「酒鬼薔薇」少年に思う

「言論の自由と責任を考える」と題した一文を書いて以来、 はやもう二ヶ月が過ぎようとしています。 「酒鬼薔薇」事件に寄せて、その報道のされ方、 インターネットでの顔写真の公開、実名の公開に寄せての疑問を呈することに始まったのですが、 もともとの私の関心としては、「酒鬼薔薇」と名乗った犯人その人にありました。 というのは、「酒鬼薔薇」が、中学生だった少年だったということだけでなく、 犯行声明文などから垣間見られる心の闇の問題は、我々が日常的に従っている社会規範のあり方を 根底から問うものであり、一見当たり前であるとされているものが、 実はまったく何の根拠もなく、 ただそうだと見なされているに過ぎないのであるという事実が赤裸々に暴露されているからです。

例えば、「殺人は悪である」ということは我々の常識からすれば当然のことです。 しかし、「なぜ殺人は悪であるのか?」、 また、「果たして殺人が悪であるということは普遍的な原理といえるのか?」、 と問われれば、どうも確かな答えが存在していないという事実に気付かされます。 確かに、「自分が殺されると困るだろう」などと功利的な理由から殺人が悪であると説明できますが、 しかし、安楽死を望む人などはある種の状況が来れば、殺されることを望んでいるとも言えますし、 生物原理として考えても、共食いをする生物もいれば、 ある種のストレス環境を作れば、実験用のネズミですら、仲間を攻撃する行動をとることがあります。

しかも、日本国をはじめ、多くの国家体制においては、 死刑制度や「合法的な」戦争を認める場合もあるように、 「殺人は悪である」ということは、事実上、普遍的な原理となっていないことは明かです。 つい先日(97/8/1)、永山則夫氏をはじめ4名が、国家の法律、社会正義の名のもとに、 死刑執行されましたが、このことは「殺人は悪であるが、例外もある」という道徳意識の現れです。 多数の人間が、「自分たちが殺されては困るから」というような観点から、 「殺人は悪である」という規範が暗黙のうちに作られたのだと考えるならば、 自分たちへの危害が想定される場合は、 「殺人は悪である」という原理を停止することが可能となっています。 我々の従っている社会規範は、だいたいこのようなものなのです。

「戦争にも、やむを得ない場合もある」と考えたり、 「犯罪を犯した人間には死刑を執行しても良い」と法律で定めたり、 また、「自分の身に危険が迫っている場合には、正当防衛として罪が相殺される」と考えることは、 正当なことなのか、それとも不当なことなのか?

「殺人は悪である、いつ如何なるときも決して許されることがない」と考えることは、 理論上可能ですし、そういう思想をお持ちの方もおられるのも事実です。 しかし、少なくとも私の場合は、自分がまさに殺されようとしている時なら、 殺人が悪であろうとなかろうと、何もせぬまま自分が殺されたいとは決して思わないだろうと考えます。 そして、このことは、事実上、社会規範の中にも、取り入れられている思想であるといえましょう。

原爆投下によってアジアの平和が訪れたという主張は、 アジア各地は言うに及ばず、アメリカをはじめ、世界各地では常識的な見解となっていますし、 少なくとも、原爆を投下した兵士が、殺人犯として処刑されることはありません。 その一方で、原爆投下がやむを得なかったなどと 言い切ることにはどこか抵抗も感じますし、 様々な政治的な思惑や歴史的な事実関係の問題も存在しますが、 しかし、やむを得なかったと逆の立場を想定することは十分可能です。

それはともかく、このように我々が持つ社会規範、倫理というのは、 浮き草のように脆くて、危ういものです。 にもかかわらず、我々はそれに従い、何くわぬ顔で暮らしているのですが、 もはやそれを馬鹿らしいと思ったり、耐えきれないと思ったりすることは、 一度ならず経験された人もおられるのではないのでしょうか? もっとも、ドストエフスキーやカミュならいざ知らず、 殺人を犯す犯さないといったことを自分の問題として悩む人は少ないかも知れませんが、 底知れぬ「無」や「闇」を感じることはあるはずです。

私は家庭教師や塾講師として、 小学生から中学生、高校生、大検受験生などに接してきましたが、 驚くほど、この「闇」を見た子どもが多いのに驚いています。 といっても、ただ単に、私を慕ってくる子どもには、 その傾向が強いのかも知れませんが、 例えば、死への関心、自分という存在への疑問、 人間や社会の根拠の不確かさ、未来への不安……、 どれもがありきたりのようでありながら、 きわめて哲学的な問いを含んだものなのです。 もちろん、「なんで人殺しをしたらあかんの?」という問いもよくある問いです。 私は、今でもそのような問いを問うている人間であり、 そのような問いに答える十分な能力はありませんし、 その反対に、「そんなしょうむないこと考えとらんと勉強せい」などと言う気もありません。 やはり、自分自身で考えるしかない問題であると同時に、 問いを発することもまた有意義なことです。 書物を通じて、古近東西の諸賢に接することもあれば、 うだ話の中で問い−問われることによる新たな発見もあるように思いますが、 いずれにしろ、「道徳教育」や「心の教育」などとして、 半強制的に植え付けられるものではないことは確実です。 というのは、学校という空間は、あまりにも明るく、建前に満ちあふれ、 「闇夜」を照らす「光」とはならないからです。 「太陽」は「闇夜」をかき消すことが出来ますが、「闇夜」はかならず再びやってきます。 「闇夜」には、「月」と「星」と「ランプ」が必要なのです。

「酒鬼薔薇」少年が、抱いていたであろう心の「闇」について、 いまだ明らかにされていることも少なく、噂話程度の情報と、 それをもとにした素人にでも出来そうな「専門家」の論評があるのみですが、 いくつかの月刊誌などをあたると、なかなか深いものに接することもあり、 考えさせられることもあります。 また、次の機会には、それらを踏まえて、論じられればと思っています。 ご意見など、お伺いできれば幸いです。 (97/9/15)


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生は多数者の、あまりにも多数の者たちよって、そこなわれている (Nietzsche) 
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