佛蘭西古書通信 1996.12 (3) by  泰俊 


 散人さんから先日もらつた私信に、筆跡についての興味深い意見がありました。手書きの日記帳などを読み返してみると、自分の筆跡にその時々の気分が反映してゐるやうで面白いこと、しかし、長い間には筆跡が無意識のうちにいろいろ変はつてゐて恐い気がすること、そのせゐか、手紙になるべく個性が残らないやうに今ではほぼ完全に機械化してゐること…。 なるほど、このやうな気持ちは私にも非常によく理解できます。現に私自身もやはり出来るだけ筆跡を残さないやうにしてゐるからです。しかし私としては、なぜ筆跡がかくも恐いのか、それを踏み込んで問ふてみたいのです。自分が悪筆なので人に見られたくないから、といふ理由が一応は考へられますが、それにしても、人それぞれに違つてゐてよいはずの筆跡に対して、何故このやうに羞恥心にも似た気持ちが生ずるのでせう。おそらくは心の深層に、筆跡が精神としての自己(「あんな字が書きたい」といふ理想)と物質としての自己(「こんな字になつてしまつた」といふ現実)との乖離を図らずも露呈しながら、肉体を備へた魂といふ自己の二重の在り様を赤裸々に伝達してしまふことに対する暗黙の了解があり(この点でオートグラフ(自筆)といふ西洋語より「肉筆」といふ日本語の方がぴつたりくるやうです)、更にはその非隠蔽性に対する無意識的な危惧があるからではないでせうか。つまり、恥しさの意識は自己分裂の度合に比例するとでも言ひませうか。さうしてみると、逆説的にも、筆跡のもつ個性を消したいと思つてゐる人ほど、自分をさらけ出さずにはゐない筆跡の魔術的効力を信じてゐると言ひうるのではないでせうか。

 手塚治虫が晩年に、歳をとつて若い頃のやうに自由にマルが描けなくなつたのでキャラクターの顔が丸くなくなつたと述懐してゐました。これは寄る年波の限界を託つ言葉のやうにも受け取れますが、描きたくてもマルが描けなくなつたことを否定的に甘受する代はりに、この不器用を活かして新たなキャラクターの創出へと踏み込んでいつたところに、この漫画家の偉大があります。それは丁度、モーツァルトが敢へて玩具のピアノのために作曲したときに、オモチャの楽器のもつ欠点が逆に長所に転ずるやうに工夫を凝らしたやうなものです。すなはち、桎梏としての肉体や物質の課するマイナスの条件を霊魂や精神の自由な飛躍のためにプラスに活用する知恵をかれらはもつてゐて、これを創造の言はば踏み台にしたわけです。創造するかれらに自己分裂や羞恥の意識は微塵もなかつたのではないでせうか。

 筆跡の意味も同様の見地から考へることができますでせう。筆跡のもつ物質性(−)と精神性(+)といふ二面がもはや引き裂かれてゐなくなるとき、つまり、筆跡に対する本人の恥しさが消えるとき、筆跡は面白い。魂の状態と手の運動とがひとつのものでしかなくなつてゐるとき、筆跡は真に個性を有するものとなり、単に思想内容を伝達する手段ではなくして、それ自体が創造性を帯びた自己目的として、堂々と存在し始めるやうに思へるのです。弘法大師や道元禅師、あるいは良寛さんなどの真筆にふれるとき、わたしはこのことを抽象的な理屈ではなく具体的な事実として体験してゐるやうに思ひます。また、かれらほど悟りの高みに達することはないにしても、名だたる文人の書にそれぞれ独特の味はひがあつて、それゆゑにこれが珍重されてゐるのも謂れのないことではありますまい。

 自筆のオリジナルの代はりにそのコピーであつても、或る程度までは筆跡の魔術的魅力を味はふことができるやうに思ひます。たとへば、わたしにとつて日夏の単行本を集める面白さのひとつはそこにあります。研究者用の造本とも言ふべき河出の重たい全集版とは違つて、日夏の誂へた瀟洒な単行本の多くには、表題その他に墨や朱の自筆文字が自在に配されてをり、選定された用紙や活字とも美事に調和のとれた仕上がりになつてゐます。『風塵静寂文』などは、たしか烏丸光弘氏による装釘であつたかと思ひますが、オブジェとしての書物といふ観点から見て絶妙きはまりなく、わたしの最も好きな造本のひとつです。あれほど繊細な神経が行き届いてゐる造りの本はフランスでは見たことがありません。いや、正確に言ふと、全体としての造本効果から見て、これに匹敵し、あるいはこれより豪華なものが無いわけではないのですが、筆跡の複写を造本の一要素として美的に組み込むやうな例は寡聞にして知りません。ルリュール・シィニエ(署名入装釘)の長い伝統があるフランスの美装本にはつねづね驚嘆させられますが、振り返れば日本にも誇るべきものがあると言ふべきです。(日夏ものの魅力については是非とも貝塚さんのご意見を伺ひたいところです。)

 とはいへ、自筆のコピーはやはりオリジナルではない以上、そこには程度の差異ではなく本性の差異を認めないわけにはいきません。といふのも、コピーは同じものが数多くありえますが、オリジナルはこの世に一つしかありえないからです。しかも、コピーといふのはオリジナルによつてのみ産み出されるものです。すなはち、一枚のオリジナルがあればコピーは何枚でも作れますが、逆にコピーを何枚あつめてきても、元のオリジナルは回復しえないのです。したがつて、オリジナルは、ほかに掛け替へが無いといふ唯一性においてのみならず、多くのコピーの源泉になるといふ産出性において、絶対的価値があります。日夏の単行本の場合でも、いくら直筆の複写が添へられてゐるとはいへ、それだけではどうも満足しきれず、やはりどうしても本人が当の書物に直に揮亳したものが欲しくなるのはそれゆゑです。

 しかし、このやうにコピーに対するオリジナルの優位を主張するのは、いまや時代錯誤かもしれません。複製藝術の時代にあつて、写真などはオリジナルとコピーとの差異が解消する方向にありますし、現代作家の多くはワープロを使つて原稿を書くやうになつたので、そこにオリジナルとコピーとを区別しようとするのは無意味であるばかりでなく不可能です。限られた人々だけがオリジナルを専有し、他の大多数の人々はコピーに甘んずるやうな時代は過ぎて、いまでは万人がオリジナル=コピーを享受できるやうになつてきたとも言へませう。考へてみれば、活版印刷の発明による書物の大量生産の歴史自体が既に、この民主的精神の高揚を雄弁に物語つてゐます。富の公平な配分といふ理想を実現しようとするこのやうな動向に対して、誰が異を唱へるでせうか。そればかりではありません。オリジナル礼讃に対する反論は別な角度からも可能です。


[続きを読む] 1996年12月(4)

[前回のものを読む] 1996年12月(2)


佛蘭西古書通信目次

愛書家ホームページ


***** french5.htm Ver0.11(1997.2.12) *****
Copyright (C) 1997  ALL RIGHTS RESERVED.