佛蘭西古書通信 1996.12 (4) by  泰俊 


 小谷木さんが四月に書評なさつた『子供より古書が大事と思ひたい』のなかで、鹿島茂氏が「複製藝術の味はひ方」を教へてくれてゐます。氏によれば、十九世紀の挿絵本(イリュストレ・ロマンティーク)の多くに使はれてゐる木口木版画は、挿絵画家が彫り師の協力を得て製作するので、オリジナルに「限りなく近い」ことを目指す職人の匿名性にその妙味があるのに対して、十八世紀末に発明され、二十世紀の挿絵本(イリュストレ・モデルヌ)で復活した石版画の方は、画家が自分自身で版を製作できるので、オリジナルと「同じ」ものを複製することになる藝術家の個性にその魅力がある。この二種類の複製藝術に対して鹿島氏は、彫り師や刷り師の介在する木口木版画の媒介性(つまりオリジナルに限りなく近いこと)には愛着をもつが、画家が他人の腕を借りない石版画の直接性(つまりオリジナルと同じこと)には「ある種の居心地の悪さ」を感じる、と書いてをられます。なるほど! 女性の肉体そのものよりも寧ろ「下着で隠された肉体」といふものに愛着を感じるフェティシズムにも似た、木口木版画を愛好するこのデリケートな感性は、暗示によるニュアンスを重んずる言はば粋な意識であつて、わたしにもよく分かる気がいたします。別な比喩を用ゐるなら、目標に限りなく接近してゆくが、しかし永久にそれへ到達することのないゼノンの矢のごとく、この美意識はつねに対象との距離を紙一重に保ちつつ、自己を失ふといふことがありません。

 一方で、オリジナルとコピーとが区別されなくなり、オリジナルの特権的地位が失はれようとしてゐる技術時代の風潮があり、また他方で、オリジナルの直接性や個性よりもコピーの間接性や匿名性の方を好む高度に洗練された審美的感性があることを認めた上で、しかし私としては猶、オリジナルのもつ絶対的価値について語ることがもはや無意味であるとは思へないのです。「オリジナル信仰」と一言で片づけられない何かがあるやうに思ふのです。感動を与へてくれる作品に出会つたとき、その作家がどんな顔をしてゐて、どんな字を書くのだらう? と知りたくなるのは何故なのか。かかる読者の要望に応へるかのやうに、多くの文学全集本の口絵には作家の小影や自筆原稿の複写が載つてゐるのは何故なのか。作家の容貌やら筆跡やらを知りたいといふのは、その作家の個性を具体的な形で知りたいといふことでせう。人間ひとりひとりの顔がそれぞれ違つてゐるのは、各人の個性が具体的に現はれてゐるからであり、このことを裏返して言へば、顔つきを見ることによつてその人のその人らしさが分かるといふことです。いや本当は、目に見えない内的性格と目に見える外的容貌とは盾の両面なのではないか(今わたしが思ひ浮かべてゐるのは、三日も書を読まないと君子の面貌も醜くなる、と教へてくれた石川淳のことです)。筆跡も同様で、「字は人なり」と言ふことができませう(ちなみに「文は人なり」は博物学者ビュフォンの言葉です)。その人らしい顔とか、その人らしい字とか感じることができるのは、それらが個性の表情に他ならないからでせう。

 要するに、大切なのはひとりひとりの他に還元できない個性で、これを尊重する態度がオリジナルを重視することの根柢にあるのではないか。人間コピーとも言ふべきクローン人間は、みな同じ顔をし、同じ字を書くのでせうが、そのやうな個性をもたない人々からなる社会など想像するだに恐ろしい。のつぺらぼうは、顔=個性が無いといふ点で、一つ目小僧や三つ目鬼などより心底からずつと怖いやうな気がいたします。オリジナルが見つからなくても、あるいはコピーの方が好ましくても、いづれにせよ常にオリジナルの存在が意識されてゐることは確かです。なぜでせうか。人間は個的存在としては自分自身がオリジナルであつて、オリジナルとして自己は、もう一つのオリジナル、すなはち他者といふ別の個的存在と文字どほり対面することを欲し、さらに、その他者に魅せられた場合には、これと一体化しようと欲する傾向があるからだと思ひます。そのとき、自己の対面する個性が多くのひとにも偉大なものと認められた場合には、その個性の尊重は宗教的なものになるでせう。かかる個性との一体化を可能にすると信じさせるオリジナルの残滓がつひに神聖視されることになるでせう。聖遺物崇拝の始まりです。かうして個性への直接的接近を可能にするといふ点で、オリジナルは常に尊ばれ続けざるを得ないやうに思ふのです。

 書物を蒐集するといふ不思議な情熱において、このやうに間接的なもの(コピー)に留まらず直接的なもの(オリジナル)に向かはうとする求心性には、しかし、大きな障害があります。収集対象の価値が相対的なものでなく絶対的なものである以上、その市場価値の形成が通常の物品の場合とは異なるのです。オークションにかけられたゴッホの絵の落札価格が三百億円であるとして、その値段が果たして高いのか安いのか言ひ難いのは、その絵のもつ価値が絶対的であると看做されてゐるからです。しかし、絶対的であるにも拘らず一定の価格に落ち着くところがまた不思議なところです。多くの人の主観的かつ絶対的価値がぶつかり合ふところに相場といふものができてくるのでせうが、その相場が大抵の場合、こちらの予算をオーヴァーしてゐるといふわけです。つまり、たとへば日夏の献呈署名本は高すぎて買へない(いや、買はうと思へば買へるが、どうも相場では買はうといふ気になれない)。しかし、このやうな経済的障害を前にしても愛書家の情熱は怯むどころか更に燃え立つてくるから不思議です。向かうから幸運を呼びこむ知恵はかうして愛書家の身につくやうになるのでせう。


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