オバサン・ドライバーが行く 25
湯の誘惑
(桧枝岐)
尾瀬、というあこがれの秘境に裏切られた私は、ガイドブックが推奨する、べつの秘境を見つけた。福島県にある桧枝岐である。私は元来、石仏に興味ひかれるのだが、何もなさそうな町桧枝岐の、唯一の名物である六地蔵の写真に、心ひかれたのだった。あと、食事関係では大好きな蕎麦。写真で見る、桧枝岐の裁ち蕎麦というのが、めっぽう美味しそうだった。
というわけで、この旅行では初めて、旅館なるものに泊まることにした。
しかし、ここでも私は秘境という言葉に騙された。行ってから、桧枝岐は、やはり尾瀬へのベース基地になる地点にあると知った。私がトライした鳩待ち峠は、尾瀬に南から入るルートだが、桧枝岐は、北から入るための沼山峠にもっとも近い宿泊地が、この桧枝岐なのだ。
桧枝岐の町に入ると、あちこちに旅館や民宿が目立ったが、その多くの建物が、いわゆるプレハブの建物で、私の住む、京都の郊外の新興住宅地なんかで、いつも目にしている、小市民的な家とまったく同じような建物だった。思うに、秘境尾瀬への足掛かりの町として、秘境・桧枝岐は急速に発展したようだった。そのため、慌てて増改築したような、プレハブ建築が目立つのだろう。
ちょっと鼻白む思いでチェックインする。いかにもピーク時の助っ人アルバイト、という風情の若い女性の案内で、部屋に入る。旅館といっても、トイレも部屋にはついていない。一泊二食12000円なりである。
ただ、夕食は部屋食で、またご馳走とは言えなかったが、私には満足のいくものだった。蕎麦粉でつくった団子に、野菜のたっぷり入ったすいとんのようなもの。そして、細く、なよなよとした外見にもかかわらず、ほどよくコシのある、裁ち蕎麦が最高だった。
そして、何よりの大発見は、お湯の美味しさであった。小さな旅館であるかぎやの風呂は、決して大きくない。ヒノキ造りが売りの、小さな湯船だった。なんの変哲もない風呂である。なのに、それなのに私は、なんか、とてつもなく物凄い安らぎを得ていた。
「あのお湯にまた、つかりたい」という欲求が身体の奥深くからにじみ出てきて、私は三度湯につかった。
数々の温泉旅館に泊まったことはある。別府、杉の井ホテルにある3000平米のどでかい風呂にも、仕事ではよく行った。豪華な設備の風呂もたくさん経験した。だが、こんなにシンプルな風呂に、こんなにも心引かれたことはなかった。
それはなぜか?と考えてみると、それはお湯の良さにほかならなかった。
夕食は、部屋食であったが、朝食は下の大食堂で、他のお客たちと一緒だった。そこで、一人旅の女性と話をした。彼女は、私より少し年上の東北の人だったが、温泉巡りが大好きだそうだ。
「いちばん好きな温泉はね、やはり乳頭温泉の鶴の湯よ。なかなか予約が取れないんだけど、それはそれは、素晴らしいお湯なのよ」
彼女の温泉巡りの話を聞くうちに、そして何よりこのかぎやのお風呂体験から、私の温泉への興味がむくむくと沸き上がってくるのだった。
旅館、かぎやで支払いをすると、「日本の秘湯」のスタンプ帳というのをくれた。「日本秘湯を守る会」が推薦する秘湯の宿に泊まると、スタンプをくれ、それを10個集めると、好きな宿に一泊招待してくれるらしい。スタンプ帳の宿のリストを見ると、さすがに信州以北に多くの推薦宿がある。その分布を睨んでいると、湯の宝庫は北よりで、関西人の私が、今までこんなに美味しい湯にありつけなかったのが、うなづける気がした。
旅のルートが、このリストにある宿をかすめる時は、また旅館に泊まってみようと考えるようになった。これが、私と秘湯との出会いだったのである。
次の宿は、福島の高湯温泉にあるユースだった。オープン間もない、施設は一段階ハイクラスを誇るユースだった。ユース・ゲストハウスという、ユースとはちょっとカテゴリーを別にする施設だった。私一人しか宿泊客がいないので、10畳トイレ付きの最高の部屋をくれた。
居心地のいいユースではあったが、ユースにただ一人泊まることに、ちょっと疲れてきていた。ユースは、ホステラーとの会話があってこそ楽しい。どうせ一人なら、ビジネスホテルの方が、ちゃんとプライバシーのある一人になれるのでいい。
どうやら、ここに至って、私はユースに疲れてきていたようだった。
26 東北まっただなか