もどる

トップへ


理系と文系

「世の中には理系と文系の二種類の人間が存在している」と考えている人は多い。

 理系人間は数学や理科などが得意で、計算や物事の観察能力に優れている。その反面、人付き合いや芸術の理解には不向きで、感情より理性を優先する傾向がある。

 文系人間は国語や社会などが得意で、人付き合いや芸術的感性に優れている。一方、計算や科学的思考法に疎く、理性よりも感情を重んずる特性を持つ。

 みんななんとなくそう思っているのではないだろうか?

 先日、ノーベル賞を受賞された田中耕一さんの言動 (記者会見中に家族と電話をする、出世を断ってまで現場で研究を続けた、等) を指して、「実に理系らしさが出ている」と評価する向きもあったようだが、そのような意見も右に述べた一般的認識から出ているのだろう。

 しかし、本当に人間を理系と文系に分けることなどできるのだろうか?

 わたしは小説家であり、文章を書くことで収入を得ている。そのことだけに注目すると、非常に文系的な人間であるように思われるだろう。

 一方、わたしは大学の工学系学部を卒業し、その後同じく工学系の大学院に進んでいる。研究論文を書いたことも学会発表したこともある。このことに注目すると、極めて理系的な人間であるようにも思われるだろう。

 果たして、わたしは理系なのだろうか、文系なのだろうか?

 いったい、「理系」と「文系」の違いはどこから生まれてくるのだろうか?

 わたしは「理系」「文系」とは本来受験用語だったと推測している。

「学問」は本来須らく「科学」たるべきだ。日本の大学で研究されている科学は大まかに分けると「自然科学」「社会科学」「人文科学」の三つになる。

「自然科学」は文字通り、自然を研究する科学であり、「社会科学」は経済学や社会学など、「人文科学」は文学や哲学を研究する科学だ。

 それぞれ対象とするものは違うが、科学であることには違いはない。

 科学とは、対象が何であろうと、経験 (観察と実験) に基づく客観的かつ合理的な知識体系のことである。

 科学を志すものにとって必要なのは、各分野についての基礎的な知識、そしてその知識を得るための観察力と合理性だ。つまり、一般的に「理系」の特性と考えられているものはすべての科学について有用なのである。

 しかし、自然科学の基礎的な実験や観察は比較的容易であるのに対して、社会科学や人文科学の実験や観察は様々な理由で困難な場合が多い。したがって、教育の方法としてはすでに得られた結果だけを教え込む傾向が比較的強い。

 言い換えると、自然科学系の基礎教育では単なる知識だけではなく、それを得るための方法論までが指導されるが、社会科学系あるいは人文科学系の基礎教育では知識の受容だけが行われがちになる。これは知識を得るための方法論よりも、その結果としての知識が重要だという訳ではなく、知識を重視させざるを得ないからである。

 その結果、自然科学系の学部は学生の適正を試すために、方法論的なアプローチができるが、社会科学系・人文科学系の学部では適正を試すためには、その知識量を計ることしかできないことになる。そして、単に知識量を増すためには、記憶力がもっとも重要な能力なのだ。

 純粋に受験テクニックとして考えた場合、物事を正確に記憶することが得意なら、人文科学系・社会科学系の学部を受けることが有利になる。また、記憶力はそれほどでもないが、データの分析が得意なら、自然科学系の学部を受けることが有利になる。

 こうして、学生の能力に応じて、学部の選択が行われるようになり、それぞれの能力を伸ばすための専門の受験教育が「理系」と「文系」という考え方に繋がっていったのだろう。

 もちろん、大学での研究の目的は、知識を記憶することではなく、新たな知識の獲得である。これは「理系」でも「文系」でも変わりはない。

 さて、このように新しい知識の獲得が得意な「理系」と、すでに存在している知識を記憶して利用するのが得意な「文系」の人間がいるのはなぜなのだろうか? 果たして、両者には本質的な違いがあるのだろうか?

 以下は、わたしが考えた仮説である。

 一般的に自力で新しい知識を得ることは極めて大変なことである。だから、人間は他人の知識をそのまま受け継ぐ能力を持っている。特に子供の頃は何の疑いもなく、大人からの知識を吸収し続ける。裏を返せば、人間が持つこのような能力を悪用すれば、洗脳することすら可能なのだが、たいていは文化の形成など有意義なことに役立っている。

 安定した社会では、この能力はとても有効に働く。社会の変化が小さければ同じ知識はずっと有用であり続けるからだ。新しい知識を獲得する能力より、古い知識を利用する方が安全で効率がいいのだ。だから、多くの人々はこの方法をとろうとする。

 しかし、世の中には古い知識を活用するのが不得意な人々がいる。彼らは常識がないとまで言われながら、新たな知識を得る道を選ぼうとする。これはとても非効率な生き方であり、普通に考えると、淘汰されてしまうように思える。

 しかし、古い知識が役に立たなくなるような変革の時代には彼らのような存在が役に立つのだ。多くの人々は常識的であるがために返って価値観が急激に変化する時代には対応が難しいのだが、元々常識に縛られないタイプの人々はそのような時代において新たな常識を創り出すことができるのだ。

 前者の過去の知識を活用するタイプの人間が「文系」、常識に関わらず自ら知識を獲得しようとするタイプの人間が「理系」だと考えることはできないだろうか?

「理系」と「文系」は対立する概念ではい。どちらか一方が欠けても人間の社会は正常に機能しなくなることだろう。

「頭が固い」「常識がない」等と互いに反発するのではなく、「理系」「文系」互いの特性を生かして、協力し合っていきたいものだ。

(<月刊国語教育> 平成15年2月号)


Copyright © KOBAYASI Yasumi 2003, 2005


もどる

トップへ