我らが「Light House」は、じつは語源が「Lighthouse」=「灯台」だというのはあまり知られていない(というか誰も知らない)事実なのだけれど、まあ、サークルにそんな名前を付けるだけあって、僕は灯台というものがとても好きだ。
そもそも僕は「はしっこ」に惹かれる奇妙な性癖を持っているので、陸地のはしっこにポツンと立って一晩中クルクルと海を照らす灯台という存在に、興味がわかないわけがない。ほとんどの人には意識すらされず、役に立つのかどうかもわからない。でも、それを必要とするものにとっては、絶対になくてはならない。これほど端的にマイノリティの意味を体現している存在は、灯台をおいてほかにはない。と、オーバーに言えば、そう思う。ささやかだけれども、なくてはならないもの。
この作品は、灯台の灯を守る一組の夫婦の姿を描きながら、その、なくてはならないものの大切さを、しっかりと教えてくれる。
舞台は昭和7年から32年。今のように自動化されていない当時の灯台は、住み込みの灯台守が毎日決まった時間に灯をともし、夜の航海の安全を守らねばならなかった。もちろん、嵐が来たからといって休むわけにはいかない。自分の都合なんかは二の次だ。子供が生まれるときも、それどころか死ぬときでさえ、仕事を休んで灯台の灯を消すことは出来ないのだ。
しかも灯台というものは、だいたいが人里離れた辺境に建っている。だからそこに毎日住み込むということは、同時に世間から完全に隔離されてしまうということも意味している。
他人との交流を絶たれ、我が子の死に目にも会えず、ただひたすら夫婦二人で顔をつきあわせる毎日。たった一回の見合いで結婚を決意した主人公夫婦(佐田啓治・高峰秀子)は、作品の中で流れる25年という歳月の、想像を絶する重みを受け止めなければならないのだ。考えてもみてほしい。いったい世間のどれほどの夫婦が、世の中から隔離された世界で自分たち家族だけの生活を送ることを望むことが出来るだろうか?もちろん、この作品に描かれた状況は、かなり一般からかけ離れている世界だとは思う。一日にたった一言二言の会話を交わすことさえ疎ましく思い、熟年離婚がひとつの選択肢として公認されつつある今の御時世だ。とことんまでおたがいを見つめ合うことがいかに困難かは、あえて言うまでもないだろう。
でも、と僕は思うのだ。生き方のバリエーションが増え、簡単に人生のリセットボタンを押すことが出来るようになった現代は同時に、時間をかけなければわからない大切なことを、見逃してしまっているのではないのか?と。
定職にも就かず結婚もしたことがない30そこそこの若輩者が何をエラそうに、とは思う。たしかにコレは、言うは安し、だろう。でも・・・という想いを、この映画を観た僕はうち消すことができないのだ。例えば、モノが壊れたときにとる行動は二通りしかない。新しいモノを手に入れるか、あるいは壊れたモノを「なおす」のか。
新しいモノを手に入れる方が簡単な時代だとは思う。でも、なおして使い続けるからこそわかる良さが、あまりにも軽視されていないだろうか、と、自戒を込めて、僕は思うのだ。この作品の舞台となる25年間は、まさに日本近代化に向けての激動の時代だった。明治が終わり、いくつもの戦争と敗戦を超えて、戦後の復興を果たした日本。監督木下恵介の視点は、そんな時代の激変に感情移入することなく、登場人物達をあえてその激動の中で「おたがいを見つめ合う」環境に置き去りにする。いろいろなことが起こっても、いや、いろいろなことが起こるからこそ、おたがいを信じ合い、助け合って生きることが必要なのだ。
劇中、高峰秀子がつぶやく「わたしたちがこんなに苦労をしていることを、世間の人はなにも知ってはくれない」という言葉に、佐田啓治がはっきりと答える。
「おまえの苦労は僕が知っている。僕の苦労は君が知ってくれているじゃないか」たった一人、世界にたった一人でもこう言ってくれる人がいるということは、ほんとうに素晴らしいことだと思う。
ささやかだけれど、なくてはならないもの。
などとガラでもなくクサいことを考えさせる力が、この作品にはある。
僕の長ったらしく説教クサい文章を読むよりも、ぜひ実際に作品を観てほしいと思う。2時間40分もの大作がズシリと心に迫り、気持ちのいいハッピーエンドがさりげなく「大切なもの」を教えてくれることだろう。