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来年以降誤解されそうな映画

 題名に年号 (それも、数十年後の) を入れることはかなり勇気の要ることである。

 ジョージ・オーウェルに『一九八四年』という小説がある。書かれたのは一九四〇年代であり、当時は題名を見ただけで、未来を描いたSFであることは一目瞭然だったろう。わたしがその存在を知ったのは七〇年代だったが、当時でもSFであることは明らかだった。理由はもちろん書名に未来の年号が使われていたからだ。しかし、現在予備知識なしに『一九八四年』という題名を見て、SFだと直感できる人はどのくらいいるだろうか? 題名だけで若いSFファンに気付いてもらえないとしたら、不幸なことだ。

 同じ意味で来年以降誤解を受けそうなのが『二〇〇一年宇宙の旅』だ。もちろん、この作品が映画ファン、SFにとってはこれからも名作として、評価され続けることは間違いない。しかし、三十年以上前に作られた映画に関する知識を持たない若者は、来年以降レンタルビデオのSFコーナーで、『二〇〇一年宇宙の旅』という題名を見て、「これは二〇〇一年に行われた宇宙飛行の記録映画か、再現映画なんだろうな」と思い、あのCG技術を使わずに撮影された奇跡の映像に触れないままの人生を歩んでしまうかもしれない。運良く観ることができたとしても、映画と現実の違いを論って、予測が外れたのだと的外れな批判をしてしまうかもしれない。(確かに、月面基地や人口重力を持つ宇宙ステーションや知性を持つコンピュータや地球以外の惑星への有人飛行は実現していない) これらの誤解は「二〇〇一年」という言葉の意味を取り違えていることに起因している。

 SFが急激に発達したのは今世紀に入ってからであったためか、漠然とした未来を象徴するために、「二一世紀」という言葉がよく使われた。われわれの年代にはまだその感覚が根強く残っている。以前 (と言っても、九〇年代後半だが)、ある作品で「いつかそのうち、そのようなことも可能になるだろう」というフレーズを使った時、わたしと同年代の担当編集者が「『いつかそのうち』ではちょっと曖昧なので、『二一世紀には』としてはどうか」と言ってきたことがある。現実に二一世紀になった途端、この言い回しはとても違和感のあるものになるに違いないが、この編集者の発想はまさに未来の代名詞としての「二一世紀」に親しんできた結果だろう。

 この未来の代名詞であった「二一世紀」をさらに象徴するキーとなる年号が「二〇〇一年」なのである。「二一世紀」が始まる年である上、「二」と「一」を含んでいる。つまり、『二〇〇一年宇宙の旅』という題名は公開当時、「未来・宇宙の旅」という程度の認識で受け取られたはずなのだ。

 しかし、「二〇〇一年」はまもなく現在になり、そして過去になろうとしている。われわれは新たな「未来」の代名詞を模索すべきなのかもしれない。

(<ダ・ヴィンチ> 平成12年10月号 )


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