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    1998年12月の集まりの報告
    今月の報告
    テーマ マタイによる福音書 第一章18-25
    出席者 木次、斎藤(夏椿)、下山、久しぶりに有馬神父
    
    クリスマスが目の前に来ました。生誕を祝いましょう。
    
    ここで、ヨセフは賢いのかあほかと。不謹慎な言葉ではありますが、唯単に読
    めばこんなことも浮かぶでしょう。ここでかかれてある夫ヨセフは正しい人と
    は、ユダヤ教において正しい人であって、そしてその後に聖霊を受けられた。
    そしてあほに徹しられた。
    
    関東では、バカ、関西ではあほ。この言葉の意味合いはそれぞれ地方によりニュ
    アンスの違いはあろうが。あほに徹するということの難しさ。気を使うではな
    く、気を配る と有馬神父さんの言葉。
    
    教会、あるいはちいさな共同体において、徹することは難しい。最後にインマ
    ヌエル。われ神と共にいます。神は我々とともにおられる。ここに行きつく。
    インマヌエルを観ずる接点の出発こそがもろもろのしばりからときはなたされ
    るのかも。
    
    追伸、あとうさん 海南教会でのオフ。zangaiから何人か参加するかもしれま
    せんが、29日は各人仕事なので、わかりません。もしいかれるとしたらよろ
    しくお願いします。また、詳しいことがあればこちらのメーリングにも流して
    いただきたいと思います。
    
    来月は1月22日 金 玉造教会 司祭館にて。
    よいクリスマスを迎え、来年もよろしく。
    
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    1998年11月の集まりの報告
    今月も無事勉強会を開くことができました。
    出席者 木次、斎藤、浅野、下山
    
    今月のテーマ ヨナ書1章−4章
    
    久しぶりの参加のユテコさんこと浅野さんのリードではじめました。
    各章一人一人朗読をし、それぞれの観点を述べました。
    我々のことがらは、ヨナであり、神は何一つ誤りはない。
    神から逃れ様としても、どこにでも神のみわざは、行われる。
    自分一人の勝手な憶測は、神の義から離れる。
    
    また、ここにおいても新約におけるイエスの行いも示されている。ユダヤ教に
    おいては、ここにおいても神は怖いものであり、キリスト教徒においては、愛
    である。己自身の正しさは、己自身一人がってであり、神の前の正義ではない。
    神の義に対して己の行動を正そう。
    
    この日、木次さんが海南教会の酒井神父さんのところへ訪問されました。元気
    そうなこと。タバコをやめらたそうで、お酒はまだとのこと。酒まで止めると
    ノイローゼに陥るのではないかとの参加者の言葉。大阪にこられたら、会食の
    予定をすることになりましょう。ミニオフ形式もいいかも。そのときは、神田
    神父さんもお忙しい中無理をしてでも、参加されたし。あいも変わらず、神田
    神父はんのうわさを楽しんでおります。
    
    来月は、12月18日、勉強会件、クリスマスも予定しましょう。
    PM7時30分 玉造教会 司祭館にて。
    
    当日は、玉造教会に行く途中のプロテスタントの教会の前のケーキ屋において、
    ケーキでも買ってきます。ただし、こずかいが乏しいときにはごめんなさい。
    
    勉強会において一人参加者が増えるとまた違った分かち合いがそこに生まれます。
    そこにはイエス様が常に見つめられておられるのでしょう。
    
    報告者 スピカ
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    1998年10月の集まりの報告
    
    今月のテーマ
    マタイによる福音書 12章1-17
    
    今月の出席者  木次、斎藤、下山
    
    今月も出席者は少なかったです。斎藤さんはバイトのため定刻より
    早く退席。そのかわり久しぶりに有馬神父さんが隣の職務室にて
    元気な声が司祭館に鳴り響いていました。
    
    ここでの主題は安息日に律法をそむく行為がすべていさめられるのか。
    いや、そうではない。
    イエスがここで問うのは、その場においてにをすべきなのか。
    ここでは、安息日のことを主においているが、しかし日常のことすべてに
    置き換えられるのではないか。
    神の計画は何であるか。そのことが主である。
    善きサマリア人のたとえのごとく、サマリア人、宿の亭主のごとく
    なにもなく目の前に置かれている事実をそっくり何もなく行う。
    それが主の計画そのものである。
    
    教会の共同体における事柄も、あるいはカトリック信者同士の事柄も、
    カトリック、プロテスタントとの事柄も、社会における事柄も目の前にある
    そのことにおける何が神の計画なのかを知るべきであろう。
    
    釈迦が誕生して7歩あるいて言った言葉、天上天下唯我独尊
    この世においてわれただ一人尊い。
    
    この言葉は誤解されて歪曲されているが、本来はまず自分がこの世に生まれて
    本当尊いものだという自覚がなければ、他の人を本当に尊重できないことを述
    べている。仏教の慈悲の本当の心はここから出発している。キリスト教におけ
    る自己の個はまず罪人から出ている。
    
    しかし、接点はないのか。そのようなことはないだろう。
    キリスト者となれば、まず自己の個の尊重に目覚め、そしてあらゆる共同体に
    目覚める。
    そのことが信仰のこの確立の一歩だと思われる。
    醜い争いはごめんだ。
    
    浅野さんの復帰を心から希望している声が出ています。
    復帰してね。長田さんも仕事の都合ついたら完全復帰期待しています。
    来月は11月、人数が集まれば勉強会兼忘年会もできますから。
    
    来月は11月13日 金  玉造教会 司祭館にて。
      恒例 魔の日の勉強会です。
                           スピカ
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    1998年9月の集まりの報告
    今月のテーマ
    ルカによる福音書13-1-5
    
    悔い改め
    出席者 木次、斎藤、下山
    今回も人数は少なかったです。牛丸さんは仕事。
    浅野さんも仕事という電話がありました。
    
    今回は、聖書のテーマが最後に見つけ出すという結果になりました。
    あるメーリングでカトリックにふさわしくない文、あるいはホームペー
    ジなどは司教のほうから監視の目が入るとか入らないとかとの分の話
    から、カトリックにふさわしくない、あるいはカトリック以外の人と
    の交流も難しくなるような内容。
    
    今、ワイドショウなどで話題になっている洗脳のことが話題になりま
    した。洗脳しているのかされているのか、本人あるいは主催者の言論
    を聞いてみましたが、結局は何を主張しているのかわからず、持論だ
    け述べているようでした。
    
    今回のあるメーリングの騒動も冷静に見れば、何をよりどころにして
    の述べているのか、お互いの主張の中に今回のテーマ悔い改めがある
    のかどうか。
    
    司教、あるいは教会に監視されてものを言うが本当なのか。
    神、イエスの事柄から述べるのか。
    
    監視されて、言論の是非があるのか。そこまで介入するのなら、もっ
    と深く教会は信徒にすべてのものに対して介入すべきもの。共同体に
    おける押し付けがあるかどうかはわからないが、個の信仰においてま
    ず立脚されないと共同体という組織に自分として確固なる信仰は流さ
    れてしまう。つねに悔い改めるということが必要になってくる。
    
    洗礼を受けて、真なる開放、生まれ変わったのに、今の状態において、
    何の生まれ変わり、開放もなく教会という閉鎖空間に押し込まれてし
    まうのではなかろうか。今回の出席者は、それぞれ洗礼を受けてから、
    束縛される事柄からの開放を味わっている。
    
    何に対して、こだわっているのか。こだわりの中で自分の世界あるい
    は理想が一番という精神そのものが悔い改めということから観点から
    述べられているのかどうか。異端と思われるのであれば、私はカトリッ
    クにこだわらない。イエスの元で暮らす。人というものに恐れたくも
    ない。
    
    浅野さんにたいしてのコメント。
    何で浅野さんは聖書のこと詳しいのだろう。まじめで。
    それは、カトリックではないからまじめで詳しいのでしょう。
    
    来月は、10月16日 金 PM7時半 玉造教会 司祭館にて
    
       スピカ
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    1998年8月の集まりの報告
    主の平和
    今月の報告
    
    今月のテーマ ルカによる福音書 8-19-21
    
    出席者 木次、斎藤、下山
    
    今月は前回より日にちが開いたせいか参加者が少なかった。
    また、有馬神父さんはそうとう忙しいみたいで、私自身教会
    に足を向けないせいもあるが、お会いできていない。神田神
    父さんとはもう一年以上も出会えていない。そんなことで、
    今回は会話も弾まないものと思っていましたが、少数でもこ
    れが分かち合いというべき教会で神父さんと交えて話し合え
    たらいいなあという、雰囲気の中で行われました。
    
    今回のテーマは、マリア様について。
    
    マリアさまをカトリックにおいて畏敬の念で見られます。マ
    リアさまの信仰が何か特別注視しなければ、あなたは異端だ
    と言わんばかりに見られます。
    
    洗礼を受ける前は、そのことが確固たるものとして見なけれ
    ばならないものだとの認識は植え付けられていたかもしれま
    せんが、洗礼後、何をこだわってそのことがあたかも踏絵の
    ごとくすべての人に押し付けられるのか。別にマリアさまに
    たいして何も不敬の念など毛頭ないのに、表明あるいは同意
    がなければ、おなじ信仰者としての区別されなければならな
    いのか。その区別事態ここの個所におけるイエスの答えでは
    なかろうか。
    
    教会のあるいは共同体のなかに区別されるべきものはカトリッ
    ク教会の中にあるべきものではない。まして、プロテスタン
    トの教会においても同じである。個としての信仰の確立を私
    はいつもまずあるべきという主張をするが、それは共同体と
    してあるいは一部の人の確立している信仰と一致するところ
    しないところにおいてやはり自ら認識しなければならない。
    個の信仰の確立から初めて共同体として意識の中に埋没する
    ことなく、お互い信仰として交えるのではなかろうか。まあ、
    われわれもも又逆にそのことに対して区別しているのかもし
    れない。
    
    向井さんの感想も話題になり、いろんな話ができました。こ
    の話し合いですこしは心が軽くなったと言う人もいました。
    仲良し会にだけはならないように次回も開催いたします。
    9月18日 金 玉造教会 司祭館にて PM7時半から
    
    
    
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    1998年7月の集まりの報告

    今月の報告
    
    今月のテーマ ヨハネによる福音書 14章1−14
       イエスは父に至る道
    
       出席者 牛丸、木次、斎藤、下山  浅野氏は送別会で欠席、長田氏はたぶんヨー
    ロッパ家族で御回遊中
    
    ここの個所は、わたしは道であり、真理であり、命である。
    これがすべてであり、また聖書のメッセージの集約でもある。
    しかしながら、これを信じるのもまた難しいものである。
    わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられる。
    このことを素直に信じうるものか。
    ここの章は、あとに聖霊のことも出てくるが、父と子と聖霊 三位一体の
    こを述べている。
    
    しかし、当時の弟子と同じく我々も信じがたい。単に信じることの難しさ
    が現実として現れてくる。
    
    しかし、このことが真に我々のところに示されている事実は明白であり、
    そのことを区別して信じる信じないをいっているのは、我々個である。
    イエスが伝えていることに対して分別しているのは、私すなわち個である。
    教会内、あるいは共同体、あるいは社会で区別、差別を意識、無意識で
    しているのは、我、個であってその他ではない。
    あくまでも、信仰の第一歩は個としての出発の確立からではなかろうか。
    インマヌエル かみわれとともにいます この事の自覚がまず一歩かも。
    
    牛丸さんが神は神であって、父とか子とか聖霊とかがあるとは。
    といっておられた。聖書を始めて開いてその事が導かされる。
    その点、求道者にとって分かり図らいのかもしれません。
    
    来月は、8月28日金 玉造教会 司祭館 PM7時30から
    
             報告者スピカ
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    1998年6月の集まりの報告

    今月のテーマ
    ルカによる福音書 10章25−37
    よいサマリア人
    出席者 牛丸、斎藤、木次、長田、下山
    
    今回のテーマは、以前にも何回かやったところです。
    <
    原点にまた立ちかえって再考したいところです。善きサマリア人はその時何を
    聞いたのか。神の要請をそのまま受け入れ行動した。隣人愛というここの個所
    にもとずいて、神の要請に対して、ただ単にそれを行った。
    
    すなわち、神の支配の服従であった。イエスのいみにおいて神の支配から発し
    た事柄。ここで、神の支配という言葉に他の人々から理解は得られませんでし
    た。祭司とレビ人とは、ユダヤ人の無言の要請、すなわち神の要請を聞かなかっ
    たのか。いや、きいていながらきかなかった、むしろ聞こうとしなかった。ゆ
    えに聞こえなかった。つまり神の支配の服従しなかった。
    
    常に神の声はわれわれに対して発せられているにもかかわらず、聞こうとしな
    いのがわれわれではなかろうか。隣人を愛しなさいという神への絶対服従は、
    聞く、聞こうとする、聞こえないとの間にわれわれは属してしまう。会社や、
    世間に対して、この隣人愛は本当に言ってどこまでもっていけるのであろうか。
    この辺が一つの出発点につながるのかもしれない。
    




    1998年5月の集まりの報告

    今月は、出席者が少なかったので、報告も短めです。
    主席者 木次さん、 長田さん (遅刻)、有馬神父 途中参加途中行方不明 下山

    テーマ ヨハネによる福音書 14章1−14 イエスは父にいたる道

    わたしは道であり、真理であり、命である。 ここのところは、よく知るところである。 しかし、使徒たちが実際目にしたイエスの空間と、 私たちが今遭遇している空間と実質的に違うのであろうか。 あの当時、使徒たちさえ、このときイエスを信じ得ていたのか。 いま、われわれのこの時、イエスと言う目に見えぬときに、 本当に信じ得られるのか。 聖書を投して、2000年前のときと、この時とどう違っているのか。 信仰はまず個からの出発。 個の信仰が確立されなければ、共同体の中で埋没さされ、 ついに共同体から信仰の火を奪われてしまうのではなかろうか。 共同体はそれ自身罪の意識なく動いている。

    有馬神父さんが復活祭の司教の例の説教のテープを持ってきてくださり、 いっしょにもう一度聞きました。長田さんもこの時に参加されました。 有馬神父は途中から席を外され最後まで戻ってきませんでした。 お忙しかったのでしょう。

    もう一度聞いて。
    わたしは、大川○法の説法とよく似ているなあと今回認識しました。 長田さんは、あの復活祭に始めて教会に訪れた人には失望しか 生まない説法だと、宗教用語の洗脳された人にとっては、いいのかも。 しかし、霊魂とかそういうたぐいの言葉は、あの時メッセージに必要なのか。 わたしは、一つの洗礼を受けないと、霊魂の復活、永遠の命には預かれないぞ、 という脅かしだと聞こえる。愛と言う言葉をただ添えたもの形だけのメッセージ。 区別は差別を生むものだ。

    来月は、6月12日 金 PM7時30分から 玉造教会 司祭館にて。
    素敵なゲストがお出でになるかも。
    神田神父さんも年一回の登場も考えておいてください。
    スピカ
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    1998年4月の集まりの報告

    今月のテーマ
    血を飲むな レビ記17章10−12
    出席者 木次、斎藤、浅野、長田、スピカ 最後に有馬神父

    斎藤さんがここを指摘し、輸血問題などの宗教上の 諸問題があります。 聖書に何をかかれて、何を見るのか。 当時ははり血と言うものの中にいろんな病的なもとが あり、狩猟民族して血抜きをして肉を食べる習慣が 自ずからあったと思われる。 そのなかの一つの指針であり、ここから輸血などの問題までを いっしょにするのは、聖書を同関わりを持つのか。 また、旧約、新約と、キリスト教徒として何を求めているのかで、 自ずから目の前に現れるのではないでしょうか。

    斎藤さんの写真の件ですが、ピンぼけだったららしいです。 説明を受ける時間がなく、また画面が小さく、こちらとしては、 ピントが合っていると思っていました。 画像を後で画面に再生したときにも写っているととは確認できましたが、 ピントまで把握できませんでした。 まあ、ピントが合っていないほうが公開するときに都合がいいのではという 尊い意見がありました。

    徹夜祭のときの大司教の説教に関して、私が疑問と思っていたこと、 斎藤さんもまた私とは違った観点かもしれませんが、 何をおっしゃっているのかと。 洗礼は、信仰の一歩ですが、そこからは何も区別があろうものか。 信仰とそこからの歩みはの差は、この問題であり、そこからの堕落も 個である。共同体においてもそこにもいろんな人たちで構成されている。 洗礼を受け、新生における歩みの中には何も差はない。 堅信においても、その時によって受ける、受けられる時期は差は合っても、 その事に置いての信仰の差はない。 まして、マリアさまの信仰もそうである。 ルルドにおける救済もそこには何も差と言う事柄はなく、マリア様の 一つの表しはなされているのであり、 それが司教という立場からの同じ教会の共同体としての差を示される ものは何であろうか。

    有馬神父は儀式で聞いている間がなかったそうで。 いろんな捉え方があったとは思います。 捉え方の個の違いはそれぞれでそこからの一致への歩みが 共同体としての一つの現われかもしれません。

    来月は、5月15日 金 午後7時30分 玉造教会 司祭館にて。
    来週のチャットはこの前ちえさんが開設していただいたところで、 木曜、午後9時半から たとえ一分の参加でも歓迎です。

    一応、第二、第4木曜が定例です。
    チャットの主催は斎藤さんであります。
    報告 スピカ


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    1998年3月の集まりの報告 今月の出席者
    木次、牛丸、斎藤、長田、下山、有馬神父
    今月のテーマ
    復活 マルコによる福音書 16章 他福音書における同じ個所
    	実際に復活されたのか。
    	復活という事実が信仰の基礎になるのか。
    	復活の事実がなければ、信仰に結びつかないのか。
    	聖書における各預言による結びである。
    	復活という言葉におけるもっとわかりやすい言葉。
    	永遠の命   今この一瞬の存在が永遠の命
                     線は点の集合であり、点の連続が
                      永遠の命      有馬神父
    	禅における息を吸う、吐くという一瞬の事柄が覚り、仏、彼岸
    	罪、原罪という日本人には理解しにくい言葉。
    	弱き事柄、常に罪を背負っているという自分の自覚、
    
    	罪を罪と意識することなく、罪を重ねる罪人・・・
    	善人イコール 親鸞における悪人正機説
    	教会内における目に見えない差別  すなわち善人と錯覚している人々
    	信仰とは押し付けのないもの。
    	裁きは神。 人が裁くのではない。
    
    来月は、4月17日金 PM7時半 玉造教会 司祭館にて



    1998年2月の集まりの報告

    今回の出席者
    木次、牛丸、斎藤、長田、浅野、下山

    今月のテーマ
    イザヤ書53章
    キリストの出現の予言

    イザヤの当時の一つの救済者のイメージあるいはヒーローの一人歩きのこどく のイメージをそうではなく、ここに説かれるごとくに現れる方が救い主。

    予言書が説かれるかす数のときには、その時の信仰否定あるいは悔い改めから また新たな救い主への信仰形態への繰り返すこと。

    そしてイエスキリストにわれわれは出会い生まれ変わって新たな歩みを始める。 しかし、インマヌエル われ神とともにいます。この神との第一接触は、神を 信じる信じないに関わらず、われわれは覆すことなく成り立っている。

    第 二接触 悔い改め、キリストとの出会いなどにおける信仰の出発。

    イザヤ書における当時もキリストが遣わされたとき、そして今現在のこの時点 において第一接触は、つねにわれわれの中に注がれている。では、第二接触は それぞれどういう関わりがあるのであろうか。

    個々の信仰における接触は それぞれ違うであろうが、キリストと出会うことにおいて第二接触は成立する のであろうか。機縁はそれぞれ個々の違いによりいろんな形態で自分の上に覆 い被さってくるもので、その差は根本的に何であろうか。

    来月は3月13日 金 PM7時半 玉造教会 司祭館にて

    当日は、斎藤さんからチョコを男性陣にいただきました。 また、斎藤さんの洗礼において、メンバーからお祝いに ベールを送ることにいたしました。

    かんちゃんのエフエムわいわいの感想もありました。 その時は、女性二人とともに放送されていたようですが、 結局何を言いたいのかわからず、おふざけみたいな印象に終わり、 通信費がもったいないとのことですぐに切られたそうです。 かんちゃんにはもっとがんばってもらいましょう。

    この報告を送っている中で、もっちゃんというかたがいます。 福音の波で時々放送が聞くことが出来ますが、 とても高貴ですばらしい内容でした。 牧師と神父の差はないですね。かんちゃんともっちゃんも 年齢はほとんどいっしょなのですが、関西ののりと関東とは 違うかもしれませんが。 ちなみにもっちゃんのホームページはzagaiのホームページから リンクしていますので。
    報告 スピカ


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    1998年1月の集まりの報告
    出席者
    斎藤さん、木次さん、牛丸さん、浅野さん、下山
    ゲスト 有馬神父さん 後半出席

    今月のテーマ

    斎藤さんがいよいよご自分の意志で洗礼を授かる 事で、テーマは洗礼について。

    マタイ3−7、使徒8−36、9−18、など
    バプテスマ 水に浸す
    浅野氏の水槽の中に浸されて洗礼を受けられた話を聞き、 カトリックとの洗礼の儀式とまた違った様式だと思いつつ。 洗礼と何かについての討論へと移行していきました。 神の子としてふさわしい生活を送る決意を公言する行為 悔い改め、聖霊を与えられ、新しく生まれ変わる。 しかし、人はすべて神の子として存在する。

    インマニエル、第一接触として神の子との自覚あるなしに関わらず、 存在している。 第二接触 イエスキリストの信仰にもとずく、我の再確認、 あるいは新しい第一歩。 神の民の一員として、一キリスト者として歩み出す。 ここで、共同体としての関わりがひつかかつてくる。 教会としての共同体として限定してしまうのか、 それともすべておける関わりのある対象として共同体と見るのか。 閉鎖されて共同体としての交わりは、個々の認識の違いはあるだろう。 また、カトリックとして洗礼を受けたならば、そのカテゴリーにとどまってしまうの か。 斎藤さんの洗礼を受ける受けないのこだわりの一つに共同体のことも 入っているのでしょう。

    後半、有馬神父さんが入られて具体的な斎藤さんの洗礼の件についての お話に移り、私がいつも過激発言をしている割に、神父の横で、有馬神父 さんの言葉に賛同するかの態度に目を丸くされていたと思います。 ユダのごとく、ここでも裏切るのかと。

    そう、私はすべての対象に裏切るのです。
    まあ、私個人の洗礼についての共同体どうの何がどうのと関わりを持つのよりも、 まず私がそこにいる立場で私がまず存在していることの状態しか目に入らない、 わがままをとうします。

    しかし、さいとうさんの洗礼に関しては、やはり共同体にも受け入れられて、 まず最初の一歩は祝福のうちに歩まれた方がいいと思い、 zangaiの仲間内の中で洗礼を受けたいという思いも私はよくわかっています。

    斎藤さんは、わたしよりも玉造の共同体としての関わり合いは深いとの 認識しており、より多くの祝福の中で受けられた方がよいと今も思っています。 しかし、判断はあくまで斎藤さん個人の意志です。 私は、堅信も受けるつもりもありません。 私はまず私の事柄を持ち、それにこだわりますが、 それがベストとも思ってもいません。 他と私とは、やはり区別の中にあるのです。 それは差別ではもちろんありません。 まあ、裏切りのユダは永遠に裏切りのユダにほかならないからです。

    来月は、2月13日 金 玉造教会 司祭館にて、

    報告者 スピカ