10月
テレジアは1873年、北フランスのアランソンで、マルタン家の11人の子供の末っ子に生まれた。5歳で母を失い、父マルタンによって育てられた。9歳の時にすでに修道院に入っていた2人の姉のあとを追い、カルメル会に入会を志願したが、年が若く許されなかった。15歳で、リジュのカルメル会に入会した。聖テレジアは誰でも歩める霊的幼児の道を開拓し、わずか24歳の短命であったが、心を尽くし、力を尽くして、神と隣人を愛した聖人である。
各人が自分の守護の天使をもっていると思う理由はマタイ19:10にあるキリストの言葉から、「あなたたちは、これらの小さな子ども1人も軽んじないように気をつけなさい。あなたたちに言っておく。彼らの天使たちは、天において天におられる私の父のみ前にいつも立っているからである」。守護の天使は神の国の大使であり、神のメッセージを伝え、神の祝福を取り次いでくださるものである。
フランシスコは1182年、イタリアのアシジの裕福な織物屋の息子として生まれた。19歳の時、フランシスコはアシジ軍に加わったが、敗戦捕虜として約1年間ペルジアに抑留された。1203年、保釈後まもなく重病にかかり、この病気の間に神に心を集中したが、回復するとまたもとの世俗の生活に戻った。その後南イタリアでの戦争に加わったが、従軍の途中で病気になりスポレトの町に取り残されてしまった。病床にあったフランシスコは「家に帰りなさい」という主の声に従い、祈り、主からの指示を願い続けた。フランシスコの清貧の理想は「ただ何も持たない」だけではなく、勤勉な働きを基本として教会の発展や、人々の救霊に役立てることにあった。やがて同志が増え、フランシスコは教皇イノセント3世から許可を得て「小さい兄弟会」のちのフランシスコ会を創設した。1921年にはクララを指導し、クララ会を創設、のちに在俗信者のための第三会も設立した。1228年、教皇グレゴリオ9世によって列聖された。
聖ブルーノは1032年、ケルンの貴族の子として生まれた。レンスとパリで学び、司祭となってから十数年間、レンス大司教座付属神学校で教えた。教え子のなかには教皇ウルバノ2世をはじめ多くの名士がいる。ブルーノはレンスの大司教から教区内諸学校の教育顧問を任ぜられ、大きな信頼のもとに働いていたが、大司教の死後、聖職売買によって司教となったマナッセスは暴政を行い、ブルーノを追放した。ブルーノは世俗に嫌気がさして、1084年に同志6人とグルノーブルに赴き、そこで修道生活をはじめた。これがシャルトルーズ修道会の始まりである。ブルーノはここで6年を過ごしたが、ブルーノの聖徳に深い敬意を払っていたウルバノ2世からローマで宰治顧問官の職につくようにとの命をうけ、ブルーノはローマに向かった。ローマでは日々多忙な生活を送ることになり、ブルーノは荒れ野での生活を懇願し、1090年隠遁のための生活地をスキラシの教区内に求め、弟子らとともにもとの生活に戻った。
聖ブルーノの主要著作は詩編と聖パウロの書簡の注解であり、ブルーノはヘブライ語とギリシャ語に精通し、翻訳も行った。祈りと苦行の生活の中で、1101年、69歳で亡くなった。
10月7日はロザリオの聖母の記念日であるが、これは1571年レパントの海戦におけるキリスト教軍の大勝利を祝ったことによるものである。グレゴリオ13世によってロザリオの祝日が10月の第1主日と定められた。19世紀には教皇ピオ9世および教皇レオ13世はロザリオについての回勅を出している。
ロザリオはラテン語のローザ(バラ)に由来し、バラの花園とか、バラの花冠という意味がある。ロザリオの祈りは主祷文、天使祝詞、栄唱の3つから成り立っているが、ロザリオの祈りは親しみやすいものであり、この祈りを唱えることによって、主イエズスの生涯を黙想する。
聖ヨハネ・レオナルディ司祭
聖ヨハネ・レオナルディ司祭 神の母の聖職者会の創立者 1543〜
聖カリストは奴隷の出身であったが、のちに教皇となり、聖人となった。カリストは2世紀初め頃、ローマにいた奴隷出身の将校の奴隷であった。主人の信仰にならってキリスト信者になったが、当時のローマではキリスト教は禁止されており、カリストはサルジニア島へ流されたが、皇后マルチアのはからいで恩赦を受け、自由の身でローマに戻った。カリストは時の教皇ゼフィリノの目にかない、司祭となり、アッピア街道どいの墓地の監督を命じられた。カリストは墓地の管理の任をよく果し、教皇からあつい信頼を受け、217年ゼフィリノ教皇死後、カリストは16代目の教皇となった。
最も古い殉教録によると、聖カリストは222年のキリスト教徒に対する暴動の際、トラステベレで虐殺されたという。1960年にアウレリア街道のカレポデォオ墓地にカリスト1世の墓が発見された。
アビラの聖女テレジアは十字架の聖ヨハネと共に16世紀のスペインにおいて、カルメル会の神秘思想を樹立した聖人である。
テレジアは1515年、スペインのカスチリア洲アビラ市に生まれた。12歳で母親を亡くし、14歳の時、父はテレジアをアウグスチノ女子修道院にあずけたが、健康を害し、親のことにもどった。そして、19歳の春にアビラの女子カルメル会に入会した。テレジアはカルメル会の刷新に努力を傾けたが、容易ではなかった。1562年、女子跣足カルメル会が生まれたが、改革を喜ばない他の修道女たちから非難攻撃を受け、テレジアは宗教裁判に訴えられ、投獄された。
カルメル会の改革後テレジアは各地に18の修道院を創設し、さまざまな困難に立ち向かっていった。聖テレジアは十字架の聖ヨハネをはじめ、多数の霊的指導者となった。苦行、犠牲、謙遜という十字架の道を歩んだテレジアは、1582年10月67歳でなくなった。
ヘドビッヒは1174年、南ドイツのパウリアリア洲アンデックス城に生まれた。当時の貴族の習慣に従って、幼い頃からチッテンゲンのシトー会修道院に預けられ、宗教、文学、手芸等を学んだ。12歳で、父の侯爵は家の勢力拡大のため、ヘドビッヒをポーランドのハインリッヒ1世と結婚させた。13歳で母となったが、2人の子供は育たず、多くの苦しみを経て、ヘドビッヒは彼女独特の愛の慈善の福祉事業を実行しはじめた。
大勢の病人や貧しい人々を助けながら、種々の社会問題の背後にある人の心の問題に目を向け、救いとなぐさめのために教会と修道院をたてた。老後はトレプニッツの修道院で最後の年月を過ごし、1243年10月69歳で亡くなった。24年後の1267年、教皇クレメンス4世から列聖された。
ルカはキリストの時代に生まれ、シリアのアンテオキアでギリシャ人の上流家庭に生まれ、医師であった。聖パウロの死後、ルカの活動については不明なところも多いが、主にギリシャで布教し、そこで殉教したと伝えられている。ルカ福音書、使徒言行録を著した。パウロは67年ローマで壮烈な殉教をとげたが、それを見届けたルカはギリシャに赴き、アカイヤに布教し、さらに小アジアで伝道し、独身のまま、84歳で帰天。
聖ルカは医師の保護者と仰がれており、1932年以来オーストラリアにカトリック医師の聖ルカ・ギルドが生まれ、その後ドイツにも成立し、ベルギーには1922年以来、聖ルカの医師会が結成された。
聖パウロ(十字架の)司祭 1694〜1775
十字架のパウロは1694年1月3日、北イタリアのオバータに生まれた。20歳の時、イタリアの軍隊に志願したが、2カ月後には戦争よりも自分の心との戦いが必要と悟り、同志をつのって黙想生活に入った。その後ローマで教皇ベネディクト14世から司祭に叙階され、許可を得て、キリストのご受難についての黙想と伝道に集中することを目的とした御受難会を創立した。1771年には女子の御受難会が創立された。十字架のパウロは御受難会の総長として約40年間会の指導にあたり、1775年10月18日81歳で亡くなった。
14世紀末から15世紀はじめにかけて、イタリアには巡回説教家とよばれる人が登場したが、聖ヨハネ(カペストラノ)司祭はそのような説教家の一人である。
ヨハネは1386年、イタリアのカピストラノにドイツ人の男爵の子として生まれた。14歳でペルジアの大学に入り、ローマ法、教会法等を学び、26歳で裁判官に任命された。ところがペルジア市とリミニ市との争いで、逮捕され、ヨハネはリミニ市の拘置所に留置された。脱走に失敗し、再び拘置されたとき、聖フランシスコの出現に出会い、フランシスコ会修道院に入会を願った。しかしすぐには聞き入れられず、試練ののち、入会し、司祭となり、シエナの聖ベルナルディと共にイタリアの各地方を回って説教した。1456年死去。
クラレは1807年12月スペインのバルセロナ洲カタロニアのサレントの町に織物職人の三男として生まれた。21歳の時、司祭への道を志し、1835年6月27歳で司祭に叙階された。30歳でローマに生き、イエズス会会員と共に修練の黙想をし、イエズス会会員になるつもりでいたが、時のイエズス会の総長の勧めでカタロニア市に戻り、ローマ聖省派遣の宣教師として巡回説教師となった。布教の効果を高める方法としてパンフレットや印刷物をつくることを思いたち、神父の著作は144種、総ページ2万1千ページ、160版に及んだ。1849年7月、宣教師、説教家としての体験から、「聖母マリアの汚れなきみ心の愛子宣教会」クラレチアン宣教会を創立した。1851年にはキューバの大司教に任命され、人種差別に反対し、奴隷解放にもつくした。1857年にはスペインに戻り、宮廷顧問となり、1868年、スペインが共和制になるまで11年間スペイン宮廷につかえた。さらに1869年12月からはじまった第1回バチカン公会議に参席し、教皇の不可謬性について熱弁をふるったが、公会議の最中に倒れ、1870年10月24日63歳で帰天。1950年5月7日、ピオ12世教皇より列聖された。
1873〜
1182〜1226
聖フランシスコ会の創立者
1032〜
シャルトルーズ会の創立者、悪魔つきの保護者
聖ディオニジオは9年頃、ギリシャのアテネの裕福な家に生まれた。繁栄したギリシャ文化の中で育ち、哲学、文学、天文学などを学び、さらにエジプトのアレキサンドリア市に学び、その後故郷のアテネに戻り、司会議員となった。次いでアテネ共和国の最高裁にあたるアレオパグ会議員となった。当時使徒聖パウロは小アジア(トルコ)からアテネで布教しており、ディイニジオはパウロの教えを受け入れ、アテネ教会の熱心な信者になり、アテネ市の司教に就任した。ガリア布教に尽くし、パリの初代司教となったが、新たな迫害によって、首を切られ、殉教した。
聖ヨハネは、1543年イタリアのトスカナ洲で7人兄弟の末子として生まれた。20歳で父が病死、その後司祭への道を志し、1571年28歳で叙階した。任地ルッカで司牧に励み、青少年にカトリック要理をおしえ、カトリック青年会の指導司祭となり、1574年、聖フィリポ・ネリ(5月26日参照)の援助で「神の母の聖職者会」を創設した。ローマではフィリポ・ネリの信頼のもとに弟子として生活し、また、のちの枢機卿ヨハネ・バプティスタ・ビベスと共に信仰弘布神学院の基礎を築いた。1609年、66歳で亡くなった。
1515〜1582
女子跣足カルメル会の創立者
聖ヘドビッヒ1174〜1243
24年頃にシリアのアンテオキアに生まれる。没年は107年から117年頃。
69年、45歳の時、アンテオキア(今のトルコ)の司教に叙階された。38年間、アンテオキアの教会を治めた。
106年にトラヤヌス帝のパルチア遠征の際、逮捕され、競技場で猛獣に殺されるという死刑の判決を受けるためにローマに護送された。殉教地にむかう途中で書いた7つの手紙によって名が知られている。7つの手紙とは、ローマに送られる途中5つの町に寄港し、その5つの町に感謝と励ましの手紙をおくった。6番目は聖ポリカルポにあてた手紙、7番目はローマ教会への手紙である。
医師、画家、ガラス絵の保護者
御受難修道会の創立者 警察官の保護者
1386〜1456
1807〜1870
クラレチアン宣教会と宣教修道女会の創立者