『乾坤一擲』
〜36‰のチキンレース〜
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§ 奇妙な符合
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シーズン最後のレース、練習量もさほどなく、もはや観光モード、前日の結構な量の飲酒、当日の好天、そして、初めてのコース…
奇妙なことに、あるときの条件と驚くほどに一致していた。 |
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それは、2000年4月のかすみがうらマラソンであった。全く期待もせぬまま、予感もせぬままに走ったそのレースで、一気に2時間50分を更新。
それ以来、その時の条件を何度再現しようと試みても、果たせず、自己ベストは膠着状態が続いていた。そしてこの日を迎えた… |
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§ 戦いの前奏曲 |
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スタート地点の山ノ内町は、ややかすみががっているものの、今後の晴天を示唆していた。
標高が高いから寒いぞ、と地元の方に忠告されていたが、気温は8度ほどあり、しかも、風がない。
ランパン・ランシャツでビニール袋も被らずに十分耐えられる気候だった。 |
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それにしても、整列させられてからスタートまでの時間の長さにややうんざり。
しかも、スタートラインの目の前にお立ち台があって、招待選手を紹介していくのはいいのだが、レース時にはちゃんと片付けてくれるのだろうかと、要らぬことに気を遣わせた。 |
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ようやく2分前にお立ち台が片付けられ、ほっとしたものの、30秒前あたりで風船が割れた音がして、一部の選手が飛び出ししまった。
さてはスタートやり直しかと心配したが、何とか収めて、当初の秒読み通り、午前9時5分、道路脇の雷管もろともに号砲が鳴った。ロスタイムは、数秒程度。 |
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§ 36‰のチキン・レース |
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このコースは、公認にしては珍しく、ワンウェイでしかも下りという、かなり特異な形状をしている。
下りだから得をしそうなものだが、余りにも急な下りのため、オーバーペースになって、後半潰れるランナーが続出する難コースだと聞いていた。 |
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そこで今回の作戦は、あくまでも設定ペースを維持、下りでは決して飛ばさないことに細心の注意を払った。
5kmで180mの下り、勾配36‰(パーミル)。
いかに臆病者になれるかの戦い、意味は正反対だが、まさに「チキン・レース」であった。 |
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実際走ってみて、なるほど下りではあったが、自分としては、聞いていたほどは急ではないと感じた。
もっと急な下りなら、妙見山やポンポン山で経験済みだ。
しかも、その時はもっと速いペースでぶっ飛ばしている。 |
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周りのランナーは下りを利用してどんどん飛ばして行くが、ここは我慢だ。
自分を見失わないように、女子の上位と思われる選手を目標にした。
一人、ナンバー909だったか、取材対象となっているらしい選手を見つけたのでそれに合わせる。
しかし、どうも思ったより遅いようだったので、一人ずつ前の女子上位選手を捕らえていった。 |
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幸いなことに、このコースには1kmごとの距離表示があった。
あまり細かい区間でのラップにとらわれるな、という意見もあろうが、自分はこの方がやりやすいのである。 |
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ラップは、3:40、3:45、3:44、3:41…と順調に設定ペースのキロ3分45秒前後を刻んでいた。 |
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§ 6kmの高下駄 |
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5km通過、18分30秒。文句なしだ。さすがに下りをこのペースで抑えただけあって、まだ全然息は上がっていなかった。
偶然にはなるが、スタート前にトイレに並ぶ時間が長すぎたため、アップを全くしていなかったのだが、おかげでちょうどいいアップになったようだ。 |
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6kmあたりで、ようやく下り区間は終了。何か、ここからがようやくスタートのような気がした。
それもそのはず、ここまではとても楽に走れていた。 |
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例えるなら飛行機がエンジンを噴かさずにグライダー状態で滑空してきたようなものである。
更にマニアックな例えなら、標高0m初速ゼロから打ち上げるのではなく、他の航空機に上空まで運んでもらって、高度と初速を稼いだ状態で発射するロケットのようなものであった。 |
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いずれにせよ、かなりの燃料を節約できたはずである。
いわば、6kmの下駄を履かせてもらった状態であった。 |
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これはひょっとするとひょっとするかも。シーズン最後の最後で、乾坤一擲の勝負に出るチャンスが到来した。 |
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§ クール・ランニング |
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その後もほぼ設定ペース通りの快調な走りが続いた。高速道路脇を抜け、河川敷に入る。
例年風が強くなると聞いていたが、今回はたまたま弱いのか、むしろ心地よいぐらいであった。 |
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しかし、天気はすっかり晴れ渡って、気温は徐々に上がっていた。ここでまたふとした偶然が幸運を呼んだ。 |
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最近のレースでは、眼鏡がうっとうしいので使い捨てのコンタクトレンズを付けているのだが、
今回はちょっと格好つけてみたかったので、サングラスを買い込んで掛けていた。 |
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不思議なことに、まぶしさを感じないと、体感的に暑さがやわらいで感じられるようなのである。
レース後に、皆「暑かった」と感想を述べていたのだが、私は結局最後までそれ程暑いとは思わないままだった。 |
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そうこうするうちに、早くも中間点通過。1時間18分15秒。
あとハーフマラソンを1時間22分で走ればよいのか。
前回豊橋の時は到底無理だと感じたが、今回はひょっとしたら何とかなるかも、という思いを抱いた。 |
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§ エムウェーブの奇跡 |
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しかし、徐々に疲労が襲いかかる。6kmの下りで心肺は楽したかも知れないが、脚にはそのツケが回っているのである。
河川敷から分かれて一般道路に出る上りで、ペースが落ちる。 |
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遠くにエムウェーブが見える。
自分には、「M」というより「風の谷のナウシカ」に出てきた巨大昆虫「王蟲」に見えるのだが。
何とかあそこまで頑張ろう。 |
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25km通過、1時間33分3秒。
ここまでは何とか設定ペースだったが、ここからズルズル後退してしまうことが最近よくあるパターンだった。 |
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ところが、エムウェーブ敷地に入った途端、何か異様な空気に包み込まれた。
ここはゴール地点なのか、と見まがうほどのたくさんの観客。
しかも、トップ選手でもないのに、大声援。片手を挙げて応える。さらに声援が上がる。 |
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背筋が、ゾクゾクした。何か得体の知れない力が湧いてきた。
ちょっと前までの弱気がウソのように、敷地内の多少のアップダウンももろともせず駆け抜けた。
この1kmのラップは、5秒上がった。 |
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§ 第2段エンジン、点火成功 |
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今回は初めてのコースではあったが、たまたま事前に詳しいコース案内をチェックすることができていた。
その時にこれこそが勝負ポイント思ったのが、後半2ヶ所の上り坂であった。 |
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その一つ目が、28km付近、五輪大橋の上りであった。
取り付け部分は自動車専用になっているので、なだらかに延々と上りが続く。
ピッチ走法で何とか登り切ったところで、ここにも応援の観客がいた。
一般車通行止となったこの橋に、わざわざ応援のためだけにやってきた人達に、頭の下がる思いだった。 |
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30km通過、1時間52分27秒。平均速度ではキロ3:45をここまで守った。
かつてこのペースでここまで来られたのは去年の福知山だけ。
だがその時は既にペースが落ちかけの状態で、もうこれ以上は無理と感じていた。 |
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しかし、今回は違った。橋の下りになるから、しばらくペースは稼げる。
しかも、まだ余力は残っている感じがした。
さすがにキロ3:45は無理だが、キロ4:00なら何とか維持できそうだ。 |
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これはまさしく2時間40分切りのシナリオで描いている第二段階のペースそのものだった。
本当は30km地点を1時間50分で通過すべきなのだが、今回は2分30秒の遅れとなっている。 |
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それでもかまわないから、やってみよう。自己ベスト更新の可能性が、出てきた。
30〜31kmのラップ、3分58秒。「三段ロケット構想」での第二段エンジンの点火に、初めて成功した。 |
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ところが、32kmの通過ラップが、5:00を指す。
距離表示がおかしいのではないか。33kmの通過ラップ3:02で、精算終了。
まだ、キロ4分の巡航が続いていた。 |
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いよいよ2度目の河川敷コースに入る。さすがにラップは4分ひと桁台を指していた。
でもいつも4分台後半に落ち込んでいることを考えれば、大健闘だ。粘れ。頼むから粘ってくれ。 |
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前方に、招待女子のゼッケンを発見。ピンクに灰色、見覚えのあるユニフォーム。
弘山選手?そんなはずはなかった。しかし、紛れもなくS社の実業団女子選手だった。 |
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登記登録の男子選手が、エスコートするように走っている。あの集団に追いつけ。
38km付近、二つ目の勝負ポイント・松代大橋への上り区間で、妙見山モード炸裂。
ついに、集団を捕らえた。 |
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§ 勝利のVサイン |
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松代大橋の欄干には、Vサインが掲げられているという。ここまでたどり着けば、勝利は確実なのだそうだ。
果たして、そのVサインが現れた。このままのペースで行けば、自己ベストは行けそうだ。
実業団選手に、必死で食らいついた。 |
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40km通過、2時間33分14秒。
この10kmで、40分47秒。わずかに目標ペースより上回ってしまったが、第2段エンジンは十分その役割を果たした。
ついに、1年ぶりの自己ベストとの戦いが、始まった。残り時間、あと11分。 |
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沿道にはこれまたたくさんの応援があった。前回豊橋とは雲泥の差だ。
脚は既にもういっぱいいっぱいだった。
おそらくこの区間は自己ベストのペースの方が速いはずだから、後方からバーチャル自己ベストの自分が迫ってきているはずであった。 |
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41km通過、ラップは4:13。行ける。自己ベストめ、来るなら来い。逃げてやる。
絶対に、逃げ切ってみせる。 |
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残り1km通過。何と、この時点でもまだ時計は2時間40分を超えていなかった。
別大への切符も、手の届きそうなところまで来ている! |
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ゴール地点が見える。もはや自己ベスト更新は確実だ。あとはどれだけ削り込めるかだ。
しかし、もうペースは上がらない。食らいついていた女子選手からも、徐々に離される。 |
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ゴール会場は、トラックではなく野球場だった。やけに弾力のある緑のコースを跳ねるようにして駆ける。
サングラスを外した。そして、久々に、ゴール前で、吼えた。 |
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1年2ヶ月ぶり、フル6レース目にしてようやくの自己ベスト更新だった。 |
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