年賀状 


謹賀新年 2012

新年をむかえていかがお過ごしでしょうか。

世間でも、私にも昨年はあわただしい年でした。

日本科学者会議京都支部では:大震災・原発事故などにかかわる学習会・

市民講座などの取り組みが続きました。

河上肇記念会は:会報100号の発行、岩国の河上家へのツアー、会報100号記念

の鳥越俊太郎氏講演会の開催など多彩でした。 

5月から高等教育研究会の事務局長として:京都をはじめとする大学の教育・研

究のあり方、運営と改革の方向で苦悩する大学の姿を見てきました。

新しく「京大学生運動史研究会」がスタートし、事務局として研究会の開催、

「月報」の発行と資料の収集にあたっています。

 

今年もよろしくお願いいたします。 

                        2012年 元旦       山本正志 

             

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謹賀新年   2010

 

昨年の衆議院選挙での「政権交代」で世の中どうなる? どうもならない?

まだまだ見極めは簡単ではないようです。しかし、世の中は土台から変わっていきつつあるよう

な気がします。

京都労働学校で「環境とエネルギー」の話をしましたが、調べていく中で環境・エネルギー

対策で電気自動車が有力な次世代交通機関として浮上しつつあると知りました。エンジン動力の

車とちがって数々の精密動力制御装置(エンジン、ギアボックス、ラジエタ一、マフラー、その

) が不要、バッテリーは装着しなければなりませんが、夜間電力で充電しておいて (走行しない

日は)家庭用電源として使用できる (スマートグリッド)というのですから。おまけにこんな車

なら精密技術不要で誰にでも作れる (現に町工場で改造している! 中国でも新型電気自動車製造が

急増・NHKスペシャル09/11)のですから、石炭や繊維産業が日本からなくなったように産業構造

は大きく変わります。

雇用形態の変容、年金と老後保障・医療制度改革、そして次世代をになう教育学術のあり方など、

政権が新しくなっても今すぐ結論が出ない課題が眼前にあります。

今年も現場の片隅に立ちながら多くの方々のご教示を

いただきつつゆっくりと歩みたいと思っています。

 

山本正志

 

 

2008年 新年 おめでとうございます

 

新春の年明けを何十年ぶりかでおだやかに迎えました。多忙で充実した京都市会議員としての

20年を感謝と反省の気持ちでふりかる毎日をすごしています。

昨年の5月からの日本科学者会議(京都支部)幹事の仕事、週二回の京都教育センター資料室で

の仕事(資料整理・作業)とともに河上肇記念会、日本ユーラシア協会、日中友好協会、高等教

育研究会など、少しずつ活動範囲を広げつつあります。

今年は恒例のロシア旅行は旧ソ連圏のウズベキスタンで時期は3月上旬です。下旬には京大の

大西広先生に同行して日中友好経済懇話会の中国経済事情視察旅行(中国湖北省武漢・黄石)の

予定です。

政治を変える仕事の現場から、政治がなぜ動く、どう動く、変革主体の形成は?といった問題

意識を解き明かそうと苦悶しつつ挑戦していますが、今年も非力ながら努力を続けていきます。

2008年 元旦

 

 

 

 

 

 
保育・教育って大切な仕事  

 山本正志(日本科学者会議京都支部)

 

 私は岡山県下津井港の漁師の家庭の5人兄弟の3番目、当時保育園

はあったが多くの家庭が子どもたちを家庭で(事実上放置の状態で)

育てた。といっても当時は子どもたちだけで道路で、海岸で、山で、

寺の境内で好きなことをして日が暮れるまで遊んだ。

 私の家庭は妻と子どもたち4人の6人家族。父親として子育てをし

たという実感はいまもってない。(4人の保育園の送り迎えは朝夕ラ

ッシュ時に3ヶ所の離れた保育園で、悲惨を極めたが)

 学生運動、共産党専従16年、その後京都市会議員20年の時期を

通じて「社会変革こそ使命」と思い込み、科学的社会主義の哲学を聞

きかじってきたが、あくまでそれは自然と人間社会の発展法則に関す

る理論の問題だった。

 ところが保母という妻の仕事の関係上、保育・子育てにも理論があるということをやっと知って、読

み始めたのが田中昌人先生の本、これがおもしろい。「えっ、人の誕生から成長にいたる過程にも発展

法則があるのか!」とそれからいろいろの書物や講演会にも接触を始めたという次第。

「人知りそめし」(母親のことかな)「物知りそめし」(おもちゃのことかな)「我知りそめし」(自我

の発生)「理(ことわり)知りそめし」の各段階で節があり、それぞれの適切な支え(保育・教育)があっ

て人としての成長が保障される。(不適切な介入や放置では成長が阻害される)といった大まかな田中理

論のさわりの部分だけは今も頭の隅っこに残っている。「人の成長も発達理論に裏付けられているのか」

と感心して「保育・教育って大切な仕事なんだなあ」と口にしたら「気づくのが20年遅い」と言われ

てしまった。

(ひろば151号  2007年8月 掲載)

 

 

ご挨拶(2007年8月4日 ある集会での挨拶です)

 

 たくさんの方々に遠いところからもお集まりいただきまして

ありがとうございます。

今日は、卒業以来40年ぶりにお会いできた方もいて、懐か

しい思いでいっぱいです。

最近の心境をお話させていただきます。

20年間京都市会議員としての生活を送ってきたわけですが、

今回新人の人にバトンタッチいたしました。「まだ60歳だか

ら、議員を続けられるのではないか。やめないでほしい」とい

った声もお聞きしているのですが、選挙のたびに声帯ポリープ

ができまして、発声がままならないことになりました。

こくたさん、西山さんの選挙、その後の選挙のたびにポリープができ、とうとう4回も手術することに

なってしまいました。最初は簡単な手術でよかったのですが、次第に重大なことになり、最後は昨年の

7月に入院して手術をいたしました。おなじみになった府立医大の先生に「来年4月には私の選挙があ

るのですが」とお尋ねしましたところ、「多分またできる。癖になっていて、悪性にならなければよいが」

といわれ、観念して地区委員会に後継者を探してくれるように話をして、この4月、とがし豊議員に引

き継ぐことができました。

もともと、20年前の5月、当時左京地区委員会の副委員長をしていた私に、中川義文委員長から「タヤ

市会議員の後はお前だ」といわれ、家に帰って「今度市会議員選挙に出ることになった」と告げますと翌

日に離婚届が飛んできました。「あんたなんかに議員がつとまるはずがない。挨拶はできないし人のいうこ

とは聞かないし、出るのだったら勝手にどうぞ」というわけです。確かに私は近所の方との挨拶などは一

切しませんでした。

次々と挨拶をするたびに「本を読む時間がなくなる、もったいない」と本気で思っていましたから。とう

とう「選挙は一切手伝わない」ということで立候補することになりました。

20年間の議員生活を振り返ってみて、私はやはりやらせていただいてよかった、と思っています。党の

専従をずっと続けていく決意だったんですが、議員をやってみて国民健康保険のことや税金のこと、市民

生活全般にわたってはじめてわかったことも多く、本当に勉強になりました。

世間知らずということでは家の中でも時々激しく対立したこともありました。「借金をして家を買う」と

いうので「一生借金を背負って追われる生活なんかいやだ」といいますと「あんたはあほか」といわれ

ました。「このまま家賃を払い続けても何も残らないが、借金を払い終わったら財産になる。そんなこと

もわからないの」というわけです。生命保険をかけるときもそうでした。「俺の命がなくなるというのに

金がほしいのか」というと「バカ、死んだときのことよりも子どもが高校、大学と進学するときの支度

金も出るし、事故や病気で体が不自由になったら責任もてるんですか」といわれました。

こんな人間が、介護保険や医療・福祉など、人様の世話をすることができるまでになって、人に会うと

ふっと笑顔になるまでになりました。

もう一つは、かなり自由な勉強をすることができました。ご存知のように議員には調査研究費というお

金が出ていますが、たとえば中小商工業研究交流集会とか、自治体問題研究所の学校とか、原発の視察

とかいろんなところに出かけていって現場を見ることができました。京都府委員会はよくまあこんな勝

手気ままな議員を「野放しに」してくれたものだと感謝をしています。

 

今日の案内にも「第二の人生」と書いてありますが、のどを痛めて声も出ないので一応、政治活動の表

舞台での活動はお断りをしています。今やっているのは日本科学者会議京都支部の幹事をしておりまし

て、一昨日京都で開かれた原水爆禁止科学者集会の準備などでは看板作りからサーキュラーの印刷、お

弁当の手配など、裏方の仕事で結構忙しくしております。科学者会議には議員になる前から関わってき

たのですが、自由になったら本格的に科学者・研究者の一員としてのスタートを切りたいと思っていま

した。

もう一つは京都教育センター事務局のお手伝いをしています。資料室の担当というとで資料整理と勉強

するのが仕事です。議員の時から教育には、とりわけ京都の教育にはかかわりを持ってきましたので、

教育のゆがみと子どもたちへの影響、本来の教育のあり方など、多くの問題がありますが、時間的にも

各種の教研集会や学習会などに参加できるようになりました。その他に河上肇記念会の世話人、日本ユ

ーラシア協会(旧日ソ協会)京都府連の副会長という役も引き受けています。

そういうことで今では毎日図書館へいっての勉強や科学者会議、教育センターなどの仕事で毎日をすご

しています。できればどこか正式に勉強する場を得たいと考えています。

最後に、私が議員をしていて二つ三つ、困ったということがあるのですが、それは町を歩いていてしょ

っちゅう「なぜ国会議員に出ないんですか」と言われたことです。「次は府会議員ですね。国会へ出る

のはいつごろですか」といわれ、「私は全くその気はありません」といっても信じてもらえませんでした。

もう一つは、議員というのは組織人で、バッジをつけていますから、かなり窮屈で言いたいことが言え

ないということがあり、私自身は困りました。例をあげますと天皇の孫が生まれた時に市会で賀詞決議

をあげることになりました。「国会でも衆議院、参議院ともに賛成しているじゃないか」ということなん

ですが、私は絶対反対でした。議員団でも大論議をして私は反対を貫いたんですが、「国会でも賛成して

いるし目をつぶれや」というようなことで全員賛成ということになりました。困ったのはその後「山本、

おまえもか」といわれたことです。組織の原則上そのときに「私は反対の立場です」と口にできないこ

とには困りました。無防備都市宣言の問題など、こうしたことがたびたびありました。自由にものが言

えないというだけでなく、日本共産党の赤旗に書いてあることを口移しで宣伝しているだけじゃないか、

といわれることは耐えられませんでした。私も同じように見られるわけですが、これでは研究者・学者

としては失格だと思います。その意味では一日も早く自由になって自分で調べ、確信持ったことを表明

できる立場になりたいと願い続けて20年間我慢してきました。私は党の議員であっても自分の立場を

ある程度は自由に表明していく方がかえってまわりから信頼を深めることになるのではないだろうか、

意見の違いというのは調査、研究していけば必ず出てくるし、だからこそ活発な議論にもなるわけです

から、その方が組織としての信頼も増し、伸びるのではないか、と考えています。

これからは研究者としての自分を確立していくことを目指し努力を続けていくことを表明して御礼の言

葉とさせていただきます。本日はありがとうございました。