佛蘭西古書通信 1997.8 (3) by  泰俊 


 以前にしました装釘の話をもう少し続けませうか。署名が入らない普通の装 釘であつても、書物自体が古い場合には、時代装として貴重なものが幾らでも あります。たとへば、半年ほど前に二冊同時に手に入つた十六世紀の十六折小 型版は、一方が1585年にパリで刊行されたディオゲネス・ラエルティウスの『 ギリシア哲学者列伝』で、三方金・滑沢背の緑染め総モロッコ時代革装、他方 が1590年にリヨンで刊行されたスウェトニウスの『ローマ皇帝伝』で、三方海 泡文・脊柱背の朱染め総モロッコ時代革装になるものでした。いづれも今日ま で四百年以上も大切に架蔵されてきたと見えて、とても美しい状態を保つたも のですが、装釘年代は出版年より少し遅れて十七世紀初頭かと思はれます。漆 のやうな朱色とか玉虫のやうな緑色とか言つても伝へられない独特な光沢を放 つ当時の古革の質感は、これを手にして頁を繰るたびに現代の書物には求むべ くもない細やかな味はひを伝へてくれます。かういつた特殊な美感的媒体を前 にすると、物神崇拝の危険な魔力から逃れるのがなかなか困難です。ほぼ同じ 大きさのこの袖珍本二冊を見比べてみると、一方は極く滑らかにして、他方は 程よく荒さの残る革の鞣し具合といひ、またそれぞれに異なる様式の金箔押装 飾文様といひ、まことに対照的な装釘がなされてゐるので、ひよつとしたら同 じ人物が両者を同時期に誂へて装釘させたのではないかと思はせます。あるい は、後世の愛書家が一冊づつ蒐めて対にしたのかも知れません。いづれにせよ、 ともに小さな古活字で優に七百頁を超える伝記が、片手にすつぽり収まるやう なサイズに仕上げられてゐるところに、書物に対する当時の感性が偲ばれます。 もつとも、この「片手で読める本」といふのは、十八世紀あたりには特別な意 味合ひを帯びるやうになり(たとへば袖珍版で出版されたディドロの『不謹慎 な宝石』(1748)などは、左手に持つて密かに読めるとなれば、右手が空いて確 かに好都合だつたわけです)、一方でトマス・ア・ケムピスの『キリストに倣 ひて』などが同様の版型で立派に装釘されて来たことを考へ合はせると、書物 がつなぐ性と聖との不思議な関係について思ひが廻ります。

 しかし、掌に入るどころか、片手では持てないほど大きいフォリオ版も十六 世紀には既に広く行なはれてゐました。ヴァンヴの蚤の市で或る日、平台に山 積みされた雑書を掻き分けながら、文字通り掘り出した大版の書物は、薄手の 厚紙表紙に背をクロスで綴じただけの粗末な十九世紀の装釘本でした。ところ が、みすぼらしいこのフォリオ版は、端の擦り切れた表紙を開いてみると、意 外にも1587年にパリで刊行されたセネカの『哲学著作集』でした。外側はあり ふれた雑誌などの合本かと見えて、中身は余白も広く残された貴重な哲学のテ クストで、これに続けて同年出版の『修辞学論叢』が合本されてゐます。この 書物などは、外と内との釣合ひがいかにも悪いやうなので、もし事情が許すな ら、それ相応にヴェランなぞで装釘し直したいものです。ともあれ、このフォ リオといふサイズは、フーコーも言ふやうに、書物が表象としてではなく物と して自らの存在を主張してゐた時代の産物であつて、その存在性はいつも両手 にずつしりとくる書物自体の重さに実感されます。

 もう一冊、これは昨年の十月にブルゴーニュ地方のコート・ドールを車で回 つて、ロマネ・コンティなどの葡萄畑を見に行つたときのこと、昼休みに入つ たボーヌの町をそぞろに歩いてをりましたら、共和国通りに「本の博物館」と いふ看板の古書店を見つけ、ウィンドゥの中央に広げられてゐたフォリオ版の 表題頁に、プラトン『著作集』とあるのが目を引きました。よく見れば、これ は1586年にリヨンで出版されたフィチーノによる註釈本です。いつものことな がら当方の懐具合は控へ目にして慎ましやかでしたが、フィチーノ註ともなれ ば何としても「今ここで」これを入手しておかなければならない!と耳元で直 観が囁くので、同行の友人に少しばかり用立ててもらひ、三時に店が開くや飛 び込んで購入しました。そのをり、店のマダムとひとしきりこの書物について 話をしましたが、聞けば書誌や競売目録を調べてみてもこの版本が見つからな かつた由。見つからないがゆゑに、書物の状態から見積つて適当な値づけをし たといふことで、なるほど装釘には後世の補修が目立ち、マージンも幾分カッ トされ、おまけに紙魚のトンネルが僅かとはいへテクストにかかつてゐました が、そのお蔭でわたくしの手にも届く価格になつてゐたのですから幸運であつ たと言はねばなりません。パリに戻つてから調べてみると、確かにこの書物は 愛書家必携の書誌ブリュネには載つてゐないし、リヨンで刊行された書物を専 門的に網羅したボォドゥリエにさへ載つてゐません。国立図書館BNのカタロ グでもやはりこの版は見つからないのです。BNの持つてゐない稀少な版本と いふことで、ますます愛着を深めてこの書物の装釘をよく見直せば、鶯色に染 めた十六世紀当時のヴォーによる総革の原装が痛んでからは、十八世紀に表紙 の空押し装飾を残しながら背の部分のみを栗色のバザンで綴じ直して簡単な金 箔模様を加へ、さらにその背の頭部が欠損した十九世紀には別のバザンを上か ら膠で貼りつけて取り繕ひ、その後さらに表裏の三方端を補強するためにヴェ ランで白い縁取りが丁寧に施されて今日に至つてゐる…といふやうに補修の歴 史が読み取れます。どの修復も素人の技になる素朴なものですが、幾世を継い でこの書物を読みこんできた代々の学者たちが自分の手で大切に修繕したので もあらうかと思ふと、美装本とはほど遠いこの書物の装釘もそれなりに味はひ が深く、こちらはこのままにしておきたい気がいたします。

 それにしても、十六世紀の書物などが蒐集の射程に入つてくると、書物の古 さ自体がそれとして価値をもつのだ、といふことが素直に信じられてくるやう です。さうなると、テクストの内容や装釘の状態などはさて措いても、とにか く出版年の古いものが欲しくなる。どのくらゐまで昔の書物が手に入るものか しらん、といふことに関心が向いてくるわけです。勿論ここでも先立つものが あれば問題はないのですが、やはりそこは書物のみにて生くるにあらぬ者の限 界があるわけで、とくに妻帯者としては常に連れ合ひのご機嫌を損ねないやう、 そこは万全の配慮をしなければなりません。そのやうな境遇ですから、思ひ起 こせば断念を余儀なくされた書物の数々が脳裏をよぎります。とくに1502年の 刊年をもつアリストテレスの註解書は、おほかたの書誌に掲載されてゐない稀 覯書で、忘れられません。これはやはり十六折の小型版で現代ヴェランによる 後装ながら、用紙と印字の新鮮さは例外的な状態のものでした。今はどなたの 手に渡つてゐるやら、記してオマージュを捧げておきます。


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