もどる

トップへ


まお (桜文鳥♂) の気持ち

 以前、手乗り文鳥を飼っていたことがある。

 文鳥を手乗りにするためには、雛の頃から人間の手で育てなければならない。一部の水鳥のように生まれて最初に見た動くものを親だと認識するといった単純な刷り込みではないようで、親だと認識させるには、少し手間が掛かる。誕生から数日後に親鳥から離して、その後人間が餌を与え、少し大きくなって歩いたり飛んだりするようになってからも、一緒に遊んでやると、人間を親だと思うようである。それも、餌を与えた人間だけではなく、他の人間に対しても、警戒感を持たなくなる。ただし、人によってあからさまに態度を変えたりもするので、個々の人間の見分けが付かないというわけではないらしい。

 手乗り文鳥は雛の頃は結構弱く、体温を保ったり、互いに競って餌を食べさせるため、三、四羽で育てることが多い。うちで飼っていたのは、雄の桜文鳥一羽と雌の白文鳥二羽だった。特に雄のまおは八歳まで生き、小鳥としては非常な長寿だった。

 本物の文鳥の親はある程度雛が育つと、巣立ちさせるのだろうが、人間はいつまでも「子供」として接っし続ける。すると、文鳥の方もいつまでも、雛鳥のように甘えてくるのだ。親の子への愛情は時限装置付きなのに、子供の親への愛情が無期限だというのは、不思議なものだが、それよりも不思議に思ったのは、彼らの愛情表現が概ね人間のそれと互換性があることだった。

 まおは人の顔を見ると、声を出して「籠から出してくれ」と訴えかける。そして、籠から出すと、部屋の中を飛び回り、時々家人の肩や手に止まって、身を摺り寄せたり、唇に嘴を差し入れたり、耳朶を甘噛みしたりするのである。

 犬や猫を含む食肉目と我々霊長目が分岐したのはおそらく白亜紀後期であり、その時の共通の先祖である哺乳類はすでに子育てをしていただろうから、愛情表現が似ていても不思議ではない。しかし、人間と文鳥の共通の先祖は三畳紀まで遡らねばならず、爬虫類であったご先祖様に豊かな愛情表現があったとは考えられない。文鳥と人間は進化の過程で偶然別々に愛情を獲得したことになる。だとすると、どうして二つの種のしぐさが互いに通じ合うのだろうか? 愛らしい彼を見ながら、数億年間の心の進化の神秘に思いを馳せていたのだった。

(<小説すばる> 平成15年12月号)


Copyright © KOBAYASI Yasumi 2003, 2005


もどる

トップへ