実名報道や顔写真を暴露することについて、

そもそもいったい何が問題であるのかについての法律論ではない根本的な問いの考察


顔写真を見ること、実名を知ることは、プライバシーの侵害であるとも言えますが、 その時、まず何が問題になるかと言えば、少年が少年院を出てきた時、 実名や写真が公開されたことによって受ける不利益についてであるといえましょう。 世の中には、多数の犯罪者が連日逮捕され、新聞紙上に姓名や写真を公開されていますが、 我々はその一つ一つを覚えていません。 氏名などの公開が社会的制裁につながることは、 おそらく、その人の近隣の人及び関係者に、その人が犯罪を犯したことが知れわたる点にあるかと思われますが、 近隣の人や関係者は、マスコミが報道しようがしまいが、 誰が何をしたのかということを、口コミによって知っていますから、 少年法を盾に、杓子定規に、姓名や顔を公開するな!、 と叫んでもあまり意味のあることとは思えません。 大阪や東京にでも引っ越してしまえば、 おそらく、過去を知り、それを覚えている人など、どこにもいない可能性が大きいと思われます。

とは言え、繰り返し、繰り返し報道され、 あらゆるところでその名を見聞きした凶悪犯や容疑者については例外かもしれません。 「麻原彰晃」氏にしろ、彼の本名と容貌をおそらく忘れない人は多数いるでしょうし、 宮○さんにのツトム君のように、忘れようにも忘れられない、 頭の中に刻み込まれてしまった人物もある訳です。 これは何度も何度も繰り返して見聞きすること、 もしくはそういう状況を作り出すことに問題があるのですが、 もし、「酒鬼薔薇」少年の顔写真と実名がこのような扱いになれば、 彼の容貌と名前も決して人々の記憶から忘れ去られることがないかもしれません。 ただし、「focus」のように、ただ一度、顔写真のみを公開しただけなら、 このような心配は杞憂に終わります。 問題提起として、この写真を公開することの意義は非常に大きいかと思われますし、 これは単に少年法への問題提起と言うだけでなく、 少年の顔写真から得た情報の大きさは (例えば、私にとってはあまりにも「普通の」中学生であったことは)、 計り知れないものがありました。 もし、情報の公開が、このようなレベルに止まるのならば、 容疑者の少年の人権にもそれなりの配慮がなされたと考えることができます。 しかし、新聞やテレビなどで、毎日、顔写真が報道され、 さらに、氏名や学校名が報道されれば、 これはもう、決して忘れることの出来ないものになってしまいます。

私は毎日、新聞やテレビを見るわけではありませんが、 もうすでに、この少年が通っていた中学校の名前は、 すっかり脳裏に焼き付いてしまいました。 おそらく、今後、履歴書などでこの中学の名を見れば、 ああ、あの中学かと思い出してしまうことになります。 だからといって、どうかしようというのでもないのですが、 この中学の出身者にとっては、あまりいい気のするものではないでしょう。 この程度ならば、何の実害もないのですが、 一般に「ああ、あの悪のおった中学かいな」ということで、 就職などで不利益を受けることもありますので、 そこでもし、少年の実名や顔写真が報道されれば、 どのようになるかを考えると、少々恐ろしい気がしないでもありません。 たった数年で少年院を出てるということにも問題はありますが、 その問題はともかく、 少年院を出てから、彼がどのように生きていけばよいのか、 また、社会がどのように受け入れるのかを考えれば、 この少年が誰であるかが特定されれば、大きな問題が生じることになります。 もし、少年院によって、十分に悔悛し、更正の可能性が養われていると、 世間の誰もが認めるならば、この少年の身元が分かり、過去の罪科が明らかになっても、 この少年が排除される可能性はありませんが、 現状から見れば、この「酒鬼薔薇」少年の居場所は、ほとんど考えられません。

隣人が凶悪犯であるかもしれない恐怖。これは誰しも持っていることかもしれません。 しかし、成人が殺人を犯しても、10年程度で出所する事例もたくさんあるわけで、 無期懲役の凶悪犯が仮出所しても、多くの人はそれが誰なのかまったくわからない現状があります。 もし、こういった情報が公表されれば、その公開のされ方によっては、 出所後、家を借りようとしたり、仕事に就こうとしても、 それが障害となって、社会復帰できない可能性がますます大きくなってきます。 もっとも、かつて、パリ大学に留学し、オランダ人女子学生を殺害して、その人肉を食したS氏は、 心神耗弱状態を理由に罪に問われず、現在、この日本社会で元気に暮らしておられるようですから、 「酒鬼薔薇」少年も居場所がないとも言い切れませんが、 どこか過去の罪を開き直って、それを売り物にしているようでもあり、何とも複雑な気がします。 実名報道がなされた末に、彼がこの娑婆に戻ってきた暁には、 新潮社あたりから「THE 首切り」とでもいう本を出させてもらえるのか、 それとも、解剖学でも研究するか、外科医にでもなるのでしょうか……。 普通に就職できる可能性は極めて低くなると言わざるを得ません。

さらにいうならば、成人の犯罪者にしたところで、 前科の制度が残り、履歴に空白があれば、 なかなか社会が受け入れない現状があるわけですが、 ではどうして社会がなかなか受け入れようとしないのかと言えば、 出所者が本当に悔悛しているのかどうか、本当に更正できるのかどうかを 疑問視しているからと言えましょう。 25年服役したからといって、本当に悔悛するとは限らないし、 また、逆に、執行が猶予されても、悔悛し、更正する場合もあるわけです。 例えば、教員免許などは、確か懲役か禁錮何年以上といった前科があれば、 取得することが出来ないように、このような制限を持つ職業は少なからずありますが、 もし、罪が本当に償えるものであり、出所後も、再犯のおそれがないというのであれば、 このような制限など、撤廃されてもしかるべきものです。 とは言え、刑務所のあり方がいくら改善されたとしても、 このような状態になるかどうかはなかなか難しいところかもしれません。

そもそも、少年の場合も、少年院が更正施設としての機能を果たしているかどうかと言うことが問題になっていますが、 悔悛しようがしまいが、若気の至りと言うことで、罪が許される場合もありますし、 少年院に入院していたという事実は、 大学院に入院した文系学生以上に、就職面で不利な扱いを受けることもあります。 しかし、前科がつかないことにより、 可能性としては、あらゆる職業に対して道が開かれているわけです。 悔悛の情があろうとなかろうと、 社会が一切のわだかまりを捨てて受け入れることによって、 社会が少年を更生させる可能性を持っているわけで、 また逆に、少年を拒絶することによって、 何らかの再犯へと追いやる可能性を持っています。

広島に原爆を投下したアメリカ軍の兵士、南京大虐殺の日本兵、 パリで殺害した死体を食したS氏、そして、この「酒鬼薔薇」少年他、その他諸々、 殺人を犯したにもかかわらず、その罪がほとんど問われないであろう人々が多数いるわけですが、 彼らが罪の意識を持っているのか、また、悔悛の情を持っているのか、ということは判りません。 彼らを罰したいと願う人々、特に被害者の遺族の方などは、そのような感情をお持ちになるでしょうが、 まず、社会全体の問題として、しなければならないことは、 社会的な制裁を加えることではなく、 このような事件が再び起こらないようにすることと、 犯罪を犯した人が、何らかの形で更正してやっていけるようにするということでしょう。 戦争から帰還した兵士の社会への不適応が問題にされることがありますが、 この場合、彼ら兵士の犯した殺人の罪を罰するのではなく、 いかにそれを癒して、社会で更正していくかというメンタルヘルスが問題なのです。

もしこの「酒鬼薔薇」少年が誰であるかが特定されることになれば、 社会の人々からの色眼鏡に曝されることになり、 更正する可能性が狭める可能性が大きくなるでしょう。 とは言え、警察のリストからは、この少年の名が消されることはないでしょうし、 それはやむを得ないことです。 ただし、その場合にしたところで、常に犯罪者予備軍という色眼鏡が付きまとうのならば、 更正の気力を喪失してしまうおそれもあり、あくまでも更正を促すように、 メンタルヘルスや、ソーシャルワークの対象としてのケアが望まれる所です。

たいして悔悛の情も持たずに、今までのことは若気の至りということで、 その後、つつがなく暮らしていくならば、 犯した罪の大きさを考えれば、たしかに納得できないような感情も抱きますが、 かといって社会的な制裁ということで、この少年が特定され続ければ、 更正の機会がなくなってしまうことになります。 現在の少年法や少年院のあり方では、 刑罰による犯罪の抑止力としての力も弱ければ、 犯罪者が悔悛の情を感じ、また更正へとつながることは少ないのでしょうが、 マスコミ報道とて同じです。 悪を犯した愚か者を生け贄として、いたぶり尽くすだけでは、 確かに胸のすく思いがしたとしても、何も生まれないということです。 大切なのは、犯罪を繰り返さないためにはどうすべきなのか、ということと、 犯罪者を社会がどのように受け入れていくのかという点にあり、 そういった観点からは、学校教育のあり方や、親子関係や地域社会のあり方なども含めて、 少年法や少年院の問題点なども議論されてしかるべきかと思われます。 そして、我々自身が、そもそも新聞やテレビの報道に流される必要などはなく、 もっとじっくりとテーマを掘り下げて考究していく必要があるかと思われます。

昨日の新聞と今日の新聞、 一昨日の新聞にしたところで、各紙様々な記事が様々な角度から記述されていますが、 その記事すべてを熟読しようとすれば、一日すべてを費やしても時間が足りません。 この一連の事件に関しても、日々垂れ流される報道に接するよりも、 しばらくの後、豊富な見識と緻密な調査にもとづいて書かれるであろう、 良質のルポルタージュなどを手がかりに、 それをもとにして、思索を深め、新聞記事をさかのぼったり、 また、いくつかの文献に当たる方が、事件の真相により迫れる可能性が大きいと言えましょう。

共時的に問題を知り、それを語ることの意味もありますが、 現在はそれが余りにも大きくなりすぎています。 確かに、今、知ることが、 一年後に知ることよりも意味深いこともありますので、 一概には言えませんが、 おそらく今、繰り返される報道を一年後に見れば、 なんと愚かなことを連日繰り返していたのだろうかというような意味しか、 その多くが持ち得ないかと思われます。

とはいえ、一年後であろうと、十年後であろうと、 この「酒鬼薔薇」少年の顔写真の持つ意味の大きさは、 おそらく変わらないかと思われますが、 ただ、現在におけるこの写真の公開は、 この少年の真相に迫る貴重な情報源であるという意味と、 容疑者を広く告知するという社会的制裁という二側面を持っています。 しかし、時間とともに、後者の側面が捨象され、 純粋に、事件の真相を知る手がかりであったり、 人間とはそもそも何であるのかという問いへの、人間学的な素材となるのでしょう。 昔々ある所で……という昔話の形式となるのか、 また、歴史的事実となれば、いつどこでだれがという事実の特定もなされるのでしょうが、 そこには、もはや社会的制裁の意味はありません。 そのような意味での情報公開がなされるのであれば問題はありませんが、 プライバシーの暴露が社会的制裁としての側面を持つ限り、 そこへの配慮なしに、情報を公開することは、誰にとっても越権行為であると、 言えるのではないかと思われます。

97/7/19

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