佛蘭西古書通信 1997.9 (2) by  泰俊 


 書物の付加価値について少し書いてみませう。多くの人に読まれるべく量産され てきた書物は、流通機構のなかで消費者により買はれては読まれ、読まれては売ら れてきたのであり、さうして書物の使命が果たされてゐるのであれば、殊更そこで 書物の個体性に由来する付加的な価値などを問題とするには及ばないとも言へませ う。なるほど、書かれた思想内容が個性を帯びたものであるからといつて、これを 伝達する物質的媒体としての書物まで個別的偏差をもつ必要はないでせう。現にわ れわれは、たとへばレクラム文庫や岩波文庫のやうに簡素にして画一的な形式を備 へた書物のシリーズによつてでも、あまたの作家たちの独自な世界を十分に堪能す ることができます。しかし、たしかに読書中には書物の物質性を忘れて作品世界に 没入してゐるとは言ひながら、ふと気づけば手にしてゐる書物の用紙やら活字やら 装釘やらに意識が移つてゆくこともある以上、テクストの基体を構成する感性的要 素に無神経ではゐられなくなる、といふのも事実でせう。渡辺一夫がその随筆のな かで、自分は古書であれ新刊書であれ書物を開いてクンクンとその匂ひを嗅ぐ癖が あると書いてゐましたが、よくぞ言つてくれたものです。わたくしにも実はそのえ も言はれぬ香りゆゑに気に入つてゐる古書が何冊かあるのですが、愛書家諸氏には いかがでせう。視覚のみならず触覚や嗅覚といつた根源的感覚にさへ訴へるのが書 物といふものではないかと思ふにつけ、本は読むものだといふ自明の一側面を盾に、 書物の質料面を軽視もしくは無視しようとする読書家の頑強な態度には辟易させら れることがあるのです。とはいふものの、やはり他方で、内容のテクストをさて措 いて形式の装釘のみを追ひかけてゐる愛書狂の、正常なバランスを欠いた心理にも 滑稽なものを感じざるをえません。さて、かうして愛書家の意識は、書物の内容( テクスト)と形式(造本)との両極を行き来するのでありませうが、ここで書物の 一般的な付加価値といふものを考へてみると、明らかにそれは感性的諸要素からな る形式の側から生み出されてくるやうです。

 読まれてこそ書物といふ本来の面目にさらに付け加はる書物の余剰価値は、さま ざまな契機から構成されるでせう。『善本随想』(1948)の著者ヴィクトール・ミシ ェルは、出版社・テクスト・用紙・植字・レイアウト・印刷・装釘・挿絵などとい つた観点から良質の書物とは如何なるものか、そのひとつの基準を提示してくれて 教はることが多いのですが、わたくしはここで原理的にこれらの付加価値を整序し てみたいと思ひます。一体、書物を巡る世界は、著者・出版者・読者の三者によつ て形成されてゐると言へませう。著者は自らの考へを言語化し、出版者は言語化さ れたテクストを書物の形に具体化し、読者は書物の文字を介して著者の考へを辿り なほす、といふわけでせう。三者のいづれにおいても、書物の付加価値が問題にな るとすれば、それは内的思考が外化されて物質的に固定されたものに関して以外に ありえません。すなはち、第一の著者については、まづ自筆の原稿、つぎに訂正や 書込のある自家版、さらには書簡等綴込本や献呈署名本などが、第二の出版者につ いては(装釘者もしくは造本家あるいは挿絵画家等もこの項に含めるとして)、一 般には品切や絶版の書物が、しかしやはり、用紙や活字や印刷や装釘や、場合によ つては挿絵などの点で優れた所謂豪華版乃至限定版が、第三の読者については、旧 蔵者が著名人もしくは特殊なマニアであつて、その出所が紋章や蔵書票もしくは献 辞によつて知られるやうな、あるいは愛読の証となる書入やら挟込やら貼込やらの 見られるやうな版本が、個性的な価値をもつものとして扱はれますでせう。これら 三者のいづれに重きを置くかは愛書家によつて異なつてゐてよいはずです。エマニ ュエルなどは明らかに出版者の項を重視してゐるやうですが、わたくしはどちらか と言へば著者の項に力点を置きたい気がいたします。また、比類なき旧蔵者として 誰よりもまづ自分自身を考へ、みづからの書き込みを何より貴重なものと見る読書 家もゐるでせう。わたくしの第一の友である三浦俊彦などは、いかなる文人の書き 込みよりも自分の書き込みの方を重んずる部類の読書家であらうと思ひますが、権 威と看做されるすべてのものと対等な立場にたつて読み且つ考へるその開かれた態 度にわたくしは常に勇気を鼓舞されてきました。ちなみに、分析哲学のスペシャリ ストでありつつ作家としても活躍してゐる三浦がわたくしに献呈してくれた多くの 小説には、かたつむりやなめくじなど軟体動物のヌルヌルとネバネバした独特の挿 絵が金銀多色ペンで描かれてゐますが、これらはフランス流に言へば、著者本であ る第一番本に次ぐ第二番もしくは第三番本であり、実にわたくしの宝物になつてゐ ます。『M色のS景』をはじめとするこの奇才の愛すべき諸作品は、「言語的アク ロバット」とも言ふべき文章の華麗な離れ技が読む者をじんじんと痺れさせてくれ ますが、その創作の背後には常に「可能世界の虚構論」なる彼自身の哲学的立場が 貫かれてをり、浅くも深くも味はへます。この場をかりて広く推奨しておきませう。


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