分かれ道で、ゆみこは立ち止まりました。
こっちに行こうかな、あっちに行こうかな、どっちにしよう。
ゆみこは足もとにあった石をポーンとけりあげました。白い石は
右のほうにポーンと飛んでいきました。
「うん、こっち」
ゆみこはニコッと笑っていつもと反対のほうに歩きはじめます。
布かばんが足をこすります。
「ああ、おもたいなぁ」
ゆみこはふっと大きな息をついて、手にぶらさげていたかばんを
肩にかけて持ち直しました。
ゆみこの体にくらべたらちょっと大きめの布かばんの中には、ピ
アノの分厚いバイエルが1冊と音楽ノートが1冊入っています。か
ばんはお母さんは縫ってくれたもので、大きなポケットが2つつい
ていて、赤と黄色と黒色の音符のアップリケが踊っています。ゆみ
このお気に入りのかばんでした。でも、ゆみこはピアノの練習は大
きらいでした。
「ゆみちゃん、おさらいしてきた?」
ピアノの先生はおばあちゃんだったけれど、ピアノの練習になる
とちょっとこわい。ゆみこは、口をきゅっと結んだ先生の顔を思い
うかべます。
「あの先生はね、とってもすごい先生なんだって。若い頃はオー
ケストラでピアノを弾いていた人なのよ」
ママはピアノの先生をとても尊敬しているんだって。ママはゆみ
こが「エリーゼのために」をひけるまで練習してねと言います。も
ちろんママは自分でひくのが夢だったんだけれど、ピアノを習いた
くてもならえなかったんだって。だからときどきママは思い出した
ようにゆみこのバイエルをひろげて、ポロリンポロリンとピアノを
たたきます。
ママはちっともうまくならないし、ゆみこもまだまだじょうずに
ピアノを弾けません。
ドー・ド・レ・レ・レ・ミ・ミ・ファ・・・
ゆみこは、肩にかけたレッスンバックをゆらゆらゆらして、この
間ならったばかりの練習曲を口ずさみながら、ブラーリブラーリと
あてもなく歩いていきました。
はじめて通る道でした。大きくて立派な家がたちならんだ住宅街
の道でした。どこの家もしっかりと門がしまっていて、あたりはシ
ーンと静かでした。
とことこと歩いていると、どこかの家からピアノの音が聞こえて
きました。
タタ タタ タタ タタ タァーン タララターン
ラララララ・・・
―ふーん、じょうずだなぁ。
もしかしてあれはエリーゼのためにっていうのかもしれないとゆ
みこは思いました。だって、あのメロディーは、ママの宝物入れの
箱についているオルゴールと同じメロディみたいでしたから。
ゆみこはほんのしばらく立ち止まってピアノの音を聞きました。
途中で何回かピアノの音はとまって、また繰り返して聞こえてきま
す。同じところを何回も練習しているようでした。
ゆみこはピアノの音にあわせて歩いていきました。いっしょうけ
んめい歩いていると、いつしかピアノの音は聞こえなくなっていま
した。そのかわりどこからか、オルガンらしいブーンブカブカとい
う音が聞こえ、歌が聞こえてきました。
なんだかとてもきれいな歌でした。
ゆみこは耳をすまして歌が聞こえるほうにむかって歩いていきま
した。
―こっちから聞こえるわ。
そこは教会の建物でした。歌は教会のずっと奥のほうから聞こえ
ているようでした。古びた建物を見上げると、つたがからんだ灰色
の壁はところどこにひびわれがありました。
―ああ、きれいな歌。
ゆみこは教会の垣根の前で立ち止まってうっとりといい気持ちに
なって歌を聞きました。でも、1つの曲が終わると、歌はもうそれ
っきり聞こえなくなりました。
―なぁんだ、もうおしまい。きれいな歌だったのに。
ゆみこは残念そうにつぶやいて、それからあたりをゆっくりとみ
まわしました。
教会は植え込みのある低い垣根で囲まれていましたが、門がなく
て、お庭があって、そこはちょっとした公園みたいになっていて、
門をはいったすぐのところに小さな池がありました。池のまわりに
白いベンチが2つあって、まわりに鳩がたくさん集まっていまし
た。
ゆみこはそっと教会のお庭にはいろうとしました。ところが、大
きなかばんが垣根の植え込みの枝にひっかかってガサガサと音をた
てました。そして、ゆみこは足もとの敷石につまずいて、ころんび
そうになりました。つまずいたひょうしに布かばんが肩からはず
れ、かばんの中からバイエルがバサッととびだしました。
音におどろいた鳩がクークー鳴いて、サッと飛び散っていきまし
た。
ゆみこはしゃがみこんで、かばんからとびだして開いたまま落ち
ているバイエルの頁をながめました。
赤い鉛筆で先生の注意書きがいろいろとかいてあります。
音符に大きな赤まるがついていて、「はぎれよく!」とか「なめ
らかに」とかいろんな書き込みがゆみこの目に飛び込んできまし
た。
ゆみこはふぅーんと大きな息を吐き出して、しゃみこんだままバ
イエルの音符を指でたどりはじめました。
タンタンタンタタターン
小さな声でリズムを口ずさみながら、音符の上を指でなぞってい
きます。
「あのう・・」
突然、背中から声をかけられてゆみこはドキンとしました。
「あのう、オルガンひけますか」
その男の人はゆみこのバイエルをのぞきこむようにして言いまし
た。白いきれいな服をきた人でした。胸のポケットに小さな花をつ
けて、まるで結婚式の「おむこさん」みたいでした。
「オルガンじゃなくてピアノなら習っています」
ゆみこはドキドキしながら、早口ではずかしそうに答ました。
「ああ、それはよかった。ピアノがひけるんですね」
男の人はほっと息をついてもう一度ゆみこにたずねました。
「オルガンをひく人がまだなんですよ。どうも時間を間違えたら
しい」
男の人はそわそわと落ち着かない様子で腕時計をながめました。
「もう時間がないんです。こまった、ああ、こまったなぁ」
男の人はもう一度腕時計を見て、それから、伸びをして生け垣の
むこうの道をながめました。
「ああ、もう時間だ。これから結婚式なんです。オルガンをひい
てください。なんとかお願いします」
男の人はそう言うと、ゆみこの手をグィッとひっぱって歩きはじ
めます。そして教会の中のオルガンの前にゆみこをつれていきまし
た。
教会の中は薄暗くてヒヤッと冷えきっていました。
ゆみこはオルガンの前でブルンと体をふるわせました。
オルガンの楽譜たてに本がたてかけてありますした。
男の人は本を取り、ゆみこに渡してくれました。
「最初にこれを、それから最後にここれを・・・」
男の人は本の真ん中あたりを開いてあわててそれだけ言うと、椅
子の間をぬってうす暗くてよく見えない前のほうにささっと歩いて
いってしまいました。
ゆみこはドキドキしながら楽譜をそっとながめました。
―あれっ!
ゆみこは息をのんでまじまじと楽譜をながめました。
開いた頁には四角いきれいなオルゴールの絵が描いてありまし
た。それはママのオルゴールとそっくりでした。
「?」
ゆみこは首をかしげ、思わず手をのばして写真のようにきれいな
オルゴールの蓋をさわりました。指先にゴツゴツしたしたものがあ
たりました。ゆみこは手を広げてオルゴールをなぞりました。ゴツ
ゴツした彫刻がてのひらにあたります。ゆみこは、オルゴールのふ
たをそっとあけました。すると、カチリとかすかな音がしてふたが
あき、音楽がはじまりました。
静かなきれいなオルガンの音でした。
気がつくと、教会の礼拝堂の前のほうで結婚式がはじまっていま
した。
2人だけの静かな結婚式でした。
およめさんの白いベールが長くすそをひいて、ゆみこは2人のう
しろ姿をうっとりとながめていました。
オルゴールの音楽がとてもリズミカルになってきます。
オルガンの前に座ったゆみこは体でリズムをとりながら、指をか
るくオルガンの鍵盤の上をはしらせました。まるで自分がオルガニ
ストになったようないい気分でした。
およめさんとおむこさんが腕をくんで、真ん中の通路をあるいて
きます。ゆみこはうれしくなって、オルガンをひくまねをしなが
ら、おむこさんにむかってほほえみました。さっきであったばかり
のおむこさんはゆみこに向かって軽く頭をさげて、そして、2人は
そのままドアを通って外に出て行きました。
いつしかオルゴールの音は聞こえなくなっていましたが、ゆみこ
の指はオルガンの鍵盤をおさえ、ピアノの練習曲をひきはじめてい
ました。
オルガンの音はやわらかく響いて、ゆみこは、気持ちよく鍵盤を
指でなぞっていきました。
つっかえながらも練習曲をひきおえてホッと息をつくと、パチパ
チと拍手の音が聞えました。ゆみこは驚いてふりむきます。オルガ
ンのうしろに大きな花束をもった男の人が立っていました。
ゆみこはあわててあたりをみまわしました。
「あっ、ごめんなさい」
「いえいえ、私は花屋ですから、おかまいなく。どうぞ練習を続
けてくださいね」
「お花屋さん?」
「ええ」
「結婚式が・・・」
ゆみこがそう言いかけると、花屋さんはにこりと笑いました。
「ええ、結婚式用の花ですよ。これから1組。ちょっと準備をね」
そう言って花屋のおじさんは、花束をほぐして、パチンパチンと
花の茎にはさみを入れはじめました。そして、これからはじまる結
婚式用に、花瓶に花をいけはじめました。
表に出ると、まぶしいほどの暖かな日差しが輝いていました。
池のまわりに鳩が集まっていました。
ゆみこが池のそばにかけていくと、鳩がパァと空にまいあがりま
した。鳩たちは大きく円を描きながら、どんどん向こうにとんでい
きました。ゆみこが空を見上げていると、2羽の鳩が並んでピュー
ッと飛んできて、ゆみこの頭の上でぐるりと円をえがきました。
―ありがとう・・・
ゆみこはブーンフカフカというオルガンの音が聞こえたような気
がしました。
バイエルが開いたまままだ庭に落ちています。ゆみこはいそいで
バイエルをかばんにしまいました。
―まだまにあうかな
ゆみこはピアノの先生のちょっと恐い顔を思い浮かべながら、先
生の家に向かっていっしょうけんめいに走っていきました。