町を訪れ、説教して歩き、そこで学校を開き、哲学やキリスト教を教えた。ユスチノは司祭にはならなかったが、人々から慕われ、尊敬された。その教えは寛容と対話の精神を導くものであった。  時のローマ皇帝アントニノはキリスト教に対しては穏和であったが、ユダヤ人の迫害を行っていた。ユスチノは皇帝に弁明書を送り、ユダヤ人の迫害を中止させた。しかし次の皇帝アウレリオはユスチノを黙殺し続けた後逮捕し、死刑の判決を下され、斬首されて殉教した。

  • 6月2日聖マルチェリノ 聖ペトロ殉教者
     4世紀頃の聖人

     聖マルチェリノと聖ペトロは304年、デオクレチアノ皇帝の迫害の時に、キリストを信じているという理由だけで捕えられ、投獄された。聖ペテロは悪魔払いで高名な役職者であり、投獄された後、守衛のアルテミオの娘を健康な体に直したことから、そのうわさを聞き、ペトロにキリスト教の教えを乞う者が現れ、2人は獄中でキリストの教えを説いていた。このことが発覚すると、アルテミオの家族は鞭打たれ投石の刑を受け、聖マルチェリノと聖ペトロは、ローマから離れた森の中で首を斬られて殺された。遺体は薮の中に埋められた。2人の遺体はルチラとフィルミナという2人の婦人によって探し出され、聖チブルチオの墓のかたわらに埋葬された。のちにコンスタンチノ大帝は、この墓の上に教会を建て、2人の殉教者を称えた。

  • 6月3日聖カロロ・ルワンガと同志殉教者(記)

     北アフリカにキリスト教が伝えられたのは1世紀頃であったが、3、4世紀頃に最盛期を迎え、7世紀には回教が隆盛となった。その後19世紀にはいってからいくつかの修道会が宣教を開始した。聖カロロとその同志は19世紀にアフリカ中部のウガンダで殉教した殉教者たちである。  1879年ルーデル神父を中心に白衣宣教師たちがウガンダに入国。当時ウガンダ国王ムテサは30代目君主として王位にあったが、その宰相カテキロは回教徒たちに支持されていたが不道徳な人であった。ルーデル神父たちはルバガという町で宣教活動を開始し、宗教、学問、農耕技術などについて人々に教え、その心を捉えていた。ルバガに聖母の教会を建て、1880年にカロロ・ルワンガをはじめ多くの者が洗礼を受けた。国王ムサカがカトリックに改宗しようとした時、宰相カテキロはキリスト教を弾圧するために一計をたくらんだ。このため宣教師たちは一時ウガンダを引き上げ、その間カロロ・ルワンガたちが信徒の指導をしていた。1884年国王ムテサが急死し、その息子ムワンガが王位についた。ムワンガはキリスト教徒に好意的ではあったが、悪習にそまり、また宰相カテキロの策略にはまってウガンダに災いを招くことになってしまった。ウガンダでカトリック教会と英国聖公会の信者100人以上の殉教者を出した迫害は1885年11月から1887年1月まで続いた。

  • 6月5日聖ボニファチオ司教殉教者(記)
    680〜?
     ドイツの使徒

     ボニファチオは680年、英国デヴォンシャーのクレイトンで貴族の家に生まれた。修道院付属の学校で学び、ベネディクト会のナースリング修道院に入り、聖書の研究を行った。その後修道院の学校で教師となり、町に出て説教も行った。当時のヨーロッパはローマ帝国が崩壊し、フランク王国が強大な勢力を示しはじめ、その勢力範囲はフランス、オランダ、オーストリア、ハンガリアに及んでいた。旅行と冒険を好んだボニファチオは中部ヨーロッパのゲルマン民族への布教活動を望んだ。716年頃からボニファチオは同僚とともにフリースランド(オランダ)に渡った。718年にはローマに行き、教皇の祝福を受け、フリースランド、ドイツのチューリンゲン、ヘッセなどに行き、布教宣教活動を行った。722年教皇グレゴリオ2世の招きでローマに行き、司教に叙階された。その後ドイツへ帰り、シャル・マルテル(フランク王ペパンの父)の保護のもとで活躍した。  ボニファチオはフランク王国のカトリック教会の堕落に心を痛め、フランクの教会の再建に着手し、742〜744年にかけて4回の会議を招集し、フランクの教会の再建につくした。ボニファチオはドイツの教会が発展するにつれてコロンニュに大司教座を決めようとしたが、フランクの教会の改革を快く思わない一派の暴動によって殉教した。ボニファチオの遺骸はベネディクト回のフルダ修道院に埋葬された。

  • 6月6日聖ノルベルト司教
     1080〜1134

     ノルベルトは1080年、ドイツの貴族の家に生まれた。幼い頃から司祭を志したが、世俗の楽しみを求めはじめ、国王ハインリッヒ5世の侍者となる道を選んだ。しかし、1115年、他の侍者仲間とともに郊外に馬遊びに出かけた折り、聖パウロの回心に匹敵するほどの「なぜ私を迫害するのか」という「声」を聞いたという。それをきっかけに、ノルベルトは宮廷を去り、ジークブルグ修道院に入り、償いにつとめ、ケルンの大司教から司祭に叙階され、説教師として布教活動に従事した。  しかし彼の昔の放蕩をする者たちからは相手にされなかったが、ノルベルトは耐えしのび償いにつとめた。ランの司教がノルベルトを自分の教区に招き、修道会の創立を勧め、1120年ノルベルトはプレモントレ修道会を創設した。その後、当時風紀の乱れていたマグデブルグ教区の大司教となり、教区民の教化につとめ、1134年に死去した。

  • 6月9日聖エフレム助祭教会博士
     306〜378

     聖エフレエムは306年頃、シリア東部のニシビス市に生まれた。子供の頃から手のつけられない腕白者で、いたずらがもとで犯罪人とともに逮捕され、拷問まで受けることになってしまったが、この事件をきっかけに荒野の修行に入り、祈りと聖書研究に没頭するようになった。325年ニケア公会議には助祭として会議に参加した。  4世紀頃のシリアには「キリストは神に似たものにすぎない」というアリオ派の異説がはびこっていたが、弁舌にすぐれたエフレムは正しい教説を広めるために詩歌を創作したり、聖書の注釈を行い、これに対した。またエフレムは福祉の活動にも力を注ぎ、373年頃にエデッサ市がペストと飢饉に襲われた時は献身的にペスト患者を看護した。378年に死去した。  1920年教皇ベネディクト15世によって教会博士とされた。聖エフレムの遺した多くの詩歌は司祭の聖務日祷に引用されている。

  • 6月11日聖バルナバ使徒(記)
  •  バルナバは「慰める」、慰めと励ましの能力を持つ者という意味である。イエスに選ばれた12使徒には入っていなかったが、使徒に匹敵する働きをした。  キプロス島に生まれ、エルサレムに学び。その時、キリストの説教を聞いて、72人の弟子に加わった。主のご受難、ご死去、ご復活の証人となり、キリスト昇天後は聖母マリアをはじめ、他の弟子たちとともに聖霊降臨に出会った。聖書には「彼は聖霊と信仰に満ちたよい人であった」(使徒11:24)と記されており、柔和と強調性に富んだ人で、パウロのよき協力者であった。

  • 6月13日聖アントニオ(パドア)司祭教会博士(記)
    1195〜1231
    紛失物、貧困の保護者

     聖アントニオは1195年ポルトガルのリスボンで貴族出の将校の子として生まれた。10才頃から司祭だったおじのもとで学び、15才でアウグスチノ会に入会したが、父母の心がかわり、退会し帰宅するように言われたが、アントニオは志しをかえず、親族の家から遠いコインブラの修道院にうつった。当時コインブラの修道院にはフランシスコ会の殉教者の5人の遺骨が安置されており、その前で祈るうちにアントニオはこの殉教者のあとに続くことを決心し、フランシスコ会にうつり、アシジの修道院に入った。1222年イタリアのフォルリ市で催された新司祭祝賀の席での説教で人々に深い感銘を与え、その後アントニオは巡回説教師に任ぜられ、イタイア、フランスを巡り、多くの人を回心に導いた。1231年、アントニオは過労のため36才の若さで死去した。遺骸はパドアの聖堂に安置されたが、その墓では多くの奇跡が起こったと言われている。死後1年たたないうちにアントニオは教皇ゴレゴリオ9世から列聖された。

  • 6月19日聖ロムアルド修道院長
       〜1027
    カマルドール会の創立者

     聖ロムアルドはイタリアのラヴェンナの裕福な貴族の子として生まれた。20才頃までは世の歓楽を求め、金も使い放題使うという安逸な生活をむさぼっていた。しかしある時、ロムアルドの父は財産のことで親戚の者といざこざをおこし、父は相手を殺害してしまった。ロムアルドは父に荷担していたので、共犯者としての罪意識にさいなまされるようになったが、この大きな事件をきっかけにベネディクト会修道院に行き、40日間の苦行を行い、後、隠修士マリノの指導をあおぐようになった。しかし、これまでの不勉強がたたり、ラテン語すら満足に読むことができない彼にとって、人よりも厳しく苦しい修道生活となったが、やがて、その聖徳は世に広まり、各界の名士たちがロムアルドのもとを訪れるようになった。しかし、彼はこれを避け、北イタリア、南イタリアの各地を訪れ、数多くの修道院を設けた。1012年はイタリアのカマルドリにベネディクト会会則に基づいた修道院をたて、カマルドール会と名ずけた。  1020年にはシトリオ山上にも修道院をたて、そこに6年間とどまったが、この地にいる時に、修道院に入った一人の青年が恩師であるはずのロムアルドのいましめを恨み、ひどいうわさを流したために、教会当局からミサを献げることさえ禁止されたが、彼はその屈辱を償いとしてささげ、疑いがはれた後、1027年ヴァレ修道院の近くで亡くなった。

  • 6月21日聖アロイジオ・ゴンザガ修道者(記)
    1568〜1591

     聖アロイジオは1568年イタリア北部のカスチリオネにゴンザガ侯爵の長男として生まれた。父は軍人であり、信心ごとを好まなかったが、母はスペイン王室の女官をつとめた信仰深い人であった。1580年、12才の時、聖カロロ・ボロメオから初聖体を受け、イエズス会に入会したいと父に打ち明けたが、猛反対を受け、以後、6年にもわたって長い根くらべが続いた。しかし、17才の時、ようやく父の許しを得て、修練院にはいった。1591年頃、ローマにペストが流行した時、アロイジオは献身的に患者たちにつくし、ローマでは誰一人知らない者はいないほど有名になり、ローマの隅々にまで非常な尊敬をもって、アロイジオのことが語られたと言う。しかし、とうとうアロイジオ自身がペストにかかり、1591年24才の若さで亡くなった。

  • 6月22日聖パウリノ(ノラ)司教 聖ヨハネ・フィッシャー司教 聖トマス・モア殉教者

    聖パウリノ(ノラ)司教 353〜
     聖パウリノは353年フランスのボルドーに生まれた。両親はカトリックの改宗者だったが、あまり熱心な信徒ではなく、パウリノは洗礼も受けていなかった。パウリノは勉学に励み、25才でガリア(今のフランス)の総督の任命され、その後、イタリアのカンパニアの総督に栄転した。そこで信心深いテレシアと結婚し、信仰に目ざめ、389年受洗。パウリノは洗礼の約束どおり、「悪魔とそのすべてのわざとそのすべての栄華を捨てる」ことを決心し、公職から離れ、自分の財産をすべて売り払い、貧しい人々に分かち与えた。393年のご降誕の祝日に司祭に叙階された。その後も修養に心掛け、貧者と病人のためにつくし、祈りと苦行に没頭した。パウリノの徳をしたって多くの人々が集まり、また409年ノラの叙階され、貧しい人々のために生涯つくした。

    聖ヨハネ・フィッシャー司教 1459〜1535
     ヨハネ・フィッシャーは1459年ヨークシャ洲のビヴァリーに生まれ、のち、ケンブリッジ大学で神学を学んだ。1491年文学博士の学位を得、司祭の聖務を果すとともに母校で神学を教え、1504年ケンブリッジ大学の総長となった。同年国王ヘンリー7世は、フィッシャーをロチェスターの司教とし、宮中の顧問に任命した。1509年ヘンリー8世が王位につき、熱心にカトリックを支持していたが、離婚問題がからんでカトリックの敵となった。1534年ヘンリー8世は自ら英国教会の首長となり、説教の内容にまで口出しするようになり、フィッシャー司教をトマス首相とともにロンドン塔に閉じこめてしまった。1535年フィッシャー司教は首長界の宣誓をこばみ、国王を裏切ったという罪で、死刑の判決を受けた。

    聖トマス・モア殉教者 1478〜1535
    弁護士の保護者 

     ヨハネ・フィッシャー司教と同様にヘンリー8世によってロンドン塔に幽閉された殉教者である。  モアは1478年ロンドンの法曹実務の伝統を受け継ぐ富裕な家柄に生まれた。幼い頃に母がなくなり、父のもとで厳格にしつけられた。やがて父の勧めで法律を学び、ロンドンで弁護士を開業した。25才で衆議院議員に初当選した。やがてヘンリー8世の時代、モアは再度政界に戻り、すぐれた指導力を発揮し、1529年宰相に任命された。しかし、教皇レオ10世から「信仰の擁護者」という称号まで授けられていたヘンリー8世は、離婚問題によって、ローマと対立するようになり、トマス・モアとヨハネ・フィッシャー、そしてカルトジオ会の修道士たちは国王に反対する側にまわり、トマス・モアも反逆罪に問われ、裁判にかけられた。1535年7月トマス・モアの処刑判決が出された。

  • 6月24日洗礼者聖ヨハネの誕生(祭)

    洗礼者ヨハネの誕生
     ヨハネの父はユダヤ教の司祭で名をザカリア、母はマリアのいとこでエリザベトであった。2人には子供がなかったが、ある日ザカリアが神殿で香をたき祈っている時、ヨハネの誕生を告げる天使の言葉を聞いた。ザカリアが神殿から出ると、口がきけなくなっていた。その数日後、妻エリザベトは身ごもった。それから6ケ月後、マリアは大天使のお告げを受け、エリザベトと懐胎を知り、マリアはエリザベトを訪ねた。ヨハネは「神に恵まれる」の意味であり、ヨハネは恵みによって聖とされ、神の子供として生まれたと解釈されている。ヨハネはヨルダン河畔の荒野で苦行の生活をし、キリストの先駆者としての準備をした。キリストはヨルダン川に来られ、ヨハネから洗礼を受けた。 参考→8月29日洗礼者ヨハネの殉教

  • 6月27日聖チリロ(アレキサンドリア)司教教会博士
     〜442

     チリロはエジプトのアレクサンドリアに生まれた。若い頃から司祭への道を志し、哲学と神学を学び、司祭となった。その後、エジプトの砂漠で修行をし、さらにエルサレムの司教ヨハネのもとで教えを受けた。  412年、アレクサンドリアの総主教となったが、この頃、ノヴァチアノ派の異説(信仰を放棄した背教者や大罪を犯した信者を許さず、教会への復帰をみとめないという説)がおこり、聖チリロはそのような異端の教会を閉じさせた。また429年には、ネストリオがコンスタンチノープルの総主教となり、説教や著書で異説を広めはじめた。聖チリロはネストリオの異説に反論し、真っ向から異説と戦った。しかしネストリオはコンスタンチノープルの総主教として東ローマ帝国の信任を得ていたのを利用してチリロを惨訴した。聖チリロは32年間アレクサンドリアの総主教をつとめ、442年に亡くなった。聖チリロは教皇レオ13世から聖会博士の称号を贈られ、東ローマ教会の4人の教父の一人となっている。またネストリオの異説に対する神学上の功労のゆえに、聖母マリアの神学博士とよばれている。

  • 6月28日聖イレネオ司教殉教者(記)
     135〜200頃

     イレネオは135年頃、今のトルコのスミルナに生まれ、スミルナの司教聖ポリカルポのもとで学んだ。177年、ローマ皇帝アルコ・アウレリオがキリスト教禁止令を出し、多くの信者がとらえられ、殉教した。次の皇帝になったコモドは教会への弾圧をやめたので、イレネオはリヨン市を中心にさかんに布教活動を行ったが、グノーシスの異説があらわれ、教会内部に混乱が生じたが、イレネオは豊かな学識と信仰によって信者を導いた。イレネオの活動によって、リヨン市の教会は盛んになったが、政権の交替で再び迫害を受けるようになり、イレネオも200年頃に捉えられ、殉教した。

  • 6月29日聖ペトロ聖パウロ使徒(祭)

     ペトロはゲネサレト湖畔のベトサイダの生まれ。最初の名はシモン、ペトロという名はイエスから頂いた名であり、「巌・いわお」の意味である。暖かな心と人間の弱さを合わせもった人。イエスは「あなたは巌である。この巌の上に私の教会を建てよう」といわれ、ペトロの厚い信仰の上に教会を創立した。4世紀頃、ローマでの大埋め立て工事の時、コンスタンチヌス皇帝は墓地の上に聖ペトロにささげる教会を建てた。16世紀頃、バチカンの聖ペトロ大聖堂が建立された。1世紀初め〜67年没。

     パウロはキリストの時代に小アジア(今のトルコ)のタルソに生まれ、もとの名はサウロ。パウロは地中海沿岸の諸国を巡ってキリスト教を広め、世界的宗教の基礎を築いた。パウロは青年の頃にエルサレムに学び、ガマリエルの弟子となりファリサイ派の律法狂信者であった。キリストの死後、エルサレムに行き、キリスト教徒迫害の先頭にたった。聖ステファノの殉教にも立ち会い、その後、キリスト教徒の逮捕のためにダマスコへ行く道の途上でキリストの声を聞き、回心した。それから死の時まで、諸国を伝道旅行し、布教に努め、多くの教会を建て、各地の信徒に手紙を送った。 参考→11月18日聖ペテロ教会と聖パウロ教会の献堂

  • 6月30日ローマ教会最初の殉教者たち


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