ZANGAI会



会への問い合わせ、zamgai ML については
shizuo shimoyama 宛
shizuo_shimoyam@hi-ho.ne.jp
shizuo_shimoyama@email.msn.com





zangai12月の報告

26日、今年最後の勉強会および忘年会を行いました。
今回のテーマ ヨハネによる福音書 1章1−18
言は真理。言を認めない状態は、 今も続いている。 ミサを受けてるときも本当に言を受けているのか。 日々の中に言を見てるのか。 とき、場、いろんなところに満ちている言を 私たちは本当観じているのであろうか。

今回の担当は、浅野氏です。
メーリングに参加されていますので、 疑問、あるいは感想分からないところ、 メーリングで、意見を出し合いましょう。

その後、忘年会へと移行いたしました。
出席者は、長田氏、浅野氏、木次さん、斎藤さん、 そして私 スピカでした。
長田氏が、メンバーの田中氏と偶然天王寺で会われたとのこと。 元気そうなこと、また、体が空ければ参加してくれるでしょう。


zangai11月の報告

今月のテーマ
踏み絵事件

今月は出足が悪く3人で、終わった後、 長田氏が顔を出してくれました。 浅野氏は名古屋主張で戻ってこれず、 今回はパスでした。 来月は12月26日金 PM7時30分から 人数がそろえば本当の忘年会になりましょう。

今回は新聞にも報じられた、京都のある公立中学での 踏み絵事件をテーマにしました。 最初から今回有馬神父様が風邪にもかかわらず、 参加してくださいました。

事件のあらましは、歴史の時間において、 キリスタン弾圧における踏み絵を生徒に さしたことです。 一人の女性とが後でこういう行為は絶えられないとの 訴えがあったそうです。

さて、この教師がどういう背景でこのようなことをしたか あるいはその弁明はbiglobeのsigにおいてなされているので、 詳しいことはそこでご確認なさってください。 有馬神父さんがここでいわれたことは、拷問がどんなもので あるかどうかということを実際にさせる行為と何も変わらない。

実際生徒が踏み絵を踏む、踏まないという行為は、 その当時の信徒と根本的にどうかするわけがない。 隠れキリスタンの心情を歴史的事実におけるとした この行為において何も与えられない。 宗教的行為をその空間で感受させる教育的配慮とは、 根本的に何にもなさない。

また皆さんの意見をお聞かせください。 また、カトリック教会における離婚問題なども 有馬神父さんにお聞きしました。 信徒が受ける印象と教会としての対処との 間にはやはり温度差はある。 しかし、実際にはもっとお互いの話せる空間が必要だし、 また信徒における何がそこに問題があるのかということを もつと見出さないといけない。 神父が絶対なるものとしての捕らえるより、信者として 私は何を見てるのという問いかけの方が必要かも。

今回から、メーリングにこの報告を乗せていきます。 報告を要らないという方はご迷惑おかけいたしております。 そのかたはご一報ください。 後々、すべてメーリングにおいて報告を出すつもりでおります。

また、次回から、zangaiの勉強会のお知らせを玉造教会にも 載せるとのことです。 まあ、あくまでも担当司祭はありません。 有馬神父さまが時間があるときはのぞいてくださいます。 また、神田神父さんが年に何回かは担当者としてきてくださるでしょう。

では、また来月。
報告者 下山




zangai10月の報告

今月のテーマ
ヨハネによる福音書 第3章 1−15

今回のところは、以前にも取り上げたところです。私の担当時はヨハネHの福音書 が多いのですが。また以前と違ったところが見えてくるかもしれません。私の 信仰はいつもニコデモの状態ではないだろうか。イエスがここで述べられてい るのに、私は本当に信じているのであろうか。

一つの共同体の中での信仰の状態であるのか、または、個人として本当に信仰 しているのであろうか。私一人の為の信仰がいけないのか。まず、私がかわい い、まずかわいい私があるという信仰の出発点は駄目なのだろうか。私が存在 しているとの自覚がしっかりと見詰め直す事が、隣人を愛せる出発点ではなか ろうか。

まず、わたしがこの世に存在している事を先ず知る。それゆえにまたあなたも 存在しているという確信を持てるのではなかろうか。わたしを捨て去る事が出 来るのもわたしがあるという事実。そして神とつながっているという確信。そ こから、隣人も神とのつながりがあるという確信へとつながっていくのではな かろうか。わたしがまずいるという自覚が信仰へのアプローチの最初ではなか ろうか。

ミサを受けていてもい祈っていても喜びが湧かないという意見がありまし たが、 喜びを感じる事を自覚するために信仰するのではなかろうか。 喜びは感じるのではなく、喜びのなかに溶け込んでしまうから、 喜びという自分自身の対象とならないのではないでしょうか。 人それぞれ信仰の向きは違うのであり、その中から一つの共同体としての 信仰も確立していくという事がそれぞれ必要かもしれない。 わたしの信仰が絶対であるということを誰に告げる必要があるのか。

今回のテーマの意見などお聞かせください。


連絡

zanmlのメーリングの件ですが、biglobeのメール仕様があわないようです。で、 新しいプロバイターに返るかmsnがインターネット仕様に完全に移行した時に かえるか検討しています。今現在参加されているかたご意見ください。またこ れから登録しようとしている方の意見もお願いします。登録宛先は、 shizuo@mtd.biglobe.ne.jpで結構です。変更になれば、登録完了の方はメール 宛先変更であとは[zanml]のヘッダーで出来ると思います。その時は又お知ら せいたします。

来月は14日 金 PM7時30分 玉造教会 司祭館にて
人数がそろえば忘年会の真似事をかねるかもしれません。

今回の参加者 木次さん、斉藤さん、浅野さん そして担当 の下山でした。



zangai9月の報告

今月は集まりが悪かったです。 高橋氏は教会での障害者の方々との 懇談会で欠席、長田氏は四国出張、 浅野氏は仕事で、田中氏も仕事でしょう。 今回、斎藤、木次、下山の3人でした。

今回の担当者、斉藤さん。
テーマ 悪霊に取り付かれたガダラの人をいやす
マタイ8 28−34 マルコ5 1−20
ルカ8 26−39

今回、ここだけのテーマだけでは、はっきりと答え とか結論は出ませんでした。

神の大いなる力が素直に信仰としてここの段階では 受け止める事が出来ず、ただ恐れおののくしかないのではないか。 又、一つ一つの奇蹟の行いが徐々に姿を世間に段々と浸透するにつれ、 信じていくのではなかろうか。

一つの行為が素直に信じられるあるいは見切る事の難しさ、 そのことが一つの悔い改めに結び付く事になるのだろうか。 現代において奇蹟という行いがとくに信じる信じないの境目は なんなのか。

オウム、あるいは新興宗教のたぐいの奇蹟重視の行動が、 結び付く結果とそれを阻止できる既存の団体との兼ね合いは。 今回はよく十分に語り尽くしませんでした。 皆様のご意見とかおうかがいたいと思っています。

MLの件ですが、BIGLOBEのほうにまだ私自身ppp接続が 成功していません。で、試験的活動が出来ません。 msn、あるいはBIGLOBEでの接続がうまくいけば、 皆様の協力にて試験をさせていただきたいとは思っています。 又、ちえさんのところのmini-BBS 掲示板でのテストの感想、また今回の テーマに置いての利用の仕方が出来るかどうかも検討していただきたいと 思います。

来月は、10月17日 金 PM7時半 玉造教会 司 祭館にて。

報告者 下山

掲示板の利用の件:書き込みテストあるいは連絡等にどうぞご利用くださいま せ。ただ windows3.1 をお使いで、Biglobe 専用プラウザWorld Talkをご使用 の場合、インターネット接続環境についてご検討頂ければ幸いです。
現在設置しているものはオープンに使用できる状態で Jam House という名称 のものですが、必要であれば、掲示板はzangai会専用のものを設置することは 可能ですので、ご希望があればお伝えくださいませ。(中谷千絵)




zangai8月の報告

8月22日
今月は、長田、木次、下山の3人でした。

後半ラストに有馬神父さんの乱入があり、今回も有意義な集まりでした。今回 は、聖書から少し離れて、司祭と信徒、あるいはミサについての個々の想いを 話し合ってみました。

今、現在のカトリックは、保守的要素の部分と、開放的部分とが入り交じっ ている要素があり、その部分が、私みたいな怠慢信徒でも、信仰という部分で 残れているかもしれない。第二バチカン以降の一種のローマカトリックの混乱 というべきか、また進歩である歩みによる一種の混乱の中で、聖なる教会とい う場と、教会の中の組織とのあつれきとかが、垣間見られる部分の融合が有効 かどうか。

日曜のミサがミサそのものであるという一種の錯覚が、 そのミサだ授かっていればいいという傲慢さがどこかの部分で 残っているのではないか。

教会と私たちとのつながりは日曜のみさという事だけで、達成させるへぎでも なく、日々の司祭と私たちとの兼ね合いが教会という建前あるいは、ローマカ トリックという看板の前の教会でなく、イエスキリストの教会という自覚が、 まず前面にたつべきではないか。

プロテスタントの教会もまず何々派という看板の教会というより、イエスキリ ストの教会であるというところからの交わりで、カトリック、プロテスタント という一種の垣根も一段と低くなるのではないだろうか。

有馬神父さんが、司祭と信徒の交わりの中で、何々神父さんという敬称より、 神田神父さんを私たちがかんちゃんと呼ぶ一つの交わりが、日曜のミサだけで、 教会とのつながりを保っている信徒との間には、なかなかつかみきれない。 ひとりひとりが教会といどういう接する行為が個々の信仰と教会という場との 接する面積が広がるかどうかではないか。

今回、われわれの勉強会の仲間であり、また玉造教会の専従職員であった、 中村さんが、教会から、又われわれの場から去っていきました。教会の組織が 中村氏に向けた行為が是か非かは問う事はできません。ただ、中村氏が本来の 情態が一つの救いを求めていた事実を教会として、ただ表面の行為だけを見て 判断をされていたのかどうかと言う点だけ、今回の事柄として残念な事だった と思います。
中村氏が家族から離れ、また教会から離れ、名古屋の地で、 信仰の光が見られますようにお祈りします。

勉強会のホームページを見られた方で励ましのメールもいただきました。

メンバー一同感謝しています。また、大阪で開いている勉強会に覗いてみたい との方もいますが、遠くて参加ができないと思います。そこで、会としてメー リングを始めてみたらどうかという意見を今回出しました。メーリングでいろ んな人の言葉を聞き、また勉強会でその事のテーマで聖書を勉強するのも一つ の聴くあるいは話すという行為の中で交わりができ、またなかなか忙しく参加 できない神田神父さんの言葉も聞けるという場もできるという事です。参加資 格はzangaiに興味ある方という事だけで足りると思います。

ただ、どこにメーリングを措くか、また個人的にプロバイダーに措くか、簡易 のプログラムでプロバイダーにおかず個人のメール当てにするかという事もあ り、この辺でご意見もいただきたいと思っています。その辺よろしくまたご意 見聞かせていただきたいと思っています。

来月は19日 金曜 大阪玉造教会 司祭館にてPM七時半からです!

報告者 下山


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