一般ローマ暦に基づく聖人カレンダー/12月

12月

  • 12月3日聖フランシスコ・ザビエル司祭(祝)
    1506〜1552
    日本宣教・囚人・火難と嵐よけ・坑夫・建築家・設立者の保護者

     フランシスコ・ザビエルは1506年スペインのナバラ地方のザビエル城で生まれた。18歳の時からパリ大学で学び、そこでイグナチオと出会い、仲間とともに、イエズス会を創立した。フランシスコ・ザビエルは聖イグナチオのもっともすぐれた弟子の一人である。

     1537年、31歳で司祭となり、ポルトガル国王の要請とイグナチオの命令により、教皇パウロ3世の使節として東洋布教にのりだした。マラッカで亡命日本人アンジロウと出会い、1549年8月15日聖母被昇天の日に鹿児島に上陸した。鹿児島、平戸、そして山口を経て、京都までやってきたが、時の将軍には力はなく、山口の大内義隆によって日本布教の許可を受けた。インド、中国、日本への布教の基礎を築いた聖人である。

  • 12月4日聖ヨハネ(ダマスコ)司祭教会博士
     675〜749
    法律学者の保護者

     聖ヨハネは675年頃にシリアのダマスコ市に生まれた。父は熱心なカトリック信者でダマスコ市の総督だった。ダマスコは東西を結ぶ交通の要地であり、また使徒聖パウロの回心した地としても知られているが、635年ローマの属領から離れて、回教徒の占領下におかれた。  聖ヨハネは父のあとをついでダマスコ市を治めていたが、その当時東方教会では、聖画像を偶像崇拝とみなす異端的考えがおこり、聖ヨハネはこの異端と戦った。その後、ヨハネは官職を辞し、エルサレムに近いサバス修道院に入って司祭への道を歩んだ。749年エルサレムで死去。死後38年目にニケア公会議で聖画像崇拝の正当性が立証された。性ヨハネは数々の偉業からダマスコ市の川名にちなみ、クリソロアス(黄金を流す者)と呼ばれている。

  • 12月6日聖ニコラオ司教
     4世紀
    酒屋、パン屋、質屋の保護者
    ロシアの聖人
    サンタクロースの名で知られる聖人

     聖ニコラオは270年、小アジア(今のトルコ)のリシア洲パタラに生まれた。ニコラオは哲学、神学を学んで司祭となり、エーゲ海に面したミーラ(今のデムレ)で布教活動を行った。ニコラオの生きた時代はディオクレチアヌス帝の迫害が厳しい時代であり、302年ミーラの大聖堂も破壊された。313年、コンスタンチヌス大帝の信教の自由令後、ニコラオは教会の復興に努めた。聖ニコラオについてはさまざまな伝説も伝えられているが、人々を心から愛し、困っている人を助け、多くの信徒を慰め、励ました聖人である。サンタクロースとしてなじみ深い聖人でもある。

  • 12月7日聖アンブロジオ司教教会博士(記)
    334〜397
    雑貨商、ローソク商人の保護者

     聖アンブロジオは340年、ローマ貴族の子としてドイツのトリエルに生まれた。ローマで古典やローマ法を修め、32歳でソグリア・エミリア両州の長官となった。374年11月、ミラノ司教アウクセンチオが死去すると、その後継者の選出にあたってアリウス派とカトリック信者との間に衝突がおこった。ミラノ長官であったアンブロジオは両者の仲裁に努めたが、まだ受洗するしていなかったアンブロジオを司教にという声があがり、11月30日、アンブロジオは洗礼を受け、12月7日にミラノ司教に就任した。その後23年間、ミラノで祈りと神学研究、説教、著述、そして慈善につくした。神のため隣人のために働いたアンブロジオは397年、57歳で亡くなった。

  • 12月8日無原罪の聖マリア(祭)

     1854年、12月8日、ピオ9世は、神が聖書を通し、教会の伝統を通して啓示されたものであることを承認し、「人類の救い主キリスト・イエスの功績を考慮して、処女マリアは全能の神の特別な恩恵と特典によって、その御宿りの最初の瞬間において、原罪のすべての汚れから前もって保護されていた」と宣言し、信仰箇条となった。

  • 12月11日聖ダマソ1世教皇
     305〜384

     聖ダマソは305年頃、スペイン系のラテランの官吏の家に生まれた。皇帝ディオクレチアヌスの迫害の時代のことである。ダマソが8歳の時、コンスタンチヌス大帝はローマ帝国全土に信教の自由を与え、カトリック教会を保護した。ダマソは司祭への道を選び、355年、教皇リベリオの補佐司祭となった。アリウス派が勢力をのばし教会の分裂を図り、教会混乱の時代を生きた聖人であるが、信仰の基礎となる聖書の重要さを痛感し、聖ヒエロニモに聖書のラテン語訳を依頼して完成させ、これをローマ帝国内に普及させた。有名なブルガタ(一般普及版)訳聖書というのがこれである。ダマソは18年間教皇座にあり、384年80歳で亡くなった。

  • 12月12日聖ヨハンナ・フランシスカ・シャンタル修道女
     1572〜1641

     聖ヨハンナは1572年、フランスのディジョン市の貴族フレミオ家に生まれた。1592年、カトリク信者のシャンタル男爵の結婚し、ブールブル城に住んだ。29歳の時、夫が流弾事故でなくなった。33歳の時、ディジョンで四旬節の黙想指導にあたっていた聖フランシスコ・サレジオの説教を聞き、指導を願い出た。1610年、アンスシーでサレジオの考えを受け継ぎ、3人の友と修道生活を始め、聖母訪問修女会(日本の聖母訪問会とは別である)を創立した。聖ヨハンナはサレジオ的な信心生活の理想どおり神秘的観想生活と慈善的活動生活を一致させて会員を導き、75の修道院を建て、1641年亡くなった。

  • 12月13日聖ルチアおとめ殉教者(記)
    秘書の保護者

     聖ルチアはイタリアのシシリー島のシラクサに生まれた。両親は熱心なキリスト教徒で、ルチアは名のとおり「生活の光」として育てられた。ルチアが生きた時代はディオクレチアヌス帝の迫害の時代であった。ルチアはガイオという青年貴族との縁談があった。しかし、ルチアが自分の財産を貧しい人に分け与えたことから、ガイオによってルチアがキリスト教徒であることを訴えられ、逮捕されて、殉教した。

  • 12月14日聖ヨハネ(十字架の)司祭教会博士(記)
    1542〜1591

     十字架の聖ヨハネは、1542年スペインのトレドに近いフォンティペロスという小さな町に生まれた。本名をファン・デ・イエペスという。父はもとは貴族の出身であったが、身分の低い娘と結婚したために勘当され、ヨハネが生まれたあとで、極貧の中でなくなり、ヨハネは信心深い母によって育てられた。

     14歳でイエズス会経営の学校に通い、修道者を志願して、メジナのカルメル会に入会した。十字架のヨハネは修道名である。サラマンカ大学を終えた後、ヨハネはイエズスのテレジア(大聖テレジア)と出会い、精神に通じ合うものを互いに認め、テレジアは男子カルメル会の改革のために十字架の聖ヨハネに協力を求めた。修道会の改革に伴い、1977年ヨハネは反対に捕えられ、裁判の後、トレドに幽閉された。9か月の獄舎生活の後、1981年、教皇グレゴリオ13世の勅書を得て男子カルメル会は独立した管区をもった。ヨハネは数か所に修道院を設立した。しかし、聖テレジアの死後、修道会の中での意見の違いから聖ヨハネはすべての役職を解かれ、一修道士としてメキシコに赴任を命じられたが、準備中に熱病にかかり、1991年49歳で亡くなった。

     

  • 12月21日聖ペトロ・カニジオ司教教会博士
      1521〜1597

     聖ペトロ・カニジオは1521年オランダのニムヴェーゲン市の市長の息子として生まれた。15歳で大学に入り、20歳で哲学博士となった。3年後にマインツで最初のドイツ人志願者としてイエズス会に入った。1546年、25歳で司祭となり、その翌年にトリエント公会議の神学顧問としての職責を果した。その後ローマで聖イグナチオと出会い、1549年、聖イグナチオのもとで盛式誓願を立て、ドイツ布教のためにつくした。聖ボニファチオに次ぐドイツの第2の使徒と言われる聖人である。1925年、教皇ピオ11世によって列聖され、教会博士の称号を与えられた。

  • 12月23日聖ヨハネ(ケンティ)司祭
      1390〜1473

     ヨハネ・ワチェンガは1390年、ポーランドのクラカウに近いケンティに生まれた。1413年、クラカウ大学に入り、卒業後、同大学の文学教授となり、1443年に神学教授となった。ヨハネは哲学、神学の学問研究に高い業績をあげるとともに、貧しい人々への愛と信仰にあつい人であった。1473年83歳で亡くなった。1767年に教皇クレメンス13世から列聖された。

  • 12月25日主の降誕(祭)

    言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た(ヨハネ1:14)

  • 12月26日聖ステファノ殉教者(祝)
    聖ステファノ殉教者
     石工・石材屋の保護者

     ?〜37年頃 教会最初の殉教者。ステファノはギリシャ語で「冠をいただいた者」の意。聖霊降臨後、初代教会は使徒たちの努力で発展し、信者の数もふえていった。信者たちのなかから7人の助祭が選ばれ、ステファノもその1人であり、人々の信望を集めていた。一方でユダヤ教徒たちのねたみと敵意をあおり、ステファノは捕らえられ、石殺しの処刑にあった。サウロ(のちの使徒パウロ)はステファノの処刑に加担していたが、ステファノの殉教はサウロの回心を導いた。

  • 12月27日聖ヨハネ使徒福音記者(祝)

     12使徒の1人。ゲネサレト湖畔のベトサイダの生まれで、漁師であった。雷の子というあだ名があり、イエスの愛された弟子、愛徳の使徒と言われる。ヤコブの弟。聖霊降臨後、ヨハネは福音書と3つの手紙を著した。ヨハネの福音書は90〜100年の間に書かれたものと言われている。

     パウロの殉教後、ヨハネはエフェソの司教となり、数十年の間、小アジアの教会の牧者となった。スミルナの司教ポリカルボとその弟子イレネオ、ヒエラポリスの司教パピアスなどはヨハネの弟子。晩年には高齢のために歩くことができなくなると、弟子たちに支えられて信者たちの前に出たが、いつも「わが子どもたちよ、互いに愛しなさい」という言葉をくりかえした。同じ説教にあきた信者たちが「なぜいつも同じ言葉を繰り返すのか」とたずねると、ヨハネは「主の掟である。これを守りさえすれば十分である」と答えた。

  • 12月28日幼な子殉教者(祝)

     イエスはヘロデ王の時代にユダヤのベトレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からヘロデ王のもとにやってきて「ユダヤ人の王はどこにいますか」とたずねた。ヘロデ王は自分の真意を隠して、東方からの3博士にユダヤ人の王を見つけたら知らせるようにと言い、ベツレヘムに送った。しかし3人の博士たちは夢のおつげの通り、別の道を通って帰った。ヨセフもまた天使のお告げを受けて、旅の支度をし、夜のうちにイエスとその母をつれて、エジプトに向かった。まちぼうけをくわされたヘロデは怒り、ベトレヘム周辺の2歳以上のすべての男の子を殺すように命じた。救い主キリストのみがわりとなって殉教した多くの幼子たちへの神の恵みと賛美を奉げる日。

  • 12月29日聖トマス・ベケット司教殉教者
    1118〜1170

     トマス・ベケットは1118年にロンドンで生まれた。少年時代をメルトンの修道院で過ごし、23歳でパリ大学に留学した。その後、大司教の書記に採用され、秘書としてローマを始めヨーロッパの諸都市を訪ねて見聞を広め、イタリアのボローニャ大学で教会法も学んだ。帰国後、カンタベリー大司教区の副教区長に任命され、国務大臣も兼任した。やがてトマスは国王の推薦を受け、カンタベリー大司教に任命されたが、国王には思惑があり、教会の権力を国王のものとするためトマスをその道具としようと企てていた。ノーザンプトンの教区長会議で国王はトマスに教会の権利を王に渡すように要求したが、トマスは「チェザレのものはチェザレに返し、神のものは神」という原則を貫いた。会議での王側の失敗によって、身の危険を避けるためトマスはノルマンディに逃れた。トマスは5年間ノルマンディーに滞在し、1170年にカンタベリーに戻った。しかしトマスは国王の反逆者としてヘンリー2世によって暗殺された。

  • 12月30日(聖家族=主の降誕が主日に当たる場合(祝)

     家族は社会の基礎的な単位である。神は深い憐れみと愛によって聖家族のイエス、マリア、ヨセフを家庭の手本として与えられた。教会は古くから聖家族にならうことを目的とし、ピオ9世教皇はこれを大兄弟会に昇格させ、レオ3世はこれを全世界に普及させた。ベネディクト15世教皇は聖家族の記念日を設けた。

  • 12月31日聖シルベストロ1世教皇(祝)
     〜335

     312年10月、ろーまいのコンスタンチヌス大帝とマクセンチウスとの戦いでローマ軍は勝利を得、キリスト今日はローマ帝国の国教となった。当時の教皇はメルキアデスであったが、その後を継いだのが、聖シルベストロである。シルベストロはローマの貴族の出身で、信心深い母に育てられ、カリノという司祭から神学を学び、司祭となった。ディオクレチアヌスとマクシミリアヌス皇帝の迫害時代シルベストロは難を逃れ、潜伏した信者たちに聖体を授けて励ました。迫害時代が終ったあと、シルベストロはコンスタンチヌス大帝の援助で聖堂を建てた。同じ頃に聖ペトロ・聖パウロ教会も建築された。シルベストロは貧しい人々を救うためにも力を尽くし、335年12月に亡くなった。


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