京都音楽家クラブ第678号(2015年10月号)掲載

「ピヒト・アクセンフェルト女史の楽器がうちにある理由(わけ)」

井幡万友美       

ドイツの名鍵盤奏者ピヒト・アクセンフェルト女史をご存じでしょうか?カラヤンが「ブランデンブルク協奏曲全曲」の録音に最初に臨んだ際に全幅の信頼を寄せチェンバロパートを任せた方。日本にも女史のもと研鑽を積まれた演奏家が沢山いらっしゃいますね。そのピヒト・アクセンフェルト女史の生前愛奏されていたチェンバロが縁あって今は私の元にあるのです。
今日はなぜその楽器が私の元に来ることになったかをお話しましょう。

今から13年前のある日、(今年4月に逝去された)恩師有賀のゆり先生から「ピヒト先生のご遺族から『ピヒト先生の楽器(1976年WilliamDowd製作)をどなたかに譲ろうと思う』ってお手紙が来たの、あなたDOWD探してたでしょ、どう?」と言うお話がありました。けれど、そのお手紙が有賀先生のもとに来たのは半年前のこと。そして探しているとは言うものの、あまりに突然なお話に戸惑いすら覚え、
「先生、半年も前のお話だったらきっともうどなたかの元へ行っていますよ。」
「でも、取り敢えず連絡してみなさいよ。」
そんなやり取りがあり、詳しいこともわからぬまま有賀先生から頂いたアクセンフェルト家の住所に手紙を書いた私は、正直返事すら返って来ないと思っていました。が、手紙が着いたであろう1週間後、手紙に書き添えていた私のEメールアドレスにアクセンフェルト家のご長男と名乗る方から
「今誰に譲るか家族で審議中です。あなたもそのリストに入れましょうか?」とメールが届いたのです。
「あらまぁ」と思いながら、取りあえずそのリストに入れてもらうことにし、そのご長男と文通を始めました。私がどのような勉強をして来、今どんな活動をしているか、音楽について芸術について人生について話題は尽きることがなく・・・。
そうこうして3か月が経った頃、突然「そろそろ最後のカードを見せましょう」と言う文面のメールが。「最後のカード」とはつまりお金のお話。果たして「最後のカード」に示されていた数字はとても私の限界を遥かに超えたものでした。けれど冷静に考えると、決してアクセンフェルト家が吹っ掛けて来たわけではなく、その楽器の価値としてはむしろ良心的な数字です。が、いかんせん、無い袖は振れぬとはこのこと、どんなに頑張っても私が払える額ではないのは確か。これはやはりひとときの夢だったと観念し早めにリストから外してもらう方が良かろうと、「大変残念ながら今回はご縁がなかったようです。今私の立場で用意出来るのは10年分の貯金○○円で、とてもピヒト先生の楽器に値する数字ではありません。ですからリストから外して下さい」と返事を書いたのです。すると即座に、ほんとに即座に「あなたのご事情はよく分かりました。が、もう少し待って下さい。少し家族で話し合ってみます」と謎の返信が。そして3日後に驚くべき内容のメールが届いたのです。
「家族で話し合った結果、私達はあなたに母の楽器を譲ろうと決めました。全ての費用を合わせてあなたの支払える額にします。ここでなぜあなたに譲ることにしたのかをお話します。リストに名前のある方々は皆母のファンで、楽器を母の形見として欲しいと言う方達です。ですから決してお金の問題がある方々ではありません。ですが、私達は母の遺志を語り継いで下さる方に譲りたいのです。語り継ぐと言うのは楽器を演奏会で弾いてもらうこと。母の楽器をどうぞあなたの演奏活動のパートナーとして下さい」と。
思いもしなかった展開に唖然としている間もなく、それから3か月後、ピヒト女史の楽器はパリの工房での最終チェックを経、遠路遥々日本にやって来たのです。

アクセンフェルト家のご厚意のもと、こうしてうちにやって来た楽器は、時には優しく、時には叱咤激励するように、今日も私のチェンバロ弾き人生に寄り添ってくれています
よく考えると、名演奏家が愛奏されていた楽器とは言え、試弾もせず、メールのやり取りだけで決めるなんて「無謀」なことです。
けれど、時には「無謀」と言う力に清水の舞台から蹴り落とされてみるのも悪くはないかも・・・とも思うのです。