佛蘭西古書通信 1997.3 (1) by  泰俊 


 それにしても、愛書家といふ特殊な人種の生態は、自己反省をするときも含め て、これを観察してゐて少しも飽きるといふことがありません。こちらで知り合 つたエマニュエルのことを書きませうか。一年余り前にブランションの古書市で 知り合つたこの本の虫は、人生のすべてを書物に捧げてゐるのではないかと思は れるほどの愛書家です。はじめて出会つた日に私がまづ驚かされたのは、この青 年が書物を取り扱ふときの様子です。十八世紀以前の古版本は装釘が痛みやすい ので九十度以上これを開いてはならない、といふのが鉄則にして常識であること くらゐ私も知つてゐるつもりでしたが、彼の場合は極端で、書物の両表紙が開き 過ぎないやう左掌全体で包み込むやうにがつちりとこれを保護しつつ、まるで「 蝶の羽に触るるが如くに」そぉっと頁を繰るのです。その尋常ならざる仕草がい かに繊細で神経質なものであるかは、これをまぢかに見たものでないと想像しに くいかと思ひますが、とにかく書物の頁を捲る手つきをちらりと見ただけで、そ の人の愛書家歴が分かるのだといふことを、このとき初めて知りました。それは 丁度、袱紗さばきを一瞥すれば茶人の力量が歴然とするやうなものです。

 つぎに驚かされたのは、私がふと興味を引かれて取り上げた一冊の書物を見る や、あたかも古書目録に載つてゐるデータのやうに、これを記述し評価してみせ たことです。たとへば、「あぁ、その栗色の八折版はルソーの音楽事典だね。 ん…総仔牛革による時代装だけど、月並の装丁だし、ずいぶん陽焼けして背の革 がバサバサだ。おまけに花ぎれが欠けてるし、両下端もひどく擦り切れてゐて見 るも無惨だ。」と言ひつつ、おもむろに表紙を開いて、「1772年に出たルソー全 集の第十一巻か。でも、これはNからZまでの下巻だね。事典としてもアンコム プレ(不揃)ってわけだ。巻頭の遊び紙が無いし、巻末に何枚も収録されてゐる 楽譜の版画はたしかに貴重だけど、よく見れば、ほら、途中で図版Jが一葉欠け てるじゃないか。それにしても、ここに切り取つた跡がないのは変だなぁ…」と 頁をゆつくり捲つてゆきながら、「ほらっ、内部の用紙にはところどころに染み が目立つてゐるし、あっ! ここなんか虫食ひのトンネルがテクストの一部にか かつてゐる。…うぅん…(と小声で)500Fの値づけだけど、この状態の端本にし てはかなり高いね。いや、ぶったくりだ。せいぜい100Fがいいとこじゃないかな。 」と耳打ちするといつた具合です。

 若くしてすでに古書鑑定士さながらですが、かれの場合は見やう見まねで鑑定 ができるといふだけに留まらず、他の権威ある鑑定士が書いた目録記載事項の不 十分な点を批判する域にまで達してゐるのには、さらに驚かされました。たとへ ば、ある一流古書店の目録に載せられてゐた十九世紀の書物について、その現物 を一目見るや、「カタログには背革が日焼けして変色してゐると書いてあるけど、 とんでもない。この書物は茶色の表紙より若干うすい栗色の背革で敢へて装釘さ れてゐるのであつて、決して色褪せしたものではない」と看破したことがありま した。たしかに、言はれてよく見るれば、その通りなのです。一般に、目録に明 記されてゐる書物の状態といふのは、長所については声高に、短所についてはさ り気なく控へ目に語られることが多く、その点に注意を喚起するのは比較的容易 なことであると思ひますが、エマニュエルの指摘は、不用意な古書鑑定士によつ て悪い状態と断じられた書物の面目を回復させる肯定的な批判であつただけに、 ふかく印象に残つてゐます。

 ある書物が何であるか(著者、書名、発行地、出版元、刊行年など)について は、書物と付きあふ年月が長くなれば、それだけ書誌的な知識も増えて、その同 定も容易になつてくるでせう。これは学識の問題だからです。しかし、ある書物 が如何にあるか(装釘、用紙、インクなどのコンディション)については、(と りわけ一定の識閾を超えたところでは)だれもがこれに敏感に反応するわけでは ないやうです。といふのは、これが美的判断力としての趣味の問題だからです。 こちらは研鑚を積んで獲得される知識といふよりは、開発されるべき天賦の資質 のやうなもので、エマニュエルの場合は学識よりはむしろこの審美眼に秀でてゐ る愛書家であるやうに見受けられるのです。かれの一人暮らしのマンションを訪 ねて、その蔵書の一部を見せてもらつたとき、アンティークの書架にずらりと並 んでゐる溜め息の出るほど美しい書物にくらくらと眩暈を覚えたものです。シミ エ、マリウス・ミッシェル、カラヨン…といつた名だたる装釘家の手になる美装 本をひとつひとつ取り出して見せてもらひながら、それらの何処が如何に非凡な のかを実物を前にして具体的に納得させてもらつたことは、フランスの古書世界 に分け入らうとしてゐた当時の私にとつて本当に幸福でした。と同時に、書架以 外にほどんど家具といふものがなく、裸電球のもと生活臭の全くない寒々とした 部屋の雰囲気に或る種の病的なものを感じたことも、ここでつけ加へておくべき でせう。この愛書狂の悲哀を他山の石にすべきであると胆に銘じたものでした。

 ともあれ格好の指南役に恵まれたお蔭で、エマニュエルの書物を見る際の美的 感性が、幸か不幸かそのままこちらに乗り移つてきたやうで、それ以後は明らか に書物の状態を判定する基準が自分のなかで一変したことが自覚されました。以 前には極美本、美本、並本、痛み本といつた程度に書物の状態を見分けてゐたの ですが、今では微細な欠点にも敏感になつて、それまで極美本と思はれてゐたも のが並のランクにずるずると繰り下がり、真に極美の名に値する書物を見つける のが如何に難しいかを思ひ知りました。このやうに書物の物質的形状に囚はれて しまふことは、そんなことには無関心な読書家たちの白眼視するところでもあり ませう。しかし、百年二百年三百年といふ年月を経てなほ、装釘や用紙や活字と いつた書物を構成する諸要素のすべてが例外的に、いや奇跡的に完璧な状態を保 持してゐる書物がこの世には存在してゐるのだといふこと、そして、そのやうな ものを蒐集せずにはゐられない狂気じみた情熱をもつ人間もまた存在してゐるの だといふこと、それが理屈を超えた事実であることをフランスで改めて発見した 私は、いやでも愛書家の類型について考へざるをえなくなつたわけです。

 そもそも、ひとくちに愛書家といつても、書物の内容を愛するのか外形を愛す るのかで大きく二極に分かれるでせう。書物は元来が読むためのものであるから、 装釘やら用紙やらにこだはるのは本末を転倒してゐると考へる読書家は、極端な 場合には読めさへすればコピー用紙やモニターの画面であつても全く差し支へな いと言ふでありませうし、逆に、誰の何といふ作品を読むかといふことよりも誰 の如何なる装釘で読むかといふことを重視して、書物の素材面に注意を集中する 狭義の愛書家は、極端な場合には完璧な状態の美装本であれば中身など読めなく ても一向に構はないと言ふでありませう。同じ愛書家といつても、前者にとつて 書物とは畢竟、著者のメッセージを伝達するための手段にすぎないので、その愛 の対象は媒体としての書物それ自体ではなく、目的である知識の方でせう。知を 愛する者として、読書家は言葉の語源的な意味においてフィロゾーフ(愛知者) と言はれるべきです。これに対して、書かれた物としての書物それ自体を愛の対 象にするのが後者で、こちらは書物を愛する者といふ文字どほりの意味でビブリ オフィル(愛書家)と言はれるべきです。実際には、こよなく書物を愛する者た ちはこの両極の間を自在に揺れ動いてゐるのでありませう。あるいは、ビブリオ フィル・フィロゾフィーク(哲学的愛書家)といふ殆ど自己矛盾的な理想を空し く追ひ求めるやうなケース(場合=症例)もあるかも知れません。願はくは、対 極に位置する愛書家同士が互ひにその性向を否定しあはないやうに。書物の開示 する知的世界を愛すると言はうが、物としての書物を構成する感性的要素を愛で ると言はうが、いづれも本好きであるといふ点に変はりはないのですから。それ は丁度、天上のヴィーナスを愛でるプラトニストも、地上のヴィーナスを愛する エピキュリアンも、いづれも色好みであるといふ点に変はりはなく、たがひに啀 みあふ謂れなどないやうなものです。


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