佛蘭西古書通信  1996.10 (2) by 泰俊 


 前回はベルクソンに献呈された書物のことを書きましたが、今度は逆にベルクソン の方が献呈した書物をつひに入手しました。Ch. デュボスに贈つた小冊子です。これ はカタログで見つけて購入したものなので、掘り出し物ではありません。あいにく余 り状態の良い小冊子ではありませんでしたが、表紙の右上に青黒のインクで書かれた ベルクソンの筆跡は、知るひとぞ知るやうに、端正で美しいものでした。(ベルクソ ン自身筆相学に関心を持ち、みづからの筆跡を自分にとつて唯一満足のゆくものと語 つてもゐます。)この小冊子は『戦争の意義』と題されたもので、第一次世界大戦勃 発時にベルクソンの行なつた政治的発言を収めてゐます。その間の事情は藤村がその 『仏蘭西だより』(1914年10月15日づけ)で次のやうに書いてゐるとほりです。「哲学 者のベルクソンが『アカデミイ』の会合で独逸に対する仏蘭西の戦争は野蛮に対する 文明の戦争だと述べたのも、たしか其頃です。学問するもの藝術に携はるものゝ惨め さが斯うなるとしみじみ思はれました。」 ベルクソンの筆跡を撫でながらこの小冊 子を当時の雰囲気のなかで読んでゆくと、藤村のこの観察のかなり的確であることも 判つてきます。(ただし、ベルクソンの演説には藤村の言ふやうな「惨めさ」は殆ど 感じられませんでした。)かうして署名本は、確かにタイムマシンのやうにわれわれ を瞬間移動させて、その時その所に立ち会はせてくれるやうな気がするのです。

 思へば昔から署名本が好きで自分なりのコレクションをしてゐます。神田の河村で 50円均一の文庫本の棚から岩波や新潮角川の絶版ものや時にはアテネ文庫(ごく稀に は山本文庫)などを探しては集めてゐた学生時代に、ふとそれらのなかに著者が知人 に宛てて献呈したものがあることに気づき、以来その種のものに出くはすと、多少状 態の悪いものであつても貴重なものに思はれて、喜んで購入してきたのでした。パリ に来てからも献呈署名本は見つかり、V.クゥザン、E.マール、A.モロワ、G.デュ アメル、J.クリステヴァ、G.マルセル、G.ローデンバック、R.ユイグなど、主と して物故した作家のものを今のところざつと三、四十冊ほど集めました。これらは殆 ど皆、たまたま表紙を開いてみて署名を見つけたもので、さう易々と見つかるもので はありませんが、見つかるたびに何か運よく籤に当たつたやうな気がして嬉しくなり ます。

 署名入りの書物をたふとぶ気持ちは、趣味を同じくする者以外には結局のところ理 解しがたいものかも知れませんが、今その本能にも似た愛好癖がなにゆゑに生じるの かを反省してみますと、これには幾つかの理由が考へられるやうです。まづ、著者が 署名をした書物は、署名があるといふそれだけの理由で、他に大量に印刷されてゐる 同種の書物から区別されます。ことに著者が誰かに宛てて献呈したものの場合には、 その書物は一層個性的なものになり、まして著者による識語などが添へられてゐたり、 あるいは贈られた側も聞こえたひとで、かれの方でも面白い書き込みをしてゐたりす れば、さらに興味が増します。つまり書物に個性が欲しいわけで、しかも著者の権威 に由来する個性化が望ましいわけです。つぎに、献呈本の場合には、本文の誤植など が著者自身によつて訂正されてゐたり、ときには本文が書き替へられてゐたりするこ とがあつて、テクストの真正さといふ観点からもこれは貴重なものに思はれます。か なり以前に神田の愛書会か何かで、大拙先生が知友に贈られた書物をわづか数百円で 掘り出したことがありましたが、これは献辞に用ゐられたのと同じ青緑のインクで本 文の誤植が何ヶ所か訂正されてあるもので、大拙先生の親切心がじいんと伝はつてく るやうな気がしたことを思ひ出します。

 しかし、署名入りの書物をたふとぶ最大の理由は、少なくとも私にとつては、筆跡 が著者そのひとを表はすからです。ここでは文は人なりではなく字が人なりと言ひた いのです。すなはち筆跡とは、著者の心の状態が手の運動によつて(紙とインクとを 介して)物質的に定着したものに他なりません。黄眠道人なら漢字に象形文字の精霊 が宿ると言はれるところを、筆跡には書いた人の霊魂が宿るとでも言ひませうか。も ちろん著者の思想は活字媒体を介して十全にこれを汲みとることが可能ですから、書 物に著者の筆跡が残されてゐるからといつて、それだけ内容がよく理解されるわけで はありません。活字のみによつて著者の息吹が伝はるといふことは、誰もが認めざる をえない驚くべき事実であります。しかし、ここで問題なのは感性的世界から遊離し た抽象的精神に到達する以前の、言つてみれば著者の肌のぬくみのやうなものです。 その点で、筆跡といふものは、手に触れうるものがそのまま目に見えないものに繋が つてゆくやうな働きをするもののやうに思はれるのです。霊魂の受肉として、筆跡は そのまま人間存在の条件を教へてくれながら、著者を身近なものにしてくれる妙薬で あつて、そこに署名本の魔術的魅力があるのです。

 単なるフェティシズムとして片づけられもしませうが、信仰にも似たこの署名崇拝 の根はなかなか深いやうです。印鑑ではなくサインが法的な最終効力を有する西洋の 一国に暮らし(さういへば日本にもかつては花押の伝統がありました)、多くの教会 が聖遺物を崇め尊ぶのを目にすると、対象の一部分からその全体に到達しようとする この呪術的本能は今日でもなほ健在であると言へさうです。東洋でも仏舎利は美しい ガラスの容器に納められて塔に祀られてゐますし、禅の高僧の真筆は弟子にとつては 有り難い師そのひとです。イスタンブールのトプカピ宮殿には、なんとマホメットの 鼻毛まで永遠の宝物のように麗々しく陳列されてゐます。ヴォルテール自身の皮膚で 装丁された総革の『カンディード』の初版を所有するといふのが愛書家の究極の夢で あるなどと言はれれば(ビブリオフィルにとつての古典と言へるボーシャンの『古書 肆・愛書家便覧』(1884)にこの例が出てゐます)、これはグロテスクに過ぎるやうで すが、少なくとも好きな作家の筆跡の愛好くらゐであれば理解されなくもありますま い。この癖は詰まるところ本能である以上その理由をこのやうにくだくだ考へる必要 などなかつたのかも知れませんが、署名や献辞の入つた書物を紐解きつつ夜な夜な物 故した偉人たちの霊を反魂香のなかに呼び戻し、密かに彼らの魂と交信してゐる私の、 これはささやかな自己弁明でありました。


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