オバサン・ドライバーが行く 36
帰路につく
(陸中海岸)
北海道には二週間いた。とてもラッキーに、毎日のように晴天に恵まれた。私が北海道に到着した日の晴れ間は、数週間ぶりだったそうだから、これは私の旅行中、最大のツキであったようだ。
天気予報をみると、この先はまた毎日のように、雨天が続くようだった。
帰り時、だと思った。
本州でも、帰路用にとっておいたスポットがいくつかあったので、そこをたどって帰ることにした。
函館−青森のフェリーに乗り、未踏の津軽半島に行った。竜飛崎の展望台につくと、みやげ店のオバサンがじっとこちらを見ていた。そして話しかけてきた。
「ねえねえ、お姉さん、一人で京都から走ってきたのぉ。すごいねぇ」と。
私はそれを聞いて、ああ東北に帰ってきたんだと、感じて嬉しかった。私の京都ナンバーがもっとも輝くのが、東北地方である。
北海道に至ると、大阪や東京の人間がフェリーを使ってくるから、関西ナンバーの車もぜんぜんもの珍しくないらしい。私はミーハー的自己満足が得られずに、寂しい思いをしていたのだった。

青函トンネル記念館に入り、竜飛崎から西回りで津軽半島を南下した。ここの景色が抜群だった。岬一面が緑に覆われていて、切り立った山がストンと海に落ちる。この緑と青空の色のコントラストが実にいいのだ。
その後、見残しの陸中海岸、龍泉洞と回り、また泊まり残していた人気ランキング上位のユース三軒に泊まった。ユースばかりでなく、友人から薦められていた黒崎にある国民宿舎、なんとなく引かれて入った高湯温泉の旅館、ビジネスホテル、とバリエーションを持たせながら、日本列島の東岸沿いを南下した。
福島の高湯温泉で天気予報を見ると、もうどこもかしこも梅雨のまっただなかで、週間予報の表は、灰色一色である。
やり残したこともなくなって、いよいよ帰宅の時がきたらしい。
最後にひとつ、富山の親友の都合がよければ、もう一度会ってから帰ろうと考えて、電話して、再会の約束をした。会えないようだったら、もう少し福島寄りの上越で一泊してから帰るつもりだったが、会えることになったので、翌日は福島から富山と、ちょっとハードな行程になった。といっても、北海道で鍛えたから、少々走行距離が伸びてもどうということはない。
高湯温泉から115号線で磐梯山をかすめて走り、猪苗代湖へ。そこから49号線に出ると、とたんにトラックが増えた。トラックは乗用車とちがって、それぞれの運転手が自分のトラックの美観を考えないから、とにかく汚い。また、全員ではないが、相対的にみて運転のマナーがなってないことが多い。
そんなトラックに前後を挟まれてのドライブは、危険が倍増、楽しみ半減である。幸い好天に恵まれたこの日、私は最後のドライブにこだわった。それで、福島と新潟を最短で結んでいる49号をはずれて、柳津から252号に入った。するとぱたっと交通量が減り、ドライブは快適になった。
交通量が少なく、道がゆったりとしていて整備され、晴天に恵まれた時のドライブは最高だ。運転そのものも楽しく、移り変わる景色はいついつまでも飽きない。ドライブの楽しみを知ってしまったら、列車やバスを乗り継ぐ旅には戻れない。なんといっても、出発時間に制約されない自由がある。
こうやって気ままにハンドルを切る自由は、なにものにも代えがたい。80日、風の吹くまま、気の向くままに、アクセルを踏んできて、ひとつ感じたことがある。日程に制約されないドライブ一人旅は、子供のいない女の生き方とよく似ている、ということだった。
日本の社会に生きて、結婚し、子供を持つと、とんでもない制約をしょいこむことになる。日本は、「みんながやっているから、私もそうしよう」と考える、同調主義の社会である。そんな中で子供を持ってしまうと、大多数の生き方に逆らえなくなる。逆らってはいけない、とは誰も言わないのだが、子供の幸せを考えると、あまり逆らったことはできない。親が風変わりだと、子供が学校でいじめられたりする。日本というのは、度量の小さい国なのだ。
ところが子供を持たず、経済的に自立している今どきの女は、風変わりではあるが、ちょっと先を行っているとの解釈から、世間からあこがれられることはあっても、さげすまれることが少なくなった。割り切ってしまえば、このこせこせした日本の、中心的部分をちょっと外れた周辺域で、心地よく生きられるのだ。
つまり、今どきの日本で、子供のいない女ほど、自由奔放に生きられる人はいない。
ただ、自由過ぎて、疲れてしまうことがある。
仕事がいやになったら、転職すればいい。条件さえ下げれば、何らかの職は見つかる。住む所に飽きたら、引っ越しすればいい。旅に出たくなったら、休暇が取れるかぎり、簡単にどこへでも行ける。
だが、自由だということは、その場その場で自分の道を決定しなくてはならない。
子供がいれば、自由がない。自由がない、ということは、言い換えれば、明日自分が何をするかを考えなくても済む、ということである。自由な場合は、いちいち考えなければならない。休みの日をどう過ごすか、自分で決めなければ、何も始まらない。
ドライブを続けていると、ふとこの決めるのに疲れることがあった。明日、どの町へ向かうか、どのルートで行くか、どんなところに泊まるか、何を食べるか、何時に寝て、何時に宿を出るのか・・・
いや、車に乗ったら、すべての交差点で、どちらに進むかを決定しなければならない。ありとあらゆる分岐点で、どちらに進むかを決めて、ハンドルを切り、アクセルを踏み込まなければ、車は前進しない。
パックツアーなら、集合場所にさえいけば、あとは添乗員の指示に従えばいい。従わなくてはならないのだが、それは見方を変えれば、従いさえすれば、事は済むということである。列車の旅だったら、乗ってしまえば、切符を買った先の駅に着くまでは、何も考えなくていい。
だが、車だと、いちいち決定をくだしてやらないと、前に進まないのだ。
私は、このドライブ旅行で、自由というものが、楽しさと煩わしさを持つ、両刃のつるぎである、ということを、旅という別の角度から学んだ気がする。
37 卒業試験